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 酷く疲れながら家につくと、母の作る夕飯がすでに出来上がっているようだった。みんな大好きなカレーだ。

 僕はさっさと部屋で着替えて戻って、カレーをよそって食卓につく。

 そのままカレーを食べようとすると、母にたしなめられる。

 「こーら! いただきますでしょ!」

 「うっざ」

 僕はそのままひょいひょいとカレーを食べる。

 母はため息をつきながら、僕の向かいに座りながら千文字くらいぶつぶつと愚痴を唱えた。

 僕は、この母と二人でいる食卓がとても嫌だ。作ってもらっておいて申し訳ないのだが、いかんせん、話題もないし、一人でご飯を食べたいしで、おまけに年老いた中年の母を気持ち悪く感じるのだ。さっさと切り上げようと僕はカレーを掻き込む。

 途中で、ストレスのために、心にもない言葉を零してしまった。

 「父さんがいたら少しはましなのかな」

 この言葉を聞いて、母はスプーンを持ったままぴたりと動きを止める。

 「お父さん?」

 母はオウムのように首を傾げた。

 僕は面倒くさくなったので、何も言わなかったことにして知らん顔でカレーをむさぼった。

 「いやいや待って待って、お父さんって、お父さんよね?」

 そんな意味の分からない言葉を発しながら、母は手を顔の前で振ってみせた。

 僕はため息を吐いてこの会話に応じることにした。

 「お父さん以外のお父さんっている?」

 「いやあなたのお父さんと私のお父さんは違うから」

 「あっそ」

 早めに会話を打ち切ろうとしたが、母は会話を続けたげに、言葉を探っているようだった。

 「……えーと、お父さん元気かしらね?」

 「死んでるから元気もくそもないね」

 「え? 死んでるんですか?」

 「は? 首吊って死んだじゃん」

 「そう、そうね。ごめんね、私ショックで、今でも信じられてなくて……」

 「一番喜んでたじゃん」

 「喜ぶ? うん、ショックっていうか、衝撃っていうか?」

 「……僕はおばあさんの葬式で笑いくるっていた母さんをずっと忘れないからね」

 「うん……うん……そうだっけ……?」

 「そうだよ……いくら仲たがいしてたからってさ、僕が泣いてる横で笑うのは頭おかしいと思うよ」

 「おばあさん……おじいさんはどうでしたっけ?」

 「は? 知らないよ」

 「知らないってことはないでしょ? 仲良かったと思ってたけど?」

 「何言ってんの?」

 「何言ってたっけ?」

 「おじいさんとか、会ったことないし」

 「え? そうだったの?」

 「僕が生まれる前に死んでたんじゃん」

 「そうよね、ごめんね、お母さんちょっと混乱してて」

 「なんで混乱してんの?」

 「ちょっと……疲れてて……おじいさんは死んでて、おばあさんも死んでて、お父さんも死んでるのよね?」

 「だから、そう言ってるじゃん!」

 「お兄さんは?」

 「いないよ! 何言ってんだよ!」

 「そうよね、あなたは一人っ子だもんね……」

 「妹はいたよ!」

 「そうよねそうよね、妹はいて、それで死んじゃった、のよね」

 「死んでない!」

 「そうよね、今のはあの」

 「僕の心の中で生き続けてるんだ!」

 「ああもうなんでそういう面倒くさい感じに……」

 「あー! なんだよさっきから! 不愉快だ! もう寝る!」

 「あ、ちょっと、ええと、お風呂は……?」

 「入らない!」

 僕は全力疾走後のような荒い呼吸をしながら、転がるように自分の部屋に戻っていった。

 乱暴に扉を開けて、押し入れにぶつかって扉を壊した。

 中の箱をひっくり返して、僕は叫びながらその場をぐるぐると回転した。

 そのうちに目が回ってよろけて転んで、地面を這いずり回って転がり落ちていたピコピコハンマーをつかんだ。

 すると僕の動きはぴたりと止まって、その代わりにピコピコハンマーを握る手がぶるぶると震えだした。

 僕はそれを無感情に受け止めながら、突き動かされるようにピコピコハンマーをじいっと見つめた。

 そうしているうちに夜が更けて、朝日が昇り、学校の時間になったので、僕は隈のできた目でよろよろと学校の支度を始めた。

 母が何か言っていた気がするが、僕はそれを無視して、登校路をふらふらと歩いて行った。


 頭の中がぐるぐると動き回る。視界が小人の手にわたってドッジボールをされているかのようだった。方向感覚が宇宙で涅槃に入るブッダのように回転し、太陽が真顔で笑うように僕の精神体が明暗を繰り返した。

 気分はさながらバンジージャンプをする猫のようで、空中に振り回される体躯を三日月のこんにゃくのようにくねくねと上下左右に重心をずらして制御しようとしていた。量子的な隙間から見える景色は確かに僕の正常な動作を保証してくれるものだったが、それがいつ移り変わるかどうかも不確かで、クラスの風景を認知したところで僕の意識は狭い箱に覆われてしまった。

 経営難の動物園にいる哀れなサルは怯えることなく日々の餌を享受しているが、それがいつともなくなりエサの出るスイッチが音信不通となったかのようだ。サルははじめは不思議そうにスイッチを押してしばらく反応を待つが、それが応答することがないことを観客の人間は知っていて、それはサルが哀れで惨めで見ていられないほどに可哀そうだということだ。

 見ていられなくなったか飽きたかすると、人間はリモコンのボタンを押して別のチャンネルに変える。そこでは曲がったひげを持つトンカチおじさんがお尻でトランポリンをしていて滑稽な様子だということで人間は大笑いをしてひとしきり笑って飽きてしまった頃にああそういえばあのサルはどうなったかなと軽い気持ちでチャンネルを戻すと画面いっぱいに狂い切ってよだれを叫びながら必死にボタンを両手で叩いているのでドン引きしてテレビの電源を落とすのだった。

 「はい! 私たちは、石田くんのことが大好きです!」

 パッと画面がいつものクラスの風景に移り変わった。

 僕は席についていて、今はHRのように生徒たちが席に座っている。

 壇上では委員長がうんうんとしたり顔で頷いているところで、僕がクラスのみんなを見回すと、みんなはまるで宇宙について考える少年のようなキラキラとした目つきをして壇上を見ていた。

 「そうだよね。みんな、本当はこんなことしたくなかったよね。だって、みんなは石田君のことが大好きだから」

 「はい! 私たちは、石田くんのことが大好きです!」

 「だってさ? 石田君?」

 うん? は? なに?

 委員長は何か期待するような目で僕を見ていた。気が付くと、クラスのみんなは僕をじっと見ていて、それは笑顔だった。

 大場さんたちも僕をそんな顔で見ていた。

 「さ、石田君?」

 僕が呆然としていると、壇上から委員長がコツコツと僕の席に近づいてきた。

 「は、ちょ、近づいてこないで」

 「怯えないで……ボタンの掛け違いがあっただけ」

 「は? 何が? どういうことだよ」

 「私たちは、石田君を否定しないよ」

 どんどん委員長が近づいてくる。僕は、足が石になったかのように動けなくて、ぎゅっと握りこぶしをつくる。

 委員長は、満面の笑顔で、僕を見ながら近づいてくる。

 「私たちは、石田君のことを受け入れるよ。誰も石田君のことが嫌いじゃないから」

 「え、ちょ、は」

 「大場さんたちは間違えちゃったのね。石田君とのコミュニケーションを間違えちゃった」

 「近づくな……」

 ついに委員長は僕の席の目の前に立って、僕を見下ろした。

 そして、すっと僕に掌を差し出す。僕は、ぎゅうぎゅうと固く自分の拳を握る。

 委員長は、心も財布の中も蕩けきった新興宗教の信者のようなネコナデ声を出した。

 「私は最初からあなたの味方だった」

 「だから、誰だよてめーは! 死ね!」

 僕は握りしめていたピコピコハンマーで、そいつの側頭部をたたきつけてやった。

 スコーンという音が教室に響いた。

 しばらく静寂が辺りに浮かんだ。

 委員長の目玉がけいれんして、口からうわ言をつぶやきだした。

 僕は椅子を倒しながら、後ずさった。様子のおかしい委員長からじりじりと距離をとる。

 僕の心臓が飛び跳ねるように脈を打っていた。息が荒れて、冷たい金縛りのような不安感が僕を襲った。

 僕は、思わず言葉を漏らした。

 「ち、ちがうんだ……こんなこと、するつもりじゃなくて……」

 「私が間違っていました!」

 委員長が目玉の向きを僕に固定して、笑顔を固めて大きな声で叫んだ。

 「石田君! 逃げましょう! ここから逃げましょう! 早く逃げましょう! 早く!」

 「はい黙ろうね」

 「あ~、落ち着いて石田君」

 「いったん落ち着こう」

 「ちょ、ちょ、待ってね待ってね~」

 いつの間に近づいたのか、僕が顔を左右に振ると、僕の腕を両側から抱きかかえるように抑える複数人がいた。

 僕が周囲を確認すると、大勢のクラスメイトが僕を覆い囲んでいた。

 さらに教室の入口を確認すると、次々と別のクラスの人間が、そればかりでなく、教師、校務員、校長、知らない人間たちが、この教室に入り込んできた。

 「はいはい」

 「大丈夫、大丈夫だから」

 僕は大勢の人間とその喧噪にぎゅうぎゅうと押し囲まれて、前後不覚になり始めていた。

 「あー、ちょっと手を放してくれるかな~」

 僕の右手を誰かが掴んで、掌を無理やりこじ開けようとしている。

 「ちょ……!」

 「あ~、大丈夫、大丈夫」

 「なんもしないから」

 ますます周囲から僕を抑える力が強くなり、僕の右手の指が一本ずつ、ピコピコハンマーから引きはがされようとしている。

 「やめろぉ!」

 「味方だって」

 「本当に危ないからそれ」

 「放そうね?」

 「うぉおおおおおおおおぁあああああああ!」

 僕は力を開放して、周囲の人間を吹き飛ばした。

 「うわぁ!」

 「きゃあ!」

 「おわあ!」

 そして僕は、窓からミサイルのように飛び去って、ドリルのように回転した。

 シュゴオオオと耳元で風切り音がひどく、僕の思考は桜吹雪のようにバラバラになっていた。

 意味もなく笑いがこみあげてきて、僕はひどい顔をしながら空中を飛行していた。

 やがて僕は地面に突き刺さり、その場に倒れる。そしてすぐに立ち上がる。

 「……やっぱ、やめらんねえよ……やめられない……」

 僕は、ピコピコハンマーを両手に握って、顔の前に近づけた。僕の両手はマッサージ機のように震えて、ピコピコハンマーもそれに応じて震えていた。

 「えいや」

 僕はピコピコハンマーを額にぶつけた。

 ポカカカカカカと音を立てた。

 今度こそ僕はぶっ倒れて、仰向きで、大の字になって、目を閉じると、ぐわんぐわんと寄せては返す波のように、僕の意識が構築と分解を繰り返し、宇宙を僕は考えた。

 僕の顔はどうなっているのかしらないが、意識が拡散し、宇宙末期くらいに閑散としてから、時間が巻き戻るように意識が集合し、輪郭が定まり、周囲の粒子一粒まで肉眼でとらえられるレベルで精密になり、また僕は宇宙に還るのを繰り返した。

 「あーあ……またですか」

 僕が意識を凝集するちょうどいいタイミングで声が聞こえる。

 倒れる僕を見下ろす烏丸、そして僕たちを中心にして群がる無数の人間。

 烏丸の顔が遠ざかって、近づいて、遠ざかって、また近づく。

 「さっきのあの子はもう駄目ですね。もう使えません。こうしていくと、どんどん使える人間が少なくなってきます」

 ぶーん、ぶーん……。

 「日に日にあなたの言動はおかしくなってきますね。今のあなたはどこまで私のことを覚えているのでしょうか」

 そいや……そいや……。

 「体に悪いからもうそれを自分の頭に打ち込むのはやめてください」

 「あー、あー……」

 「覚えていますか? あなたが私にそれを打ち込んだ時のことを。衝撃的でした。とても衝撃的。おかげで私の頭はおかしくなってしまいました」

 よっこらしょ、どっこいよ。

 「あなたはいつからそんなことを覚えてしまったのでしょうか? あのころのあなたはとても真面目な人間でした」

 えんやこらさのあしたばを。

 「打つたびにおかしくなって、私はあなたの変わる言動の度に設定を作り直さなければならない。いい加減にしてほしいですね」

 ……。

 「……いっそ、壊れきってくれれば楽なのでしょうか?」

 ……。

 「どうしたらあなたは私のことを永遠に愛してくれるのでしょうか? あなたの頭も洗脳できればどんなに楽だったか」

 ……。

 「ええ、ええ。いいんですよ。私はずっとあなたに付き合います」

 ……。

 「私が死ぬまで、あなたが死ぬまで、人類が絶えるまで」

 ……。

 「永遠に、続けましょう」

 ……。

 ……。

 ……。


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