第三七一話 はじまりの夜
<かな恵side>
私は、窓から外を見ていた。ホテルの外はまだまだ暑い。私は、少しだけ冷房の温度を下げて、空をみる。都会の空は、やはりなにも見えない。辛うじて、月だけが私を見つけてくれている。今の時点では、私は誰にも認識されていない。兄さんに出会う前の私に戻った気分だ。
私は、兄さんに会う前まではからっぽだった。お父さんがいなくなって、お母さんは仕事で忙しくて、近くにあるのは将棋だけ。それも、架空世界の将棋道場だけが、私の居場所だった。
<kana kana>
本名をただ繰り返すだけの、ハンドルネーム。私にとっては、その電脳道場で将棋ができればよかった。だから、名前も適当でよかった。そんなのは空っぽな私の代わりになる単なる記号であればよかったんだから。
でも、その空っぽな記号が、私に幸せを運んできてくれた。最初の顔合わせの時は、彼はとても優しく私に接してくれた。偶然にも、私たちは同じ趣味を持っていて、運命のように架空世界でもめぐり合った。現実で出会ったことが奇跡なのに、さらに奇跡を私たちは引き起こしたのだ。
将棋道場48
兄さんのアカウントは、本当に独特な将棋を指していた。何度か戦ううちに、疑念は確信に変わる。
だって、あんなに古い将棋に固執する有段者なんて滅多にいなかったから。
相居飛車なら基本的に"矢倉"
粘り強い受けを基軸とした終盤勝負の棋風。
まるで、数十年前の将棋の流行を体現しているようなひとだった。
そんなひと、彼以外にいるわけがない。
何度もチャットした。にぶい彼は、私が義理の妹だと全然気がつかなかったけど。今でもわかっているかわからない。
地区大会の団体戦。
私は全然活躍できなかった。空っぽな私に戻ってしまったような、そんな情けない私をまた色づく世界に戻してくれたのは、桂太さんだった。
何もなかったはずの私に、中身をくれて、世界が鮮やかな色に満ちていることを教えてくれた。
ひとりぼっちだったはずの私の周りには、いつの間にか兄さんがいて、部長がいて、葵ちゃんがいて、文人先輩がいて、高柳先生がいるようになった。
彼が私の世界を変えてしまった。
(少しくらい、責任取ってもらいますからね、桂太さん)
私はひとつの決心を胸に明日の大会に臨む。
邪魔するひとは、みんな、倒す。




