第三百八話 早囲い
部長が、矢倉を使う。こんなことは、今まで一度もなかったはずだ。秘密裏に研究し続けていたのか。一体、なんのために?
「それはね、桂太くん。あなたと真剣勝負がしたかったからよ」
「エスパーですかっ?」
「顔にそう書いてあった。どうして、矢倉を採用したんだって? 聞きたそうな顔……」
「真剣勝負、か」
「そう、私は、あなたの得意戦法で、あなたと真剣に戦ってみたかった。そうすれば、自分の知らないあなたの一面を見ることができると思ったから」
「うん、ありがとうございます」
「どうして、ありがたがるのよ?」
「俺のことを真剣に考えてくれて、本当に嬉しかったからです」
「あなたのことは、ずっと真剣に考えているわ。だから、本気できなさい。受け潰してあげるから」
「こわいな~、師匠は……」
一番怖いのは、この未知数の力を持っている部長がはたして、どこまで矢倉を研究しつくているのかだ。
実は、矢倉は、四間飛車使いと相性がいい。
例えば、昭和の大名人だった「大山」永世名人は、四間飛車党になる前は、矢倉使いとしてタイトル戦で無双していた。
数々の大発見をしてきた序盤の革命家である四間飛車の専門家は、「矢倉」においても新しい戦法を発見して、自分の名前がついた矢倉の戦法を作り出してしまった。
さらに、矢倉は粘りやすい。部長の受けの力が生かしやすい戦型だ。
この理屈通りなら、部長の矢倉はたぶんめちゃくちゃ強い。
俺の経験値を上回っているかどうか。
部長のことだ。たぶん、ネット将棋で、秘密の特訓をしていたんだと思う。
必要以上に恐れるな。
恐れが思考を鈍らせる。
俺は、とりあえず矢倉を作るための陣形を作る。後手である俺には、部長の矢倉が完成する前に急戦で一気に攻め潰すか、持久戦でお互いに矢倉を作ってがっつり戦うかどうかの選択権がある。
どちらを選ぶかは、もう決まっていた。
お互いにがっつり組んで、矢倉戦を堪能する。憧れの人が、俺のために準備してくれたんだ。
俺もそれをじっくり味わいたい。
あとは経験値の差で勝負するしかない。俺が部長を上回れる可能性があるのはそこしかないのだから。
部長の次の一手を待つ。
部長は、俺にとっては意表の手を繰り出す。しかし、この一手は的確な研究がなければ指せない一手だった。
俺たちの角がにらみ合いをはじめたのだ。まだ、矢倉も完成していないのに……
「これは脇システム……」
「そう、お互いの角がにらみ合ってしまう将棋。さらに、局面によっては、詰みまでの手順が見つかっている激しい将棋」
「まさか、部長。あなたの狙いは……」
「さすがだね、桂太くん。気がついちゃったか。そう私の狙いは……」
「「矢倉藤井システム」」
※
「矢倉藤井システム」
藤井矢倉とも称されるその戦法は、プロの将棋界に激震を与えた戦法である。
この戦法は、従来あったいくつもの戦法を組み合わせたものである。
組むまでにスキが生じやすいが、一手早く矢倉に組むことができる「矢倉早囲い」。
お互いに角がにらみあって、けん制し合う研究勝負になりやすい「脇システム」。
江戸時代に考えられたが、時代の流れで忘れ去られていった「片矢倉」。
この矢倉定跡の傍流にいた3つの戦法を組み合わせることによって、創られた革命は矢倉の本流に躍り出たのだった。従来の矢倉の王道戦法「3七銀戦法」やその発展形である「4六銀3七桂戦法」がソフトの影響で下火になっている現状では、一時期、孤軍奮闘して矢倉を支えていた。
名前の由来になっている藤井九段は、もともと四間飛車の専門家として、数多くの定跡に影響を与えて、革新的な戦法をいくつも生み出してきた。
藤井九段も部長も、ふたりとも四間飛車の専門家だ。
ならば、部長は俺以上に矢倉に適性があるんじゃないか。
疑念が深まる。
だが、諦めるわけにはいかない。
ここで矢倉が敗れた場合は、俺のプライドがずたずたになってしまう。
部長はそれも狙って、勝ちに来たのだろう。
ここで負けるわけにはいかない。




