第百十五話 ツノ銀中飛車
おれは去年の新人戦準々決勝の棋譜を検討していた。
おれが負けたあの棋譜を。
相手は優勝者の山田さんだ。部長のライバルとして、長年県下最強という呼び名を欲しいがままにしていた。
彼の将棋は非常に古い。時代的には30年以上さかのぼる将棋だ。あの時の将棋を思い出すと、衝撃しか残らなかった。
おれは、彼の天敵である戦法を使って惨敗した。それもメンタルをぼこぼこに折られる将棋で。
受け潰し。部長が得意とするそのやりかたで、おれはすべての攻め駒を奪われた。
これは読みの実力差をはっきりと示される戦いかただった。おれは無理攻めを誘われて、一気に寄り切られてしまった。
対戦した戦法は、「ツノ銀中飛車」。
プロ間では、30年前に「居飛車穴熊」によって駆逐された戦法である。おれもやはり、居飛車穴熊を採用した。
守りを固めての一気に攻めつぶす居飛車穴熊対バランスを重視するツノ銀中飛車。両極端な戦いは、穴熊の姿焼きという悲惨な結果を残した。
攻撃力のない穴熊では、もうどうすることもできなかった。おれは投了を宣言し、3日ほど熱を出した。
あまりにも惨敗は、あとを引いた。その後の将棋は思考が鈍り、負けが続く。完全なスランプ状態だった。
俗にいう、「感覚を壊された」状態だった。
1か月ほどスランプが続き、みんなのおかげでやっと脱出することができた。だから……
もう、次は負けられないのである。
おれは、将棋ソフトを使って前回の対局の洗い直しをした。敗局をみつめなおすのは、精神的にも厳しいが、これをしないことには始まらない。
そもそも、ツノ銀中飛車には、反射的に居飛車穴熊という思考になっていたのがいけなかったのかもしれない。そればかり、意識してしまってバランスをとることができなかった。
そのバランスの悪さを利用されて、無理な攻撃に誘導されたんだ。
では、昔ながらの急戦策ではどうだろうか。おれは、古い定跡書を開いて検討をはじめた。たしかに、序中盤で有利になりやすいが、守備力は弱くなり勝ちにくい将棋のようなイメージとなる。これでは厳しい。
なかなか難しいもんだな。
まあ、簡単に勝てたら専門家なんていなくなるんだけど……
ノックの音がした。
「兄さん、ちょっと、いいですか」
かな恵だった。まだ、両親は旅行から帰っていないので当たり前と言えば当たり前なんだけど。
「開いてるよ」
「し、失礼します」
かな恵が部屋に入ってくる。おれは、振りむく。
そこには、バスタオル1枚のかな恵がいた。
そこには、バスタオル1枚のかな恵がいたっ?!
用語解説
ツノ銀中飛車……
戦後開発された戦法。バランスが良い陣形に組む。大名人が得意として、勝利を量産した。
陣形全体は堅いが、ひとつでもヒビが入ると、王を守る護衛が少ないのが命取りになる。
プロ間では、居飛車穴熊に駆逐された。




