第二百一話 伝説の鬼手
盤上は最終盤を迎えていた。お互いに敵陣を攻め立てるギリギリの勝負。
しかし、俺の攻撃はあと一歩敵玉までには届かなかった。
彼の王将は、ひらひらと逃げ回り、おれの追っ手の届かないところに移動していく。
ここでなにか一手がなければ逃げきられてしまう。
何か一手をみつけなくてはいけないのだ。
どうする? どうする?
焦りだけが生まれていく。
持ち時間を確認した。残り1分30秒。
この持ち時間が切れたたら、次は秒読みだ。俺は深呼吸をして、盤をにらんだ。この形はどこかでみたことがある。たしか、プロのテレビ棋戦だ。俺は再放送でそれを見たんだ。
将棋史上に残る絶妙手。
この次の一手は何だったか。脇には桂太や部長が一緒にいた気がする。みんなでその再放送を楽しみにしていた。対局者は、「当時の天才若手棋士でのちの永世8冠」と「有史以来の天才」という異名を持つ大ベテラン。豪華なカードだった。ねじり合いが続く終盤で、天才同士の頭脳が作り出した最高の「マジック」とも言われる伝説の一手。
部長の言葉を思い出す。
この対局で、もっとも熱心に語っていたあの一手。
思いだすしかない。
それができなければ、俺たちの敗北だ。
「ここまでだろうな」
向かいの敵はそう言った。
自分の玉はもう捕まらないという安心しきった顔だった。
その顔が、とてもむかついた。俺の闘争本能がトップギアまで駆け上がる。
「キミも頑張ったよ。いい勝負だった。でも、相手が悪すぎたんだ。今回の大会で、俺はあの二人に勝って頂点に立つ。楽しみにしててくれ」
うるさい、少し黙ってくれ。俺はそう思いながら、ひたすら盤上をにらむ。さきほどの無駄口で、俺の頭はなぜだかクリアになっていく。
部長はあのテレビ放送の時に、嬉しそうに解説してくれた。
「この銀打ちが、絶妙手でね」
そうだ、銀打ちだ。
伝説の▲5二銀
これはタダに見えるが、実はそうではない。考えすぎて、頭が熱くなる。視界もぼやけてしまう。だが、これで勝てる可能性はでてきた。
あとは難しい変化を読み切るだけだ。そう思った瞬間、チェスロックは秒読みをはじめた。俺の持ち時間が切れてしまったのだ。
もう変化を読み切る余裕はない。
だけど、これで勝てるという手はわかっている。変化は複雑だけど……
駒を持つ手が震えた。もっと簡単な勝ち方があるのじゃないかという自分の弱い心が邪魔をする。
俺は将棋界のひとつの合言葉を心に繰り返す。
「女神は、勇者に微笑む」
俺は迷いを捨てて、銀を約束の場所に叩きこんだ。
これが伝説の一手「5二銀」




