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決別5



 夜空に青い月がかかっていた。

 リンボクの木々が生い茂る林で、クロフは一人立ち尽くしていた。

「どうだ、思い出したか?」

 クロフと向かい合うように、青い頭巾をかぶった男が立っている。

「お前が望むのなら、生まれる以前の記憶、火の神として天上にいた頃の記憶も見せてやるが」

 クロフは答えなかった。

 クロフは拳を握りしめ、肩を振るわせ、怒りとも悲しみとも付かない感情が、彼の心の中に宿っていた。

 男の声はもはや、クロフの耳には届いていなかった。

 男がそこにいることさえ、今のクロフにはわからなかった。

 母親が殺された深い絶望と怒りが、クロフの心を支配していた。

「やれやれ、これくらいで心が壊れるとは、人間とは脆いものだな」

 男は青い衣をひるがえすと、暗い夜空を振り仰いだ。空には青い月が煌々と輝いている。

「汝に、夜の絶望と狂気を、そして一時の安らぎが与えられんことを」

 青い衣の男は白い口元を歪め、くっくっと声を出して笑う。

 リンボクの枝に紛れるように、男の姿は闇に溶けた。



 井戸の底にたどり着いたコナルは、ゆっくりと水の中に足先をひたす。

 透明な水面には、井戸の中に差し込むわずかな日の光が白い粒を散らしている。

 コナルは自分の体に巻き付けた縄を二度引っ張り、井戸の底に着いたことを上に知らせる。

「おい、大丈夫か!」

 コナルは暗く沈む井戸の横穴に向かって呼びかけた。

「無事だったら、返事をしてくれ!」

 コナルの声が虚しく石壁に木霊する。

 井戸の底を見回してもクロフの姿はなく、暗闇からは物音一つ返ってこない。

 静まりかえった闇の底から、水の流れるかすかな音だけが聞こえてくる。

 不意に、赤い火が暗闇の中に灯った。コナルは大声を張り上げる。

「おい、大丈夫か! 怪我はないか?」

 コナルはその火の燃える方へと走っていく。

 水をかき分け、水しぶきを上げてコナルは足を進める。

 赤い火は明るく揺らめき、徐々に大きな炎へとなっていった。

 その炎が人の背丈をゆうに超えるほどに燃え上がったのを見て、コナルはようやく不審に思った。

「なあ、本当にお前クロフなのか?」

 コナルは足を止め、赤い炎を見上げる。

「まさか、井戸の底に住むという化け物に食われちまったとか?」

 足は震え、声は上ずり、コナルは後ろに後ずさった。

 赤い炎は徐々に形を成し、さらに大きく燃え上がり、暗闇を真昼のように照らし出す。

 炎は赤いたてがみのように横穴の天井を照らし、太くがっちりした四肢には鋭く長い爪が生え、しなやかな体躯は金色に輝いている。

 血のように赤い瞳は、狂気の色を宿し、コナルを見下ろしている。

 炎は獅子の姿を闇の中に浮かび上がらせた。

 コナルは悲鳴をかろうじて飲み込み、井戸の光差す方向へ引き返す。

 後ろも振り返らず、何度も何度も水に足を取られ、転びそうになりつつ、コナルは石壁の前にたどり着く。

「ば、化け物だ。井戸の底に化け物がいるぞ!」

 コナルは縄を引っ張り、井戸の上を見上げ叫んだ。

 背後からは獅子のうなり声と、水をかき分ける音が近づいてくる。

「くそっ、槍さえ持っていれば」

 縄が上にするすると巻かれ、コナルの体がゆっくりと宙に浮く。

 獅子の爪が空を裂き、間一髪のところでコナルはそれをかわす。

 コナルは石壁を足で蹴りながら、巨大な獅子の姿が遠ざかっていくのを見下ろしていた。



 地上に帰り着いたコナルは、息を切らせ早口に叫ぶ。

「この抜け道はだめだ。井戸に落ちたクロフは、もう化け物に食われちまった。くそっ、こんなことになるとわかっていれば、別の方法を探したものを」

 コナルは地面に両手をつき、頭を垂れる。

「若」

 中年の男が、コナルを気遣うように声をかける。

 ディリーアは手で口元を覆い、一人考え込んでいた。

「今、化け物と言ったな? それはどんな化け物だった?」

 うつむいていたコナルは、ディリーアの冷淡な口調を耳にし、顔を上げた。

「兄の死を悲しむより、化け物のことが先か? たいした使命感だな」

 コナルはのろのろと立ち上がる。

「それともまさか、死んだ兄の敵を討とうって言うのか? やめとけ、お前がかなうような相手じゃないぞ」

 ディリーアは答えなかった。

 うつむき、考え込んだままだ。

「確かに、お前の兄の敵を討ちたい気持ちはわかる。その度胸は、女にしとくのがもったいないくらいだ。だがな、相手は獅子の化け物だぞ。一人で勝てる相手ではないんだ」

 ディリーアは顔を上げ、青い瞳でひたとコナルを見据える。

「いま、獅子と言ったか? それは炎に包まれた獅子の姿をしていたか?」

 ディリーアはコナルに詰め寄った。

「そ、そうだ」

 コナルは気まずそうに顔をそらす。

 ディリーアはコナルから離れ、背後に立っていた中年の男を見上げる。

「わたしを井戸の中に下ろしてくれ」

「それは出来ません」

 中年の男はゆっくりと首を横に振る。

「若の言っているとおりです。あなたが行っても、返り討ちにされるだけです」

 ディリーアがなおも口を開こうとしたとき、二人の間にコナルが割り込む。

「落ち着けよ。今はそんなことをしてる場合じゃないだろ?」

 コナルはディリーアの両肩をつかみ、乱暴に揺さぶる。

「あの王妃から逃げるのが先だろ? 幸い、お前一人かくまうのなら、言い逃れする方法はいくらでもある。それでもしお前が兄の敵をどうしても討ちたいというのなら」

 コナルはそこでいったん言葉を切る。

「おれのところに来い。敵は必ずおれが討ってやるから」

 ディリーアはわずかに青い目を見開いた。

 コナルの真摯な目差しから逃げるように、井戸のたもとの枯れ草を見下ろす。

「有り難いな」

 ディリーアは肩に乗られていたコナルの両手をそっと振りほどく。

「有り難いが、残念ながらそれは出来ない」

 ディリーアはコナルから離れ、井戸の石垣に走り寄った。

 二人を振り返り、寂しげに笑う。

「炎の獅子は火の神の原初の姿。本来の火の神は激しい気性の持ち主でな。浮気が知れたら、浮気相手はもちろん、わたしまで炎に巻かれてしまう」

 そう言って、肩をすくめる。

 ディリーアは木の根本に結びつけられた縄を握りしめ、井戸の中に飛び降りた。

「おい!」

 駆け寄るのが早いか、コナルは縄の先をつかむ。

「何を考えている! 死ぬ気か?」

 コナルが縄の先をたぐり寄せると、もうその先にディリーアの姿は無かった。


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