決別3
水面から差し込む日の光のように、淡い水色の光がクロフのいる部屋の中を照らしている。
クロフは大きな椅子に座り、床に着かない両足をぶらぶらと揺らしている。
部屋の中からも外からも、物音一つ、話し声一つ聞こえてこない。
静寂に耐えられなくなったクロフは、椅子から飛び降りて部屋の戸口に走っていく。
部屋の外に出ると、長く真っ直ぐな廊下がどこまでも続いている。
――ここは、神殿の廊下だ。
クロフは首を傾げた。
自分のいる場所は神殿の中と決まっているのに、どうして当たり前のことを考えるんだろう、と不思議に思ったのだ。
クロフは今まで考えていたことなどすっかり忘れ、長い廊下を走っていく。
廊下の途中にある部屋をのぞき、神官達の姿を探す。
普段ならば、クロフの姿を見つけただけで神官は笑顔であいさつし、声をかけてくれるはずだった。
それが今日に限って、いつもと雰囲気が違っていた。
のぞいた先には神官の姿は見えず、クロフはさっきからずっと人とすれ違っていなかった。
「南と北の間で、また戦争が起こるとか」
不意に大きな扉の中から、神官達の話し声が聞こえた。
クロフは廊下の突き当たりにあった、大きな扉に近づき、隙間から中をのぞき込んだ。
細い扉の間からは、うっすらと白い光が漏れている。
高い天井の部屋の中では、何十人もの大人達がテーブルを囲んで話し合っている。
「各地にいる神官達の話ですと、今回は南が北に攻め込んだとか」
周りにいた神官達のため息が聞こえてくる。
「確か、以前は大麦の収穫が少ないという理由で攻め込み、今回は牛の乳の出が悪いという理由で攻め込んだと聞きます」
「全く、あの王にも困ったものですな。前の西の上王がご存命なら、このようなことも起こらなかっただろうに」
向かいのテーブルから別の声が上がる。
「あら、噂によると、あの南の王は、西の上王の位をほしがっているとか。自分の身の程もわきまえず、愚かだこと」
広間にささやきが満ち、神官の一人が椅子から立ち上がった。
「今こそ、神殿の権威を示すべき時です」
一人が席を立つと、それに賛同するように、周りの神官も椅子から腰を上げる。
「そうです。彼らの愚かな争いを止めるのです」
「我々には、それを止めるだけの力がある。こんな時こそ、神託にあるあの少年の力を使うときです」
今までどよめいていた広間が、水を打ったように静まりかえる。
クロフは大人達の話している内容まではわからなかった。
しかし胸の奥ではとても嫌な気持ちが渦巻いていた。
「それは、まだ早いのではないでしょうか?」
テーブルの席から疑問の声が上がる。
「少年はまだ幼く、火の神の力を十分に使いこなしているとは、とても思えません」
その意見に対し、反対の声が上がる。
「早いことは無いのではないか? 戦場に出るのも、良い経験になるだろうし、力の使い方を覚えるのには、ちょうど良い機会だと思う」
「わたしもそう思います」
「いや、わたしは反対だ」
様々な意見が飛び交う広間の扉から離れ、クロフは長い廊下を自分の部屋目指して駆け出す。
――神殿の大人達は、いつもこうだ。
クロフは痛む胸を押さえ、自分の部屋の戸口をくぐる。
その瞬間、目の前が再び青い光で満たされた。
青白い光の中に浮かび上がってきたのは、神殿の中庭の景色だった。
緑の草地のそばの白い柱に、寄りかかっている二人の男女が見える。
一人は初老の男で、もう一人は中年の女だった。
二人とも白い衣を着て、長い杖を手にしている。
クロフにとって、二人は神殿内で心の許せる数少ない人物だった。
二人は白い柱の影に隠れるように、小さな声で何事か話をしている。
普段とは違う気配を感じ取ったクロフは、足を止め中庭の向かいの柱の影から二人の様子を眺めていた。
「いつ、彼に本当のことを話したら良いのでしょう」
女神官が初老の神官に尋ねる。
「まだ早いのではないか? 今のあいつに事実を受け入れられるとはとても思えん」
老神官は眉間に細い指を押し当てる。
「では、いつごろ話をすればいいのです? わたしはこの十年近く、一時も心の安まるときはありませんでした。彼の母親が亡くなったのは、わたしのせいなのではないかと」
「滅多なことを言うではない!」
老神官が厳しい声を上げる。
「あれは事故だったのだ。誰のせいでもない。ましてやお前のせいではない。我々は知らなかったのだ。神殿が彼の母親に金を送っていなかったことや、母親に彼をあわせないでいたことも。何も知らなかったのだ」
クロフは二人の話をそれ以上聞かず、柱に背を向けて歩き出した。
――ああ、やっぱり。
クロフはすれ違った神官達にあいさつも交わさず、自分の部屋に入り、鍵を閉めた。
――わかっていた。わかっていたことなのに。
神官達の噂の端々で、すでに母親が死んでいること、それが神殿のせいであることなどは聞き及んでいた。
クロフは壁にもたれかかり、そのまま床に座り込んだ。
実際に話しているところを目撃し、言葉を聞いた途端、クロフは暗闇に突き落とされたような気分になった。
頭ではわかっていても、気持ちの面では納得していなかったのだ。
心の片隅のどこかで、幼い子供のように母親は生きていると信じて疑わなかったのだ。
黒い雨雲が空を覆うように、クロフの心にも絶望の色がじわじわと広がっていった。
青い水面に波紋が広がるように、クロフの目の前の景色がぼやけ、代わりにある冬の光景が映し出される。