第二百六十一話 憎しみに打ち勝つ
情勢はどんどん進んでいく。
はたして、橋田さんは、この局面を理解しているのだろうか。
もっとも、偶然でここまで同一局面が作られることはないのだが。
少しずつ、手順は、あの伝説の名人戦から離れていった。
矢倉愛好家ならば、絶対に知っているだろう局面。
このままいけば、俺の勝ちだったのに……
そう易々とは勝たせてくれない。これが県のトップクラスに長く君臨している男の底力。
難解な局面になっていく。ここからは一手のミスで即敗北を迎える。
矢倉戦は、盤面全体で戦争が始まる。そしてどんどん戦争は拡大されて、戦局は盤全体を見通す必要がでてくるのだ。そこが、矢倉の魅力であり、難しさである。
橋田さんは、イライラしながら盤面を考えているようだった。
「橋田さんは、何を考えて将棋を指しているんですか?」
盤上で俺はそれを問いかける。
「棋は対話なり」
盤上では言葉はいらない。
なぜなら、指す一手がそのまま感情や考えを表現するものなのだから。
「俺は、勝つため。誰よりも強くなるため。ライバルたちを倒すために、指し続けている」
彼の次の一手はそう叫んでいた。
コンプレックスと力への渇望。それが橋田さんの、底力の大元だった。
彼は、かな恵と似ている。
怒りや負の感情が、将棋を指す原動力になっているんだ。
だから、将棋をしていると、あんなにも辛そうなんだ。
だから、俺は彼らに見せてあげなくてはいけない。
将棋が楽しいっていう、根本的な喜びを……
「ああ、そうか」
俺は一言、つぶやく。それが勝利へと向かった立ち合いのスタートだった。




