第三十一話 おとこの意地②
「文人が飛車を振った……」
おれは、驚きの声をあげた。たしかに練習将棋の時に、あいつが何度か振り飛車を採用したことはある、でも、この1発勝負の実戦でそれをやるとは、思わなかった。特に、角交換四間飛車のような癖の強い戦法は、思い付きでやるもんではない。事前のしっかりした準備が必要だ。
 
二人の対局は、ゆったりとしたペースで進んでいく。文人が、美濃囲い。萩生さんが、矢倉囲いを採用していた。ここまでは文人の作戦勝ちと言えるだろう。
 
角交換をしたことで、四間飛車キラーの穴熊は採用できずに、不自然な形ではないようにするためには、矢倉を採用することが多いが、これは縦からの攻撃には強いが、横からの攻撃にはかなり弱い。振り飛車との戦いは、横からの攻撃をお互いにおこなうので、その違いから文人が少し有利になったと言えるだろう。
 
ただ、萩生さんも強豪だ。それくらいは承知の上。あとからまくってくると決まっている。
 
文人は、陣形を整えると、飛車を移動させて、棒銀の構えをみせる。
 
「はじまるね」
高柳先生がそう言った。おれもうなづく。
 
※
 
おれは焦っていた。作戦がうまくいき、少しだけ有利な局面を作ることができたが、やはり萩生さんは手練れ。すぐに、陣形を整えておれの攻撃に対応してくる。おれの、逆棒銀は完全に押しこまれていた。
 
こうなると、序盤で稼いだ点数なんて関係なくなる。手をパスしているおれが圧倒的に不利になるのだ。萩生さんは、じわじわとおれの陣形をくずしにくる。
 
香車や桂馬が相手にとられてしまった。
おれもなんとか敵陣に飛車を突入させたが、なかなか王の前までは進むことができない。
 
「焦るな。大丈夫だ。守備陣は、おれのほうが有利だし、じっくり攻撃をしていけば……」
しかし、萩生さんは、そんな悠長な態度を許してはくれなかった。美濃囲いの前方に香車と桂馬をうちこんできたのだった。
 
「くそ」
内心で、おれは舌打ちをする。敵はおれの守備陣の最も弱いところを狙ってきた。美濃囲いは、上からの圧力に非常に弱いのだ。なんとか、しなければ……。思考を整えようとするも無情にも敵の攻撃ははじまってしまった。
 
砲撃がはじまるやいなや、おれの防御陣はズタズタになっていく。なんとか、手駒を自陣にはりつけて、その場をしのいでいく。しかし、横からは敵の飛車が目を光らせていて、隙を狙っている。崩壊は時間の問題だ。
 
やっぱり、ダメだったのか。おれが、部長や桂太の真似をしても。この角交換四間飛車だってそうだ。部長や桂太に嫉妬しながらも、結局は彼らにあこがれている中途半端な自分の象徴みたいなものだ。
 
上を見た。光が目ににじんでいる。
その時、部長と桂太とおれで話していた内容を思い出した。
 
※
 
「ねぇ、ふたりとも、わたしの好きな将棋の格言ってわかる?」
「なんですか、クイズですか? じゃあ、「居玉は避けろ」で」
桂太が先に答えた。守備が好きな部長の好きそうな格言だ。
「じゃあ、「端歩はこころの余裕」かな」
 
「たしかに、それも近いけどはずれ」
部長はいたずらな笑顔でそう言った。
 
「正解は……「助からないと思っても、助かっている」でした」
 
※
 
「助からないと思っても、助かっている、か……」
おれは再び盤を見た。もうすぐ秒読みだ。それまでになんとか糸口を見つけたい。おれは、意識を失うほど盤に集中した。
 
そして、駒台にいた角を自陣にうちつける。
その角の効きは、敵の龍を的確にとらえて、いると同時に、敵陣の守備のかなめである金をも照準にとられていた。
 
萩生さんは、少し考えて顔をゆがませる。
その後、
「負けました」
短くそう言った。
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矢倉囲い……
主に、居飛車同士の戦い方で用いられる守りかた。
今回のように、対振り飛車で用いられるのは、緊急避難的な意味合いが強い。
金と銀の密集地帯を王の右上に作るため、縦からの攻撃には強いが、横からの攻撃には弱い。
逆棒銀……
角交換四間飛車や向かい飛車で用いられる戦い方。
本来、居飛車側から仕掛ける棒銀を、逆に振り飛車側から仕掛ける。




