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決別6



 ディリーアは水しぶきを上げて、井戸の底に降り立った。

 青い光が石壁のあちこちに反射し、ゆらゆらと揺らめいている。

 ディリーアは井戸の底の横穴に目をこらす。

「いるんだろう? 出てこい」

 ディリーアは暗闇に向かい、声を張り上げた。

 暗い闇の中に赤い火が灯る。

 それが徐々に大きくなり、いつしか赤い炎は巨大な獅子の姿になった。

 獅子はディリーアの姿を赤い瞳に映すと、彼女に向かって突進してきた。

 低いうなり声を上げ、獅子の鋭い爪がひらめいた。

 ディリーアはわずかに腰をかがめ、手のひらですくい取った水を自分の周りに散らす。

 たったそれだけで、水滴は薄い水の膜を作り、獅子の爪と肌を焼くような熱気を防いだ。

「やめておけ、火の神。今のわたしには、狂気に取り憑かれたお前を、全力を持って叩き伏せ、正気に戻すことしか出来ない。すまないな」

 獅子は口から炎を吹き出し、がむしゃらに水の膜を爪でひっかく。

「あの時とは、逆の立場だな」

 ディリーアは青い目を細め、悲しげに微笑んだ。

「まさか、再びお前とこうして戦う日が来ようとは、思わなかったぞ」

 らちがあかないと悟った獅子は、低いうなり声を上げ、宙にいくつもの火球を生み出した。

 水面に赤い炎が映り、その熱気は天井の石壁まで立ち上った。

「火の神、聞こえているか? もし聞こえているのなら、返事をして欲しい」

 ディリーアは一縷の望みにかけて、獅子に呼びかけた。

 しかし獅子からは人間らしい答えが返ってくることは無かった。

 返ってきたのは獰猛な低いうなり声と、血走った赤い目差しだけだった。

「わたしがわからないと言うことは、理性さえ失ってしまったようだな」

 ディリーアの声に諦めの響きが混じる。

「おい、大丈夫か!」

 頭上からかけられた声に、ディリーアは驚いて顔を上げる。

 見上げると、縄につかまったコナルが、ディリーアの方に真っ直ぐ手を伸ばしている。

 辺りは獅子の火球に照らされて、真昼のように明るい。

 それに加え、夏の太陽のような熱気が水面に陽炎を立ち上らせている。

「早く、手を伸ばせ。こんな化け物相手に、お前が勝てるわけ無いだろう!」

 炎の熱気にあぶられ、コナルは汗を垂らしながらディリーアに必死に手を伸ばす。

 ディリーアは目を丸くする。コナルの言葉を反芻し、はたと思いついた。

「そうだ。勝てなくてもいいんだ」

 ディリーアはコナルを振り仰ぎ、無邪気に微笑んだ。

「有り難い忠告、感謝する」

 ディリーアは井戸の石壁を軽く叩くと、獅子に向き直った。

「わたしはお前と最後まで付き合うと決めたのだ。お前は了承しないとは思うが、悪いな」

 石壁から水が勢いよく噴き出し、足元の水がうねり盛り上がる。

 壁の石が水しぶきを上げ、いくつも水面へと落下する。

「おい、早く手を」

 コナルの言葉を遮って、目の前に数本の水柱が生まれる。

 コナルは渦を巻く水柱に飲まれ、その声はディリーアの耳には届かなかった。

 ディリーアはふっと安堵したように息を吐き出した。

「そうだな。わたしは何を焦っていたのだろう。もはや、何かを思い煩う必要は無かったはずなのに」

 井戸の側面から吹き出す大量の水と、徐々に上がってくる水位を見ながら、ディリーアは静かに目を閉じた。



 暗闇の中、遠くで水の音を聞いた。

 それは遠くから近くから、大きく小さく、とりとめなく聞こえてくる。

 ――わたしは、死んだのか?

 うっすらと目を開けると、顔に温かい息が吹きかけられていることに気付く。

 目を開けた途端、眩しいくらいの輝きが目に飛び込んでくる。

 優しげな赤金色の瞳がのぞき込んでいるのに気付き、ディリーアは安堵した。

 ――ああ、すべては悪い夢だったんだな。あいつがいなくなったなんて、嘘だったんだな。

 そう思って眠りに落ちようとしたのは束の間だった。

 ディリーアが手を伸ばして触れたのは、人の肌の感触ではなく、ふわふわした毛皮の手触りだった。

 ディリーアが驚いて飛び起きると、目の前のそれは後ろに飛び退った。

「お前、どうして?」

 ディリーアは目を見開いて、低いうなり声を上げる獅子を見つめる。

「どうして、わたしを殺さなかった?」

 炎の獅子は警戒するように、低いうなり声を上げる。

 ディリーアは獅子が自分から襲ってこないのに気付き、考え込んだ。

 理性を失っているはずなのに。

 言葉は通じないはずなのに。

 ディリーアは何かが引っかかった。

「お前は、わたしを助けてくれたのか? 火の神」

 ディリーアはそっと手を伸ばした。

 獅子はその手を避けるように、すっと鼻先を背ける。

「お前なんだな、クロフ」

 ディリーアは立ち上がり、獅子のたてがみに腕を回し抱きついた。

 獅子はわずかに嫌そうに顔を背けたが、ディリーアの腕を振りほどこうとはしなかった。

「よかった。本当に、よかった」

 ディリーアは獅子の首を抱きしめたまま、何度も同じ言葉を繰り返す。

 ディリーアの両目からは涙がこぼれ、獅子のたてがみの上にぽたぽたとこぼれ落ちる。

 胸の内から溢れてくる気持ちを、彼女は止めようとはしなかった。

 ディリーアが泣きやむのを待って、獅子は体を離した。

 背を向け、洞窟の奥へと歩いていく。

「待ってくれ!」

 ディリーアは獅子の後を追う。

 獅子はかまうことなく暗い道を歩き続ける。

 洞窟の道は曲がりくねり、道が幾筋にも分かれている。

 分かれ道のたびに、獅子は立ち止まり、鼻を引くつかせると、また歩き始める。

 ディリーアは獅子が自分をどこかへ導いているのだと感じ、心持ち不安に思った。

「なあ」

 ディリーアは前を歩く獅子に話しかける。

「お前はわたしをどこへ案内しようと言うんだ?」

 ディリーアは足を止め、獅子の背を見つめる。

「お前は、わたしを外へと案内するつもりじゃないだろうな?」

 獅子はディリーアから少し離れたところで立ち止まり、ゆっくりと振り返った。

「人の姿を失い、言葉も失い、お前は獅子の姿でずっとこの洞窟に一人でいるつもりか?」

 ディリーアは獅子から目をそらすようにうつむく。

「お前はそれでいいのか? かつてわたしがそうだったように、暗い光の差さない場所に独りでいて、それで平気なのか?」

 ディリーアは胸の前に手を当てて、昔を思い出すように目を細める。

「わたしは、平気ではなかった。独りであの森にいて、人間達に恐れられて、寂しくて、悲しくて、とても辛かった。お前は、そうではないのか?」

 獅子はディリーアに対し身構え、低いうなり声を上げる。

 血のような赤い瞳は怒りに輝き、たてがみは音を立てて燃え上がる。

「そうか、あのときのわたしと同じか。お前があのときわたしに何を言っても届かなかったのと同じように、今のお前に何を言っても無駄だと言うことだな」

 ディリーアは肩を落とし、うなだれる。

 獅子はディリーアに背を向けて、また歩き出した。

 ディリーアは何も言わず、獅子の側に駆け寄り、隣を歩いた。

「わたしは、お前の側にいたい」

 ディリーアは歩きながら、獅子の背にそっと手を置く。

「お前は、わたしが側にいたら、迷惑か?」

 獅子の赤い目をのぞき込み、ふかふかの毛皮をなでる。

 獅子はうなずく素振りも、嫌がる素振りも見せなかった。

 ディリーアは獅子の背中をなでながら、いたずらっぽく笑う。

「もう決めたからな。お前が反対しても無駄だぞ」

 獅子は赤い瞳でディリーアを見つめ、ひげをそよがせていた。


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