第百二十九話 思考の時速
端で歩同士がぶつかり合う。ついに攻撃がはじまった。怒涛の攻撃でおれの穴熊が一気につぶれていく。
香車と桂馬が攻撃に参加した。
上からの圧力は、さらに大きくなる。やはり、穴熊の維持は難しいようだ。おれは、即座に銀を切り捨て、穴熊の放棄を決定した。
これで、おれの陣形はかなり弱体化する。そのすきを彼女は見逃すはずもない。
数十手後、おれの陣地から穴熊は完全に消滅した。
もうそこには、穴熊があったとは想像できない状況となった。
おれの王は、わずかな護衛のみを引き連れて逃げ出している。
第一波はなんとかしのぎ切れた。そう、第一陣は……
彼女は、端攻めをしのいだと見るや、持ち駒であった角を動かした。部員が、悪魔の波状攻撃と呼んでいる葵ちゃんの将棋の特徴だ。最初の攻撃をしのいだ後からつながる第二波。それが、葵ちゃんの本命の攻撃だ。かなり、いっぱいいっぱいになっているおれの陣地には重い追撃となる。やっぱり、彼女は天才だ。この柔軟で鋭い一撃が将棋歴2カ月未満の状態で繰り出せるなんて。
やっぱり、彼女はすごい。
おれは感動を覚えた。こんなに素晴らしい才能を間近で味わる幸運に。そして、そのひとと対局できる幸運に……
だが……
将棋は、必ずしも「天才」が勝つゲームじゃないのだ。弱者には弱者の戦い方がある。
おれの秘策は、ただひとつ。
愚直に考えること。絶対的に正しい神の一手を盤上で見つける。考え続ければ、それは凡才のおれだってたどり着けるかもしれないものだから。
とある大名人は言った。
「将棋の対局中に、思考が大加速し、一種の無我の境地にたどりつく。思考の時速300キロの世界に神はいる」と
ここで、おれはその境地に少しでもたどり着かなくてはいけない。
神の世界の入口へ、と。
そこからの将棋はよく覚えていない。
おれは無我夢中で受け続けた。
考えていたはずなんだけど、そこはもう記憶になかった。頭の仲が将棋盤で、駒がグルグルと動いて高速で消えていった。
おれと葵ちゃんは、盤上の駒をもうみてはいなかったかもしれない。
思考の向こう側にある世界。おれたちは、もしかしたらそこにいたのかもしれない。
合計で50手以上の葵ちゃんの攻撃をおれは、没我の境地でくぐり抜けた。
「負けました」
葵ちゃんの声でおれは現実に戻される。
盤上ではすべてが終わっていた。葵ちゃんの攻撃は完全に封殺されて、後には穴熊の姿焼きだけが残っていた。
おれの勝利だった。
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用語解説
姿焼き……
攻撃陣を完全に潰して、守備駒だけを残すこと。
姿焼きされたほうは、攻撃力0のためどうしようもなく、投了するほかにない。
投了しなければ、相手から袋叩き状態にあうことになる。




