第二十九話 奇策!中原飛車
「どうして、こうなったのっ」
わたしはたまらずに口に出していた。どこから悪くなったのかすらわからなかった。ここで実績を作って、夏の最後の大会で有利なシード権を獲得する。それが私の目標だったのに……。
私は、岩井なつき。高校三年生だ。
一回戦を会心譜で圧勝したわたしは第二シード知多かな恵さんとの対局に臨んでいた。
なんでも、県外に住んでいたのでここでは無名だがかなりの強豪らしい。でも、わたしだって去年の新人戦では、あの米山香に善戦できたんだ。勝機は絶対にある。そう思って、大局に臨んでいた。
わたしたちは、相掛り戦法を選択した。選択したはずだった。
しかし、わたしの前に現れたのは異形な局面だった。
敵の飛車が歩の前に来ていた。常識的に考えてかなりの悪形である。飛車と歩で攻めるのが鉄則の将棋で、歩を活用できない形に飛車を持っていく。
「なにがしたいの?」
常識的に考えれば、私が有利なはずだった。しかし、相手は私の常識の外側にいたんだ……。
わたしが攻撃の構えをみせた瞬間に、相手の飛車が縦横無尽に動き回ってわたしの動きを止めてくる。
逆にあいては、そうしているうちに桂馬を前進させて、私の陣地にほころびを作り出していた。そのわずかなほころびから、決壊ははじまっていたのだ。
いつの間にか、私の陣地には殺し屋たちがなだれ込んでいて、攻めていたはずの私は守勢に追い込まれていた。
「でも、まだ大丈夫」
そう言いつつ、わたしはカウンターをくらわせるために、飛車を敵陣に突き進めていく。そして、敵の王を視界にとらえた。相手がなにも対処できなければ、わたしの勝利。
栄光はすぐそこまで迫る。
相手は、真っ黒な長髪を上下にゆする。甘い匂いが鼻につく。とても色気があって同性の自分ですらドキドキしてしまう仕草だ。
そして、次の手が動いた。
わたしの王に対する王手だった。記念王手なのか。わたしはすぐに王を逃がした。しかし、一本の香車があらぬ方向から飛び出して、わたしの陣地わき腹を突き刺す。
「えっ……」
いままでうごいていなかった香車が作り出す一本線は、私の王を的確にとらえていて、逆に敵の王の逃げ場も作り出していた。
「負けたんだ、わたし」
即詰みだ。まるで居合切りの達人のような一手は、正確に私の息の根を止めていた。あまりにも見事なそれは、切られたことすら気がつかないレベルで美しかった。
「ありがとうございました」
そう言った黒髪の処刑人の笑顔は、どこまでも美しかった。
※
「みごとな、中原飛車でしたね」
「中原飛車?」
「ああ、そうか。古い戦法だからね。桂太くんは知らないか。30年以上前に、大名人が作り出した定跡だよ。あまりにもつかいこなせるひとが少なくて廃れてしまったんだけどね」
高柳先生はおれにそう説明してくれた。
「その自由すぎる指しまわしは、天衣無縫ともいわれて恐れられたんだ。それをなんなく実戦で使いこなしてみせた。ほんとうにすごいよ。キミの妹さんは……」
解説すら聞かなくても、おれは恐怖をおぼえる。米山部長だってとても強い。だが、怖くない。同じ言語でしゃべっているから。でも、かな恵の将棋には、恐怖しか感じなかった。まるで、宇宙人のような感覚だ。
「おれの義妹がこんなに強いわけがない」
それが一番の感想だった。
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人物紹介
岩井なつき……
高校三年生、西高のエース。
去年の新人戦の団体戦で大活躍したが、くじ運が悪く、2回戦で米山部長と対戦し敗れる。
女性では県内屈指の実力をもち、積極的に主導権が握れる戦法を好む。
用語解説
中原飛車……
「相掛かり」や「横歩取り」で用いられる居飛車の戦法。
一見、初心者のような動かし方だが、永世名人が開発した列記とした戦法。
この後の展開があまりにも、自由すぎるので、使いこなすのには大変な実力が必要になる。
ちなみに、上記の図の中原飛車は、不完全で、正確な中原飛車にするためには下記の囲いにしておく必要がある。
中原囲い……
「相掛かり」や「横歩取り」で採用される守りかた。急に戦端が開かれる戦法と相性が良く、最低限の手数でなかなかの守備力と王の逃げ道を作ることができる。




