第四百十四話 愛しの
葵side
おかしい。
こちらが優勢なはずなのに……
駒が前に進まない。
私が一直線の変化に向かおうとすると、相手の人はするっと迂回して、私の道からはどんどんと離れていってしまう。何度も道を修正しようとしているのに、道はドンドンと細くなり、そしてグルグルと同じ場所をたどっていく。
そして、駒が前に進まない。
部長のような、泥沼が目の前に出現する。
でも、部長のような沼ではないような。部長との終盤戦は、速度は遅くても、前には進めていた。でも、今回の陣形は、まったく前に進めない。どうして?
倉川さんの陣形は、私の攻撃の手を利用してドンドン穴熊を一方的に固くする作戦だった。
それはまるで、すべてを飲みこむ暗黒の空間となって、私の駒たちを飲みこんでいく。友達を無くす手であり、曲線的な展開。これは経験値がもっとも影響する状況だ。県大会の個人戦で、かな恵ちゃんに負けたのもこれが原因。
そして、私の最大の弱点は、経験値が影響するものであって、即効性のある対策はない。
だって、それは将棋をしていく時間に影響されるから。
時間だけは、誰にでも平等。新人でも、ベテランでも、時間という檻には逆らうことができない。このままいけば逆転される。弱点をごまかすために、直線的な計算速度は、前回の県大会よりもさらに磨いてきたつもりなのに。
倉川さんの修正力は、コンクリートのような舗装された道でも、獣道にしてしまう腕力があった。
舐めていたわけでは、決してない。でも、これが何年も将棋に賭けてきた人間の意地。
こうなったら、飲みこまれる前に、無理やりこじ開けるしかない。私は、ダークホールの引力をふり払うように、駒を前に進めた。
時間が作り出す引力には、負けたくない。それを言い訳にしてはダメだから。相手の人が、すべてをかけた努力を侮辱してはいけないのだから。
※
教育大付属side
「すごいな、倉川さんがここまで粘るところはじめて見た」
豊田がそう言って感心している。俺も同感だ。部長として、そして、恋人として、長年ペアを組んできたのに、倉川にこんな一面があるなんて思わなかった。
あいつは、とても努力家だ。たしかに、相田の方が将棋に対して一途に努力していた。だけど、倉川は、部全体のことを考えて、雑用やコミュニケーションに気をつかってくれて、俺たちが将棋に専念しやすい環境を作ってくれた。
もし、倉川が、ずっと将棋だけに専念できる環境だったら……
俺が部長として、もう少しうまくフォローできていたら……
もっと早くにスランプから抜け出させていたのかもしれないのに。
だからこそ、俺はあいつと同じ大学に入学して、これからもずっと将棋を指していきたい。
あいつは、この友達を無くすかのような手は嫌いなはずだ。でも、これを指した。つまり、もっとみんなで将棋を指したいっていう素直な気持ちだ。
勝負師としては優しすぎる。
プロにはなれなかった修行者によくかけられる称号だ。
でも、これはアマチュアの世界。
優しすぎることが強みでもある。
特にこういう団体戦の勝負では……
たぶん、あずさには、この対局が高校生活の最高の棋譜になる。
そして、源さんは頭を下げた。投了だ。
「あれ~犬養部長。愛しの倉川先輩の頑張りに感激してます?」
またこいつか。
「あんまり茶化すな」
「"愛しの"については、否定しないんですね。あまーい」




