書道部
放課後の始まりを告げる、音の外れたチャイムが校内に響き渡る。
初夏の涼しい風が、部室の扉にかかっているのれんをなびかせている。
「せんぱーい、いますかー」
墨の匂いが充満した部室に、先輩はいた。
滑らかで、腰に届くほど長い黒髪をカチューシャで留め、邪魔にならないようにしている。しかし、その髪は机の上に無造作に放り投げられていた。
ほかの部員が来ている様子はなかった。
書道部。部員数10名、幽霊部員8名、実質部員2名。
もちろん、この実質部員というのが僕と先輩だ。
先輩はいつも、終礼後すぐ部室に来る僕よりも早くここに来ている。
「寝てるんだったら、家に帰ってくださいよー」
「……寝てないし。起きてるもん」
「じゃあ、真面目に部活してくださいよ」
バサッと顔を上げた先輩。その顔は、初めて見た人がはっとするほど美しい。遠目に見れば、非常に目麗しいのだが、その目の下には深くくまができている。
「また徹夜したんですか? くま、ひどいことになってますよ」
「いーよ、いーよ。どうせ、君しか私のこと見ないしね」
先輩の発言から、どうやら今日は授業をサボっていたようであることが伺い知れた。
先輩、本当にあれで大丈夫なのだろうか。
マグカップを手に廊下に出ていった先輩をよそに、僕は習字セットの準備を始めた。
今日は、なんという字を書こうか。コンクールに出す作品はもう出来上がっているから……。
墨汁を硯に出しながら、空想を始めた。
大空のように広がる「青」、煌めくような「星」、揺らめくような「炎」。
今日は大きく一字を書きたい気分だった。
「よしっ、今日は『風』にしよう」
心にそう決めて、古びた棚から書道辞典を取り出そうとしたその時―――、
「後輩君! 甘いよ君は!」
つい先ほどまでの、無気力な先輩はどこへやら、やる気に満ちた先輩が仁王立ちして、僕の前に立ちはだかった。
「辞典に頼って文字を書こうとしている時点で、それは君の文字じゃないね」
「そ、そうですか?」
先輩の熱意に押され、やや引き気味の僕は後退った。
彼女は僕の硯を奪うと、棚から大きめのだるま筆と和紙を取り出した。
素早く下敷きの上にそれをセットし、床にぺたんと正座する。
絵になるなー、と思った瞬間、窓から風が吹き込んだ。
先輩の髪が、ふわりと舞った。
「いざ」
先輩は、和紙の上に筆を滑らせた。緩急をつけて、ダイナミックに。白の世界を、墨がどんどん侵蝕していく。掠れているはね、トポンとしたとめ。目で見て、肌で感じたそのままを書き写しているように見える。それは、たった一文字だけど、多くを語る写真のような文字だった。
「『風』ですか?」
「そうかもしんないし、違うかも。私は、自分の思ったことを書いただけだから」
先輩は筆を流し台に投げ捨てると、帰宅の準備を始めた。
「君、私はこれで帰るから。片付けよろしく」
「え、あの筆は……」
「頼むよ、後輩君」
先輩は足早に部室を去った。
「先輩……、片付けくらいしてくださいよ」
僕は先輩の文字に目を落とした。
僕には書けない、楽しそうな文字。
和紙を拾い上げると、部室内に張り巡らされた糸にそれをクリップで留めた。