第三百五話 最後のお願いと決着
部長が狙いすました一手を打った時、世界は激変した。
▲2四桂
これが私の陣形の致命傷となっていた。この後に続く攻撃によって、私の玉は、完全に包囲されてしまったのだ。
「玉は包み込むように寄せろ」
将棋の基本的な格言通りに私は敗北を突きつけられた。こんな極限状態で、基本に忠実な一手が指せる。それが、部長の強さだ。私と違って、何年も真摯に将棋に向き合って作られた確かな基礎力。
派手な一手こそないのに、王道にしたがった確かな受けの力。
大乱戦において、正着を指し続けることができる意思と読み。
敵ながら、どうしてこんなに強いんだろう。羨ましくなってしまう実力だった。
あとは、部長玉を無理やり攻め潰すしかない。部長の土俵で、彼女に間違えさせなければ私は負け。自力勝利はもう無理だった。
こういう将棋の時に、無理攻めをおこなうことを「最後のお願い」と言われる。相手の人にミスをしてくれないかと必死にお願いするような行為だから。
屈辱。
でも、兄さんと戦うためには、それにすがるしかなかった。
私は強引に大駒を切って、攻め立てた。
2年後、私は部長のような手を指すことができるのだろうか。
そう思いながら。
※
「おいおい、すごい攻撃だな」
「形作りか、それとも絶妙手か」
「これ失敗したら、米山の勝ちだよな」
ギャラリーたちは読み切れずに狼狽していた。
俺たちは、仲間同士の対局をしずかに見つめる。
俺と先生と葵ちゃんは、すべてを読み切っていた。文人も薄々気がついているようだ。
「ふたりは、まるで真逆の棋風ですね」
葵ちゃんは、声を震わせていた。
「うん。米山くんは、四間飛車の歴史を受け継ぐ硬派な棋風。王道、正道。正当な四間飛車党だね」
先生は葵ちゃんに同意するかのように声をつなぐ。
「そして、かな恵は……」
「定跡に縛られない盤上の自由を愛する魅力的な棋風。だからこそ、この将棋はすごいんだよな」
俺は師匠を裏切っていた。どうか間違えてくれ。将棋の神さまに必死にそう祈り続ける。
すべては妹を、勝たせるために。
※
私たちは数十秒間に無数の手をぶつけあった。そして、それらすべてが部長の勝利という結論に達する。私の何手もの王手ラッシュは、無情にもあと一歩、部長を捕まえることはできなかった。
ごめん、兄さん。
やっぱり、届かなかったよ。
部長は、私のお願いをへし折っていった。完璧な手順で、すべてを把握している神さまのように私に現実を押しつけてくる。
もう残された手段はひとつだった。
「負けました」
私は、そう言って投了を宣言した。
すべてが終わってしまった瞬間だった。
頭を下げると髪の毛が口の中に入ってくる。それすらも気にならないほど、私の感情は高まっていた。
履いている革靴の付近に、少しずつ雫の塊ができていく。
それが何であるか理解するまでに時間がかかった。
目からは熱いものが少しずつあふれているというのに。
私が、お父さんがいなくなってしまってから、はじめて将棋に真摯に向き合った瞬間だった。
「ありがとうございました」
私は、みんなに向かってそう言った。
会場からは拍手が巻き起こっていた。
やっぱり、私は負けたんだ。兄さんと戦えなかったんだ。
そう思って、私はさらに会場の床を濡らし続けた。
そんな私に、対戦相手はハンカチを差し出してくれた。
「かな恵ちゃん…… すごい対局だったよ。おつかれさま」
私の恋のライバルは、いつもの部活の時のように慈愛のこもった優しい笑顔で私を見ていた。
私は、優しい先輩に甘えることにする。
「部長、ぶちょう、ぶちょう……」
意味もなく私はそう連呼して、彼女の肩に飛びこんだ。
調子がいい自分が嫌になる。でも、誰かに自分の感情をぶつけたかった。
だから、年長者の優しい先輩に甘えた。
「かな恵ちゃんの分まで、決勝がんばってくるからね」
部長は静かにそう言って、力強く私を抱きしめた。




