第13話 宿命の救世主
どうにか一階まで逃げ出して、ルーファスとハルカはそのまま走り、中庭が真横に隣接する回廊を抜けようとしていた。
突如、警報ベルがけたたましく響き、辺りを騒然とした空気で包んだ。
廊下にシャッターが降り、ルーファスたちの行く手を阻む。すぐに後ろに引き返そうとするが、後ろのシャッターもすでに降りている。残る道は中庭しかなかった。
誘導されるように出されてしまった中庭で、不安そうな顔をしてルーファスたちは足を止めた。
学院内にはいくつもの中庭が存在しており、ここは噴水広場と呼ばれる中庭である。芝生が広がる中央に、女神像が水浴びをする噴水が設置されている。
噴水から吹き上げられた水しぶきが陽光を浴びて煌く。その輝きを呑み込むような闇が傍らに立っていた。でも、ちっこい。
世にも美しい童子――魔人クロウリー。
「私は君が現れるのを心待ちにしていた。嗚呼、なんと崇高な姿なのか……私は君のことを心から愛しているぞハルカ」
静かで優しい音色であったが、相手がどこにいても放さないような声だった。
クロウリーがただ近づいていくだけで、ルーファスは振るえ大地が唸る錯覚を覚えた。
すべては錯覚なのだろうか?
猫の身体を得たハルカは超感覚が研ぎ澄まされ、身を刺すような悪寒と咽返るような瘴気、そして激しい嫌悪感を覚える。
怯えるようにしてハルカはルーファスの後ろに隠れ、そこからクロウリーの顔を凝視した。
「アタシに近づくな変態!」
「ルーファス君、私のハルカを渡してくれないか?」
自分の足元でハルカを見ずとも、ルーファスの答えは決まっている。
「できません」
「ハルカは私の物だ、私の手の内にあるのが当然だろう?」
「ハルカは誰のものでもありません」
「それは違うよルーファス君。ハルカは私のものである、それは運命だ。森羅万象も想いさえも、全ては運命に従い存在しているのだよ」
クロウリーはハルカの傍らに膝をついた。その間、ルーファスはまったく動けず、遠くを見たまま瞬きすらできなかった。
「(僕はなんで動けない、今は動けないなんて最低だよ、ハルカが、ハルカが……)」
汗を大量に掻きながら、ルーファスは自分を蔑んだ。
なにもできないルーファスなど、もうここにいなかった。クロウリーはハルカのことしかすでに眼中にない。
「愛してるハルカ。こちらにおいで、君を抱きしめて放さない」
深く歪んだ盲目的な愛をクロウリーは捧げた。
ゆっくりと伸びてくる手を見ながらも、ハルカは逃げることも動くこともできない。喉もからからに渇き、声を出そうにも出なかった。
ルーファスの呼吸が荒くなり、彼は念仏でも唱えるように同じ言葉を繰り返しはじめた。
「僕はやればできる、僕はやればできる、僕はやればできる、僕はやればできるかわかんないけど、やるっきゃない!」
ついにルーファスが吹っ切れた。
急上昇するルーファスの魔導力が場の空気を換える。
風が巻き起こり、芝生が波紋を立てて波立った。
ルーファスの口が呪文を吐き出そうとした。
「タ――っ!」
「覇ッ!」
クロウリーに睨まれたルーファスが、前かがみに身体を曲げて体勢のまま吹っ飛ばされた。
「邪魔をしないでくれたまえ。今から私たちは愛を語り合うのだから」
「そんなことさせない!」
地面に尻餅をついていたルーファスはすぐに立ち上がり、クロウリーに向かって駆けた。
ルーファスの手が高く掲げられ、腕の周りに風が巻きつく。
「エアプレッシャー!」
グーにして伸ばされた腕から竜巻が横に放たれた。
「覇ッ!」
だが、その竜巻もクロウリーの気合だけで一瞬にして掻き消されてしまった。
「ルーファス君、私に牙を剥くのならば、もっと殺傷力のある魔導を使って本気で掛かってきたまえ」
殺傷力のある魔導を人に向けて使うなど、ルーファスには到底できないことだった。
パラケルススも、エセルドレーダも、殺意を持って襲ってきた。
しかし、人を傷つける戦いをしていいのか、まだルーファスには判断が付かなかった。
ハルカが連れ去られようとしている。
相手を殺してまでそれを防ぐか?
ルーファスにはできない。
怯えるハルカの瞳がルーファスを見つめている。なにを訴えたいのか、その瞳を見ればすぐにわかる。
ルーファスは全速力で走った。
そして、クロウリーを押さえ込もうと飛び掛った。
「ハルカは渡さない!」
「なぜ魔導を使わんのだ。ダークポイズン!」
汚泥のように濁った泡が大量にクロウリーの手から放たれ、ルーファスの全身にヘドロのようにへばりついた。
瘴気が針のようにルーファスを串刺しにし、一瞬にして毒が体中を駆け巡った。
身体が痺れに襲われルーファスは地面にうつ伏せになったまま動けない。
胃から込み上げて来る吐き気。
ルーファスの顔は緑色に変色し、解毒剤を飲ませなくて死んでしまいそうだった。
苦しみに襲われるルーファスをクロウリーが見下ろしている。
「君はこの程度かルーファス君。私は君にも大きな期待を寄せてたのだが、実に残念だ」
「……僕は……最初から期待されような……人間じゃない」
「君の体の中には、君の力ではない大いなる力が宿っている。所詮は他人の力、君はそれをうまく使うことができなかった」
クロウリーは空に気配を感じた。
なにか来る。
心が躍るような、なにか。
学院の時を司る何十メートルもある時計台の屋根から、噴水広場を見据えるエメラルドグリーンの瞳。
綿毛のようにふわりふわりと、日傘を差して空色の影は地上に舞い降りた。
「待たせたねルーファス(ふにふに)」
中性的な面持ちも相俟って、天から舞い降りたローゼンクロイツが、今のルーファスの目には救い天使に見えた。
「……ローゼンクロイツ、君さ……登場の仕方カッコよすぎだよ」
「学院で〈猫返り〉すると必ず時計台の屋根で気が付くんだ、仕方ないさ(ふにふに)」
地面に這いつくばるルーファスの傍らにローゼンクロイツは片膝を付き、ルーファスの背中に片手を押し当てて呪文を唱えた。
「プリキュア(ふあふあ)」
ルーファスの顔色が見る見るうちに良くなっていき、全身の毒が浄化されていく。
「ありがとうローゼンクロイツ」
地面から立ち上がったルーファスとローゼンクロイツが並び、クロウリーと対峙した。
とても愉快そうにクロウリーは微笑んでいた。愛するものが二人も傍にいる。片方は正確には一匹だが。
「嗚呼、愛しのローゼンクロイツ、私に愛に来てくれたのかい?」
「……違う(ふっ)」
短くローゼンクロイツは切って捨てた。
それでも寂しい顔ひとつせず、クロウリーはローゼンクロイツに抱擁を求めようとした。
「愛してるローゼンクロイツ」
「……愛してない(ふっ)」
軽くあしらってクロウリーを避けたローゼンクロイツの口元が一瞬だけ歪み、すぐに無表情になる。相手を小ばかにしている。
ローゼンクロイツがクロウリーの気を惹いている間に、ルーファスはハルカを救い出し抱きかかえていた。
「ハルカ大丈夫だった?」
「……うん」
手を伝わって感じられるハルカの振るえ。ルーファスはもう決してハルカを放さないと心に誓った。
小柄なローゼンクロイツが、さらに小さなクロウリーを見下げた。
「なぜハルカを必要としているんだい?(ふにふに)」
「アースから来たる者、復活の後にこの世を支配する魔王となる」
「アースから来たる者、復活の後にこの世を統治する聖王となる(ふにふに)。思想の違いだね(ふにふに)」
「いつの日か、私と君が対立することは予期していたよ。私は魔眼を持ち、君は聖眼を持つ。それを知りながら私は君を支援したのは、心の底から君を愛していたからだ」
「……その愛、お断り(ふっ)」
「手に入らないから、欲しくなるのだよ」
「諦めが悪いんだね(ふあふあ)」
偽りだとしても、それを信じる者がいれば、争いが起こり、血が流れることもある。
クロウリーは魔王を望み。
ローゼンクロイツは聖王を望み。
二人はハルカを運命の救世主だと信じた。
クロウリーに視線を向けられ、ハルカは心臓を絞られる思いに陥った。
「私は君を愛し崇拝する――それは絶対運命なのだ。ローゼンクロイツを愛したのも運命であり、敵同士になることも運命だった。私が〈銀の星〉の首領〈666の獣〉だ」
「そんな気がしていたよ(ふあふあ)」
ボソッとローゼンクロイツは呟いた。
ハルカ争奪戦が幕を開けた。
先に仕掛けたのはローゼンクロイツだった。
「ライララライラ、光よ闇を貫け!(ふにふに)」
クロウリーを串刺しにせんと光の槍が天空から降り注ぐ。
「ライラかおもしろい。ライララライラ、暗黒よ光をも喰らってしまえ!」
強大な闇が獣のように口を開き、天から降り注ぐ光の槍を丸呑みしてしまった。
ライラとは古代魔導であり、威力は絶大だが現在では使える者がほんの一握りしかない。現在主流となっている魔導は、ライラを簡略化させた魔導であり、威力はライラに遠く及ばない。
空で光が呑み込まれるのを待たず、ローゼンクロイツはクロウリーに向かって駆け出していた。
「ライララライラ、宿れ光よ!(ふにふに)」
ローゼンクロイツの持っていた日傘に光が宿り、それは闇を切り裂く光の剣と化した。
相手を殺す気でローゼンクロイツはクロウリーの脳天に光の剣を振り下ろした。
が、光の剣はクロウリーの顔を前にして、素手によって受け止められていた。
「悲しいぞローゼンクロイツ。まだまだ私たちには、これほどまでの力の差があるのだ」
憂うクロウリーの手が大きく振られ、ローゼンクロイツは強烈な平手打ちを受けて横に吹っ飛ばされた。
地面に転がってもすぐローセンクロイツは立ち上がり、クロウリーに飛び掛ろうとした。
だが、クロウリーの姿が消えた。
ルーファスが叫ぶ。
「ローゼンクロイツ後ろ!」
声は耳に入ったが、ローゼンクロイツが驚愕して動けなかった。
自分の背中に伝わる温もり。後ろから抱きしめられてるとわかっても、ローゼンクロイツは動けなかった。
「もっと強くなれローゼンクロイツ」
耳元でクロウリーの囁きが聴こえ、ローゼンクロイツの首筋をクロウリーの唇が這った。
ローゼンクロイツは膝から崩れ落ち、地面に両手を付き項垂れた。その顔から零れた汗が地面を濡らす。
――人生ではじめて真の敗北を知った。
戦意を喪失させたローゼンクロイツをその場に残し、クロウリーが一歩一歩ルーファスとハルカのもとに近づいてくる。
「さあ、愛しのハルカ。私と共に新時代を築こう」
恐怖に駆られたハルカがルーファスの腕の中から逃げ出した。
「イヤ、イヤ、イヤーっ!」
逃げるハルカをルーファスが止めようとする。
「行っちゃだめだ、僕の傍にいて!」
だが、ハルカの耳にルーファスの声は届かなかった。
景色すら見えない。闇の中にいるように、なにも見えない、なに聴こえない。ハルカは迫ってくる恐怖から一心で逃げ出した。
闇の手がハルカの身体を包み込んだ。
恐ろしいまでに妖艶と笑うクロウリーの瞳の中で、六芒星とハルカが重なり合った。
「行こうハルカ」
クロウリーの背中に赤黒い六枚の翼が生え、ハルカを抱きかかえたまま飛び去ってしまった。
また、ルーファスは一歩も動くことができなかった。