第二百三話 英雄
盤面を複雑化させられた。おれのほうが優勢であることは確かなんだが、橋田さんは難しい罠を次つぎとしかけてくる。橋田さんが、ここまで粘ってくるなんてなんだか意外だ。前回・前々回の棋譜を並べたときは、負けてしまうときは意外と淡泊なことが多かったのだ。棋譜を汚さないというか、負けは負けでもきれいな負けを志す将棋だった。
粘りに粘ると、逆転の可能性は残るが棋譜は見苦しくなる。
それに耐えるか耐えないかは本人の価値観だ。部長は、もちろんそんなことを気にしないで勝利に執着する。多くのアマチュアはこちらの立場だろう。逆に山田さんは、その棋譜の美しさも重視する。これはアマチュア世界では、少数派だ。
勝利を目指す泥臭さがあるひとは、気にしない派が多くて、スマートな優等生は気にする派が多い。
そして、おれたちは気にする派だった。
だが、今は違う。
それが個人戦なら、自己責任だから好きにできる。だが、これは団体戦だ。どんなに醜くても勝たなくちゃいけない。それに相手は格上だ。相手がプライドを捨てているのに、俺が捨てないでどうするのだ。
さあ、泥臭く勝ちに行こう。かっこなんてどうだっていい。このまま優勢な将棋を押し切るだけでいいのだから。誰にでも指せる分かりやすい手を積み重ねる。それが最短だ。
考えすぎたせいか、少しだけ頭がいたい。体が熱い。
でも、ここに勝てたらどうでもいい。俺は個人戦よりもこの団体戦にかけている。
それに……
「女の子ふたりを泣かせたまま帰せるかよ」
さあ、カッコ悪くても、カッコよくなろう。
これに勝てたら、俺は英雄だ。
俺は、ゆっくりと、しかし最速の手順で橋田さんを追い詰めた。
彼は、盤面をドンドン複雑化させていくが、それは逆に自分が敗勢であることの裏返し。
こういう局面では迷ってはいけない。
俗手をひたすらつみ重ねて、相手を土俵際まで追い込む。
心臓はどんどん高鳴っていく。
これはもしかすると、もしかしてしまうかもしれない。
でも、あんまり焦ってはいけない。
部長にもう少しで勝てるというところで、油断して何度逆転されたのか。
橋田さんは、王手をかけてくる。
俗に言う「最後のお願い」だ。
これを冷静に対処して、逆に相手玉に迫った。
橋田さんは、目を閉じている。
ペットボトルの水に手を伸ばして、のみこむ。
それは、何かの儀式のような雰囲気を持っていた。
「負けました」
目の前の、巨象は俺にむけてそう言った……




