2 愛を知るふたりと獣の男
「アシュレイ・・・」
リリィはかすれた声を上げ、立ち止まった。苦しそうに胸を押さえ、なんとか呼吸を整えようとしている。生まれてから激しい運動をしてこなかった彼女には、森中を全力で駆けるという行為は非常に厳しいものだった。アシュレイは背後を警戒しながらリリィに近づくと、彼女の手をとった。
「大丈夫ですか、お嬢様」
彼女の掌は熱かった。
「苦しいのはわかりますが、もう少しだけ頑張って下さい。街中まで逃げることができれば、身を隠すこともできます」
「はい」リリィは呼吸を落ち着けると、笑顔を浮かべた。「ありがとうアシュレイ」
「おやめください。僕は貴女の騎士です。貴女を護るのが僕の務めです」
彼の言葉にリリィは首を横に振る。「違います。わたしが言っているのは一緒に逃げてくれたことです。さっき、あなたはわたしの為に死のうとしていました。でも、こうやって一緒に逃げてくれた」
リリィはアシュレイの手を強く握った。
「ありがとう、アシュレイ」
熱い彼女の視線に、彼はどきまぎしながら顔をそらした。
「まだ危機は去っていません」話を変えるようにアシュレイは口を開いた。「さあ、行きましょう。奴等が追ってきます」
「そういえば、あの人は大丈夫でしょうか」
不安そうにリリィは呟いた。あの人、それが誰を指すのか、アシュレイにはわかっている。だしぬけに森から現れた黒髪の男。鋭い眼をした異邦人。奇妙な剣を腰にさしていた剣士。「あの男なら、おそらく大丈夫です」アシュレイは少女を安心させるように笑った。一瞬のうちに野盗を解体した剣術を彼は覚えている。どうやって四肢を解らしたのか、どうやって首を刎ねたのか、そしていつ剣を抜いたのか、何ひとつわからなかった。理解できることがあるとすれば、それはひとつ。
あの男が想像を絶する剣の使い手だということだけだ。
「あなたがそういうのなら、きっと無事ですね」
「はい。さあ行きましょう」
樹々の隙間から街が稜線のように覗いていた。
二人が走り出したとき、森の奥で火薬の弾ぜる音が鳴り響いた。
「冗談じゃない、冗談じゃないぞ!」ディノスは苦痛を噛み締めながら悪態をつき、這うように後退した。血が土を赤黒く染めていく。右手が燃えるように熱い。切断された左足が激痛に震える。
「短筒か」ラセツは足元のそれを蹴った。銃身が真っ二つにされていた。銃把と用心金にディノスの指が絡みついた銃は、地面を滑り繁茂に消えた。ラセツは幼児に忠告を与えるように眉をひそめた。「無様だな。ああいう物を過信しすぎるからこうなる」
「過信など、していない! 化け物めッ」
ディノスの剣の腕は一流と呼べるほどではない。これまでの経験の中で培ってきた荒削りな剣技に、彼が仕えるゲオルグという男の『シュバリレード法王騎士団』流の剣術を見よう見まねで取り入れた、我流の実戦術だ。格下相手ならばそれでどうにでもなるが、実力が拮抗、あるいは相手が上の場合、剣戟での勝率は低くなる。ゆえに彼は奥の手を用意していた。
敵と相対すると、ディノスは見せつけるように剣を抜く。まるでこれが彼の唯一の武器であるとでもいうように。だが彼は腰裏に銃を隠し持っている。そして戦いが始まると斬り結び、敵が隙を見せた瞬間、銃撃により仕留める。この戦法でディノスは銀級にまで登り詰めてきたのだ。だが目の前の男には通用しなかった。
「ふざけてやがる」ディノスは血の混じる唾を吐く。「貴様、銃弾を、斬ったな」
「弾も斬れないと思っていたのか? あまり俺を低く評価するな」
「斬れると、思うわけが、ない」
「簡単な話だ。火薬の臭いがした。お前が短筒を隠し持っているのは最初からわかっていた。それに弾の軌道は直線的に過ぎ、なにより遅すぎる」ラセツはゆっくりとディノスに向かって歩いていく。彼の背後には野盗たちの死体が文字通り散乱している。裂かれ、切断され、刻まれていた。必要以上の暴力の余韻。過剰なまでの破壊衝動。目を覆いたくなるような惨状。過剰殺害だ。人間の殺され方ではない。あれではまるで屠殺だ。ラセツは感慨にふけるようにこぼれ陽に眼を細めた。「キドウの爺の抜刀術にさんざん付き合わされたからな。理解できるか? あの爺、居合いを素手で止めろというんだぞ? イカれている。だが全盛期のキドウとは、是非殺り合いたかった。時の流れとは虚しいものだよな」
「訳のわから、ないことを、ゴチャゴチャと・・・イカれてるのは貴様だ」
「まさしく至言だな。その通り、人間とは狂うことのできる数少ない動物のうちのひとつだ」
ラセツは刀を手足であるかのように操った。血が飛び散り、刃がディノスの網膜に残光を焼きつけた。
(見誤った)ディノスはラセツを睨みながら内心で毒づく。(この男、ゲオルグの旦那並の、【ヴェルカの猟犬】級の怪物だ。なんという剣の腕だ。いや、頭がイカれているぶんさらにたちが悪い)
ラセツはディノスを見下ろした。獲物を視る獣のような眼をしていた。
「しかし、遊びにもならなかったな。いや、もしかしたら遊戯とは俺が想像する以上に崇高なモノなのかもしれない。殺し合いに匹敵するほどに。血の中で踊るほどに。あるいは壷の中に閉じ込められた蟲と蛇が共食いを重ね、最後の一匹として血の海から生還した勝利者のように。知っているか? 蟲毒という儀式を経て地上に躍り出た蟲や爬虫類の魂は以前までのそれとは別物になる。そういうモノの魂は獰猛な豺狼へと変貌している。彼等は血を求め狩り、殺し、踊る。それを崇高だと思えるかどうかは聴き手の資質によるがな」
「気狂いが」
「資質なしか」
「くたばれ」
「お前がな」
ディノスの首が刎ね飛んだ。
血が噴き出す。ラセツはそれを眺め、血を拭い刀を鞘に戻した。
「いまわの際の言葉が『くたばれ』とは、なかなか気骨があるな。気に入った」
ラセツは転がる生首に向かって嗤いかけた。
「お嬢様、窓の外を見ないでください」アシュレイは嗜めた。「顔を見られるのは危険です」
「わかってます。でも、気になって」
そう言うとリリィはもう一度窓外に目をやった。往来には人が行き交い、子供たちが走りまわり、路商のテントが並んでいた。陽はわずかに傾き、正午過ぎの柔らかな光をリリィに投げかけていた。平和な光景だった。
二人は民家の一室にいた。宿屋ではすぐに見つかってしまう。アシュレイは何軒かの家を訪ね身を隠せないか相談し、払える金額を提示した。そのうちの一軒がこころよく引き受けてくれた。ふたりが案内されたのは物置のような狭い一室だったが、身を隠すならばむしろこういう場所の方が良かった。アシュレイは小窓の棧から街を眺めた。あやしい人影は見当たらなかった。するとリリィも一緒になって外を見だしたのだった。
「追っ手はいませんか?」
「今のところは」アシュレイは険しい眼で外を睨み続けた。敵を前にした騎士の眼光だった。「しかし油断できません。相手は銀級の冒険者です。そう簡単に隙を見せるとは思えません。この街にひそんで、機会をうかがっているのかもしれません。もう少し様子を見てから」
その時アシュレイの胸にリリィが抱きついた。少女の甘い匂いと柑橘類を思わせる爽やかな香りが彼女の金髪から立ち上った。柔らかな頬がアシュレイの胸板に押しつけられ、小さな手が彼の腰に回った。
「もう、あんなことはやめてください」
リリィは口を開いた。その声は震えていた。
「わたしのために死のうとしないでください。あなたに何かあったら、わたしは、わたしは・・・」
彼女の涙が、アシュレイの服を濡らした。まるで今まで抑えていた何かが堰を切ったというようだった。
「お嬢様、僕は」
「リリィとは呼んでくれないのですね」
少女は彼の服の裾をぎゅ、と握った。
「わたしの名前を呼んではくれないのですね」
アシュレイは彼女を抱き締めたかった。その華奢な身体に腕を回したかった。出来ることなら永遠に抱き続け、壊してしまいたいとまで思った。だがその欲求を懸命にこらえ、少女の肩に両手を置くと、ゆっくりと引き離した。
「僕は騎士です」絞り出すように、アシュレイはかすれた声を出した。「安心してください。必ずリリィお嬢様をミハエル様のもとまでお連れします。あの方の元ならば安全です」
「わたしは」リリィは涙の溜まった大きな瞳でアシュレイを見た。「わたしは別に叔父様の処に行かなくてもよいのです。あなたが一緒にいてくれるなら、今までの生活を捨てて、どこかに逃げてもかまわないのです。それとも、こんなことを言われるのは迷惑ですか?」
リリィの頬を一筋の涙が流れ落ちた。
あまりにも儚い魂だった。
瞬間、アシュレイはリリィを抱き締めていた。
彼の腕に力がこもった。
「大丈夫です」アシュレイは彼女の耳元で囁いた。「絶対に死なせません」
それだけ言うと、彼はリリィから離れた。
アシュレイはリリィから顔を逸らした。眼が合ってしまえば、彼女のすべてを奪ってしまうかもしれないと思った。窓外は先ほどと何一つかわらない。頬が熱いのは陽光のせいか、リリィの熱視のせいか、あるいは少女を抱き締めたからか。
その時、彼は往来の中にそれを見つけた。
奇妙な剣をぶらさげた、黒い髪の男を。