第二百二話 マジック
伝説の鬼手「▲5二銀」
丸内が示したその一手は、おれにとって最悪の手順だった。ただで取れるように見えるその駒は、敵からみれば最悪のくさびになる。
例えば、飛車でとった場合は、▲1四角打△2三桂打▲同角成△3一玉▲2二銀打△同飛▲4一金打△2一玉▲2二馬の手順で、9手詰め。
金で取った場合は、▲1四角打△2三桂打▲同角成△2一玉▲2二金打の手順で5手詰。
取らなければ、金が死ぬ。
どれを選んでも奈落の底へと繋がる手順しか浮かばない。
このようにすべての手順で後手をどん底に陥れる最悪の罠なのだ。伝説の大名人が若手時代に指したこの手は、名人経験者をテレビ棋戦で粉砕した。彼はそのままの流れでテレビ棋戦を制して、棋界に覇を唱えたのだ。
まさかその伝説の鬼手をおれが実際に指されることになろうとは……
実際に指されるまで、俺はこの手を忘れていた。だって、俺が生まれる10年以上まえの一手だ。正確に局面までおぼえているのはそれこそ熱烈的な将棋マニアくらい……
そうか、米山かっ。
俺は、その手を見てフリーズした。
先ほどの威勢はどこかに消えて、汗を垂らしている。
「あれれー、おかしいですよー。これってもしかして、頓死ー。ひゃー」
俺は、小声で独り言をつぶやいていた。
すべての手順で俺は敗北を迎える。
俺は、自分の言った発言を思いだす。
なにが「ここまでだろうな」だ。
なにが、「キミも頑張ったよ。いい勝負だった。でも、相手が悪すぎたんだ。今回の大会で、俺はあの二人に勝って頂点に立つ。楽しみにしててくれ」だ。
まるでかませ犬みたいな発言じゃないか。
油断なんてないと思っていた。
だが、同時にあのふたりしか敵がいないとも思っていたのだ。
それを油断だとしないで、一体なんなのだ。
明らかに格下だと思っていた丸内に、俺は鬼手を受けて敗北寸前である。
なんとまあ、無様なことだ。
俺は、自分の状況を正しく認識できずに粋がっていた馬鹿な男になっている。
だが、ここで負けるわけにはいかない。無様でもいい。少しでも勝ちにつなげる可能性を残すのだ。
これができないからこそ、俺はシルバーコレクターであり続けてしまったのだから。
今日、俺は新しく生まれ変わる。
米山のように、ドロドロになってでも粘り続ける。
俺は、金を取らずに最後の可能性にかけた。
相手を間違わせて勝つしかない。もしここで負けたら、流れは確実に向こうに行く。




