第二百七十一話 前例
俺は対局を観戦している。
部長は一気に山瀬さんの陣形を崩していた。やはり、部長の中盤力は圧巻だった。山瀬さんだって、並み以上の実力者なのにもかかわらず、その実力差は圧倒的だった。たぶん、これは逆転できない。部長との対局は、序盤中盤までに差をつけておかなくては勝つことは難しい。
「終盤の入り口までに、3:7の形勢だったら私の勝ち。2:8だったら、いい勝負」と本人もつぶやいていた。
そして、葵ちゃんとかな恵の勝負は、未知の世界を創りだしていた。
「中飛車に対して、嬉野流。普通に考えたら、中飛車が有利だよな」
隣で文人が言っていた。
「そうだな。嬉野流の攻撃よりも中飛車のカウンターの方が早い、はず」
「そもそも、この局面って、何かの本に書いてあるのか?」
「いや、俺の知っているところだと、嬉野流について書かれた専門書は1冊だけ。部分的に書いてある本を合わせて数冊が良いところだと思う。その本の中に、こんな局面は載っていなかった」
俺は、かな恵に負けた後、嬉野流についての本を買いあさって、勉強をした。しかし、この局面について書かれている本はなかった。ただ、俺はこの指し方を知っている。webサイト上のインタビューにひっそりと取り上げられた戦法を彼女はアレンジして使うつもりだ。
「じゃあ、これは……」
「ああ、才能同士の殴り合いだ」
俺は、その様子を見ながら、少し安心した。
だって、そうだろ? 俺の大好きな妹の戦い方が戻ってきたんだから……
届いているはず。俺の気持ちは、かな恵に……
きっと、届いている。
かな恵は少し天井を仰ぐと、次の手を指した。
会場のほとんどがみたことがない一手だ。
もう、それはどんな本にも前例にもない一手だった。
それがかな恵の将棋だ。
かな恵の飛車が横に動いた。
それは振り飛車の動きだった……
「なっ…… 嬉野流相振り飛車……?!」
文人は言葉を失う。それほどまでこの戦法は衝撃的だった。
だが、俺はそんなかな恵を見て、嬉しかった。
勝ってこい。お前は俺の自慢の妹だよ。
この言葉はかな恵に届いているはずだ。




