第二話 奇襲
「後手4四歩」
これは有名な奇襲戦法である。
一見すれば、自分の駒を相手にただで献上するうっかりミスのような初手だ。
俗称は「パックマン」戦法。パックマンと言ってもゲームではない。れっきとした将棋の戦法だ。食いついたら一気に相手のペースにのみこまれてしまう。のっかれば3手目から大駒の交換会となり乱戦になる。下手をしたらそこからもう終盤である。
パックリと食べたら、あとから一瞬に毒が回るのだ。
「あなたにおれを上回っているという自信とミスをしないという勇気はある?」
相手は無言でそう語っていた。完全な挑発だ。できるかぎり早期で、相手の思惑をはずさなければ、有段者ですら簡単にのみこまれてしまう。奇襲戦法に分類されるが、序盤から敵の地雷原を進まなくてはいけないので、有段者ですら戦うのを嫌う戦法でもある。
対策はふたつある。あえて、誘いを断り普通に守りを固める方法。これなら普通の将棋となる。多くのひとはこちらを選ぶだろう。
もうひとつは、誘いに乗って乱戦へと突き進む方法だ。こちらは敵の地雷原を突き進むことになる。
どちらのみちをとるか?
「やって、やるぜ」
おれは、誘い駒を勢いよく手にかけた。ここで、ひるんでいるようでは勝てない。それが、おれの自論だった。
そこからはお互いにノーガードの撃ちあいとなった。おれの王様には、何度も流れ弾がかすめていく。相手も同様だ。
一度ミスをしたら、即死の致命傷を受ける神経戦。まだ、30手くらいしか進んでいないのに、もうお互いに王様を狙う最終盤へと突入していた。
おれは、敵将を護衛している金に狙いをさだめる。これを駆逐すれば、敵はなすすべがないはずだ。
そう思うほど、おれの神経は衰弱していた……。
おれが金を討ち取ったその瞬間、相手は角を動かしていた。そのなんともないような角の作り出す斜めのラインは、相手の防御を担っているだけでなく、おれの王をもスコープにとらえていた。
「攻防の角……」
声が漏れていた。
絶妙手だ。
おれの攻撃を遅らせて、逆におれの心臓部分を的確に狙撃している。まるで、戦場のスナイパーのように。
このあとの手順を確認する。無数の選択肢が頭に浮かぶも、それらはすべて相手の一手を褒めなくてはいけない結果となる。
どう考えても、おれの負けだった。
おれは投了ボタンに手を伸ばした。この瞬間が将棋をしていて一番苦しい。
「負けました」
チャット文をそうやって打ちこむ。
「ありがとうございました」
相手は即座にそう返信してきた。
「強い」
ここまでの完敗は、新人戦の準々決勝以来だ。うちひしがれる思いの後に、悔しさに襲われる。
「くそおおおおおお」
ベッドに転がって叫んだ。対局の手順を頭で再現する。ああ、すればよかった。そんな手順が何度も頭に浮かぶ。
※
「おーい、桂太。ちょっといいか?」
父さんに呼ばれた。いつの間にか寝てしまったらしい。外はオレンジ色に染まっている。
「おかえり、早かったね。なに?」
階段を下りて、仕事から帰った父さんに挨拶する。
「実は、言いづらいことなんだけどさ」
めずらしく父さんがもじもじしていた。なんだよ、気持ち悪い。まさか、借金かっ。うちが抵当にはいっていて夜逃げ不可避とか……。
「なに?」
「今度、再婚することになった。向こうは、おまえより1歳下の娘さんがいる。今日、会いに行こう」
「はあ?」
えっ、さいこん?
ベトナムの都市はサイゴンだよな。旅行か出張でも行くのかな? ははー父さんもおっちょこちょいだな。
「新しい母さんと妹ができるんだよ」
父さんは嬉しそうにそう言った。
これが世界の選択かっ!?
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人物紹介
kana kana ……
桂太がネット将棋で出会ったライバル。性別不明。
ネット将棋界隈では、変態奇襲将棋マニアとして一部に有名。
やろうと思えば、正統派な将棋を居飛車・振り飛車ともにできるが、本人は奇襲好きなので、めったにやらない。たまにやったら相手に驚かれるレベル。
ついた二つ名が「変態オールラウンダー」。非常に好戦的な棋風で、特に最終盤は正確無比。