第四百五十六話 かな恵の勇気
「どうしたんだ、かな恵? 大事な対局の前だろ? 俺と話していていいのか?」
かな恵表情には、焦りと不安の色がこめられていた。たぶん、準決勝前で不安だったのだろう。
小刻みに震えている。
「はい、どうしても兄さんとお話がしたかったんです。ここで話さなければ、たぶん絶対後悔すると思ったんです」
「将棋のこと?」
「そうでもあるし、そうじゃないかもしれません」
「どういうこと?」
「先に謝っておきます。こんな大事な時に、こんなことを言って本当にごめんなさい。でも、もう嘘はつきたくないんです。自分自身にも…… 大事な仲間のみんなのためにも」
かな恵の表情から不安の色は消えて、覚悟を固めたものになる。
俺は身構えた……
もしかしたら……
「私は、やっと気がついたんです。団体戦の準決勝から兄さんが、桂太さんの将棋がずっと遠くに行ってしまって…… やっと、やっと、自分の気持ちに…… 正直になれます」
「お、い、か、な……」
俺は動揺して、かな恵の言葉を止めようとした。これを聞いてしまったら、たぶん引き返せない。
※
「わたしのこと…… 女の子として好きですか?」
「さびしがりな自分を支えてくれる人。将棋を指す理由をくれる人。ずっとずっと一緒にいたいひと……」
「最初は家族としてだと思っていました。でも、兄さんとしての存在が大きくなればなるほど、違う感情も見え始めてきて……いろんな気持ちがせめぎあって……わからなくなっちゃいました」
「でも、少なくとも一度は、桂太さんのこと、好きかもって思ったこと、ありますよ……」
※
合宿の暴走したかな恵のことを思いだす。
かな恵が導き出した答えは、あの夜の続きを紡ぐものだった。
「私は、桂太さんが好きです」
「それは、兄妹として、家族として、だよな」
「いいえ、私はあなたを、異性として、男の人として、好きなんです。だから、ここではもう、兄さんなんて、呼びません。私にとってのあなたは、兄さんじゃなくて、桂太さんなんですよ」
「……」
俺は、何も言うことができなかった。ここで、かな恵に何か言ってしまえば、それは俺たちにとってはパンドラの箱だから。
「どうして、俺なんだよ……」
「あなたしか、いないからです。私の将棋は、お父さんの死で終わるはずだった。その後は、本当に抜け殻のようなものだった。でも、あなたが私に意味をくれたんです。将棋の楽しさや、誰かと結び付けてくれるすばらしさを教えてくれたんです。あなたがいなければ、葵ちゃんのような同級生の天才的な女の子と親友になんかなれなかった。部長と競うことができなかった。文人先輩みたいに、絶対にあきらめないすごい人とも出会わなかった。お父さんと、盤上で会うこともできなかった。全部、全部、桂太さんのせいなんですよ。桂太さんと出会えたこの4カ月は、私にとっては無意味に生きてきた何年間にも、負けない大事な大事な宝物なんです。ネット将棋という、限られた世界にしかいなかった私を広い世界に連れ出してくれた。そこまでしてくれた人を、好きにならないわけがないじゃないですか……」
「かな恵……」
「だからこそ、私はここで言わなきゃいけないんです。兄さん、どうして、そんなに苦しそうに将棋をするんですか? 昔の自分に胸を張って言えますか。俺はすごい将棋を指してる。将棋をしていて楽しいって、言えますか?」
「……」
何も答えることはできなかった。この沈黙は否定を意味している。
「私は、将棋をして笑っている桂太さんが大好きなんです。苦しんでいるあなたなんて、あなたじゃない」
「だけど、さ」
俺の言い訳を、かな恵は力強く遮った。
「だから、今回は私の番です。地区大会の個人戦のお返しですよ」
その力強さとは裏腹に、彼女の表情はとても柔らかな笑顔だった。
「"今日は私の将棋をずっと見ていてください。この大会、私は桂太さんのために戦います"」
「あっ……」
俺の言葉は続かなかった。
だって、それは、かつて俺が言った言葉と瓜二つで……
だって、あの時のよう希望に満ちていて……
だって、おれが失ってしまったものをかな恵は持っていたから……
「桂太さん、私はあなたが大好きです。だから、迎えに来てください。決勝で待ってます」
そして、俺の答えを聞かずに彼女は行ってしまう。その儚げながら、勇ましい後姿を、俺はただ見つめていることしかできなかった。




