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決別4



 気が付けば、クロフは白い雪の上に座り込んでいた。

 灰色の空から、雪が絶え間なく降り続き、街の建物を一面白く染めている。

「ここは」

 クロフは雪の上に立ち上がった。

 クロフが雪をつかもうと手を伸ばすと、白い霧のようにクロフの手をすり抜けていく。

 ――ここは夢の中か?

 クロフは雪の寒さも、地面を踏んだ感触も感じられず、まるで白昼夢を見ているかのようだ。

 クロフは雪の積もった街を見回し、遠くに見える大きな建物の屋根を見上げる。

 一番奥の建物へ導くように、大通りが延びている。

 大通りには雪の寒さに身を縮めた人々が荷物を担ぎ、白い息を吐きながら歩いている。

 ――ここは、神殿の外の街か?

 クロフは過去に神殿からこっそり抜け出したときのことを思い出す。

 その時は何もかもが珍しくて、人々の賑わいに目を奪われ、ろくに街の外観など見ていなかった。

 改めて周りを見回してみると、神殿の窓から眺めていた建物が、あちらにもこちらにも見えた。

 しかしクロフは雪の日に街に出たことはおろか、この通りを一人で歩いた記憶さえない。

 一度も見たことのない光景のはずなのに、クロフは不思議と懐かしい気持ちが蘇った。

 ――知ってる。

 クロフの足は無意識のうちに走り出していた。

 ――ぼくは、この光景を知っている。

 知らず知らずのうちに、神殿の入り口へと向かっていた。

 クロフは大きな神殿の屋根を目印に、通りの角を右に左に曲がっていく。

 クロフは息も切らせず、雪に足跡も付けず、門の前にたどり着いていた。

「母さん」

 クロフは我知らず叫んでいた。

 クロフの見つめる先には、寒さに身を縮めながら歩く、一人の女がいた。

 クロフは女に駆け寄り、その手を取った。

「母さん、母さんだね?」

 しかしその手は雲をつかむように通り抜け、その指先には何の感触も残らなかった。

 女は無心に神殿への石段を登っていく。

 門の前には神殿の衛兵が槍を構え、いかめしい顔付きで立っている。

 ――いっては駄目だ。

 クロフは女に追いつき、その前に立ちふさがった。

「神殿に行っては駄目だ!」

 彼女の体は霧のようにクロフの体を通り抜け、足を止める気配を見せない。

 やがて門の前にたどり着いた女は、神殿の衛兵に止められ、立ち止まった。

「女、神殿に何の用だ?」

「ここは、お前のような者の来る場所ではない。早々に立ち去れ」

 女は頭を下げ、口を開く。

「わたしの息子がこの神殿で学んでいます。息子の顔を一目見たいと、長い道のりをここまでやってきたのです。どうか一目息子と会わせてください。一目だけでいいんです」

 女の真摯な態度に、衛兵は顔を見合わせる。

「お前のような貧しい女が母親とは」

「子供の名は、何というのだ?」

 女は低く頭を下げる。

「はい、クロフと言います」

 衛兵の顔色が変わった。

「少々お待ち下さい」

 衛兵の一人が慌てて門の中に入っていく。

 しばらく待った後、衛兵は一人の神官を連れて戻ってきた。

「子供と会いたいというのは、この女か?」

 神官は蔑むような目付きで女を見下ろしている。

「はい」

 衛兵が短く答える。

 クロフはその男を見ていると、理由もなく不快感に襲われる。

 その目は死んだ魚のように濁り、気だるげな表情が顔に張り付いている。

「なるほどな」

 神官は杖にもたれかかり、考える素振りをした。

「どうか、どうか、クロフに会わせてください」

 女は膝を折り、雪の上に頭を垂れる。

 衛兵二人は気まずい表情をして、顔を見合わせている。

「そうは言われてもな」

 神官は杖で石の床を叩く。

「我々もそう暇ではないのだ。そんなつまらん用事で、部外者を神殿内に入れることは出来ん」

 女は寒さで冷えた体を縮ませ、必死に頭を下げる。

「どうか、一目だけでも」

 神官は杖で石の床をこつこつと叩く。

「駄目だ、駄目だ。ここはお前のような平民が来るところではない」

「一目だけでいいのです。決して、神官様には御迷惑はかけません。お願いします」

 女は神官の足元にすがりついた。

 その瞬間、まるで汚い土でも靴に付いたかのような素振りで、女の腹を蹴り上げた。

「平民の女風情が、汚い手で触るな!」

 女は雪の上にうつぶせに倒れた。

 神官は杖を振りかざし、何度も女の体を打ち付ける。

「何様のつもりだ。ここはお前のような薄汚い女が来ていい場所じゃないんだ!」

「すみません、すみません」

 女は許しを請うように、地面にうずくまっている。

「やめろ!」

 クロフは叫んだ。

 クロフは女に駆け寄り、神官との間に割り込んだ。

 神官の杖はクロフの体を通り抜けるだけで、どうすることも出来ない。

「やめろ、やめろ!」

 クロフは大声で叫び、その目から涙が溢れる。

 衛兵の二人は苦しげな様子で、止めるべきか迷っているようだった。

 不意に女が大きく咳き込んだ。

 杖を振り上げていた神官は動きを止め、うずくまる女を見下ろす。

 女の口からは血が滴り、雪の上に赤い血だまりを作る。

 クロフは女の背中に手を伸ばしたが、その背に触れることはかなわなかった。

 外から見ただけでも、女の怪我が重いことはクロフにはすぐにわかった。

「すぐに神殿で治療を!」

 クロフは神官を見上げる。

 神官は自分の方に血が飛び散るのをいやがるように、門の方へ後ずさる。

「だ、誰か」

 神官は蚊の鳴くような声でささやく。

「この女を外の通りに捨ててこい」

 神官は震えながら、白い門の柱に寄りかかる。

 衛兵は戸惑うように門の中に視線を投げかける。

「しかし、このようなことが上に知られれば」

「う、うるさい! それがばれる前に、女を捨ててくればいいだろう? お前の頭は空っぽか? さっさと捨ててこい!」

 まだ渋っている衛兵達に、神官は声を荒上げた。

「さっさと行け!」

「やめろ!」

 クロフは叫ぶだけで、神官につかみかかることも、衛兵を止めることも、ましてや母親を助けることも出来なかった。

 衛兵は恐る恐る女の体をつかみ、持ち上げた。

 その拍子に、女が激しく咳き込み、口からは大量の血がこぼれ出る。

 衛兵達はそれを出来るだけ見ないようにして、女を運び上げた。

 女を担いだ衛兵二人は、雪の石段を一歩一歩下っていく。

 クロフも重い足取りで、それに続く。

 女の口からしたたり落ちた血が、目印のように点々と雪の上に赤い染みを残していく。

 雪の降り続く曇天の下、道ですれ違う者はほとんどいなかった。

 すれ違った者はみな目をそらし、早足に通り過ぎた。

「ここら辺でいいだろう」

 衛兵達がたどり着いたのは、貧しい家々がひしめき合う、小さな路地だった。

 路地は静まりかえり、家の戸口は固く閉ざされている。

 衛兵は路地に女を放り出すと、後ろを振り返らず走り去っていった。

 クロフは口から血を流し、仰向けに横たわる女に近づき、血の気の引いた顔をのぞき込む。

「母さん」

 クロフの呼びかけに、女の返答はなかった。

 女は虚ろな目で暗い雪空を見上げ、苦しげ息を吐き出している。

「クロフ」

 女の唇がかすかに動いた。

 白い息がゆらゆらと灰色の空に吸い込まれていく。

 クロフの目から涙がこぼれた。

「ごめん、ごめんよ、母さん」

 クロフは母親に寄り添うように、声を上げて泣きじゃくった。

 母親の白い吐息が消えるまで、その体が白い雪に覆われて見えなくなるまで、クロフは決してその場を動こうとはしなかった。

 それはクロフの夢に見た光景に似ていた。

 悪い夢のように、母親の死はクロフの心を苦しめ、むしばんでいく。

 それは月の光をも吸い込んでしまう夜の水のように、静かにクロフの心を満たしていった。


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