第二百三十話 父親②
「事件が起きたのは、かな恵が小学3年生になった時。子供の大きな大会に出てね。準決勝で負けてしまったの」
「はい」
「その時、かな恵はすごく落ちこんで、熱まで出してしまったのよ。”将棋を辞めたい”って言いだして。さすがの私たちも心配してね。父親も今まで厳しく言いすぎたと反省してたわ」
尚子さんの目は、窓の外の月を見ていた。
それは、遠い昔の記憶を思いだすためのまなざしで……
「あの人は、かな恵に謝ったのよ。いままで、大変な思いをさせてごめんな。本当に、将棋が辛かったら、辞めてもいいよって。でも、かな恵が欲しかった言葉は、そうじゃなかったのよ。かな恵がなんて言ったかわかる?」
「なんとなく」
おれも、まだ短い期間だが、かな恵の兄になっていた。どんな性格か、少しはわかっているつもりだ。
「お父さんの馬鹿。死んじゃえって」
やっぱりか。かな恵は不器用だから。本当は引き留めて欲しかったんだ。将棋だって、きつくても好きだから続けてきたんだ。大好きなお父さんから褒めてもらえるように……
「ドラマだったら、本当に陳腐な展開なんだけどね…… その後……」
尚子さんは言葉を濁した。でも、言わなくてもその言葉の続きはわかった。本当に亡くなってしまったんだ。
「そして、かな恵はずっと将棋に囚われてしまっている、のよ」
「そうなんですか……」
「だからね、桂太くん。お兄ちゃんに、お願いがあるのよ」
「はい」
「かな恵の心の檻を壊してきて。将棋は苦しいものじゃないって、あの子に気づかせてあげて。情けないことに、母親じゃできないことなのよ。たぶん、あの人もできなかった。これをできるのは、世界であなただけ。だから、お願いね、おにいちゃん?」
「もちろんです。大事な妹を、救ってきます」
「ありがとう。じゃあ、私も行くわ。ごめんね、大事な時に変なことを言っちゃったかしら?」
「そんなこと、ないです。むしろ、やる気がでました」
「よかった。じゃあ、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
尚子さんは、部屋を出て……
「あっ、そうそう。さっきのおにいちゃんじゃなくて、彼氏としてでもいいからね、桂太くん?」
「なっ」
「おやすみー」
どうして、いい話なのに、最後にぶち壊すんだあのひとは……
「がんばります」
俺は静かにこころに誓った。




