(5)
モニターの向こうが、俄然騒がしさを増した。
それは、昼休みが始まったときのような無秩序で、のんびりした騒がしさじゃない。全員がひとつの事実に、驚きと恐怖をむけているのだ。
雄一が、ナイフを鞘から抜いていた。
「あわー、だ、だめ!だめですよぅー」
「おいバカ、やめろ、早まるな!」
俺とメイはモニターの前で右往左往したが、そんなことをしても事態の進展には当然ながら何の影響も及ぼさない。
「こ、このままじゃげんぽうとこうかくが確定です。とらちゃん、短い間ですけどお世話になりってあいた!」
「なにあきらめてんだ!なんとかしろよ!」
メイが突然俺にむかって頭を下げやがったので、髪の分け目を思い切り突っついてやる。
「そんなこと言ったって、何度も言ってるようにここからじゃ起きてる人に干渉する手段はないんですよぅー」
「起きてるように見えて実は寝てるなんてことはないか?」
「とらちゃん、いくら何でもそれは──」
「いいから、調べろ!」
このまま最悪の事態になった場合、メイは減俸と降格ですむかもしれないが、俺はその存在自体を抹消されてしまうのだ。俺は必死でメイをうながした。
メイはモニターの脇に設置されたパネルを操作して、表示された数字を確認する。やはり俺には理解できないが、それを見ればターゲットの心理状態や体調なんかがわかるようになっているらしい。
「うーんと、あっ、でもとらちゃんの言うこともあながち間違いでもないみたいです」
「なにっ、どういうことだ?」
「雄一君、今は半覚醒状態に近いですねー。トランス状態というか、イっちゃってる状態というか」
つまり、完全に眠っているわけではもちろんないが、通常の状態でもないということか。
「おい、それなら何とかなるんじゃないか?」
「えー、でも、夢を見ているのとはほど遠いですよ?」
どうもメイの食いつきがわるい。あきらめがよすぎるんじゃないか?
「もしかしておまえ……」思い当たってしまった。「一度俺のこと消して、次は黒猫の使い魔を作ろう、とか思ってるんじゃないだろうな」
「うえっ?ち、違いますよぅー。さすがにそこまでは思ってないですー」
メイは両手を顔の前でぶんぶん振って否定したが、逆にその仕草が怪しい。
「本当だろうな……」
「本当ですよぅー」
「だったら、最後まで努力しろ!」
「はぐっ」
俺はメイの眉間のあたりを突っついた。
「み、眉間は人体の急所ですよぅー」
「ちゃんと手加減しただろ。それより、半分寝てるってことなら、扉を開いて夢の世界から呼びかければ、ひょっとしたら聞こえるんじゃないか?」
メイは一瞬きょとんとしたあと、思案顔になった。
「あー、どうかなぁ……。やったことはないですけど──」
「なら、試す!」
言いよどむメイを叱咤する。俺は翼を腕のように振って夢の世界とつながっている扉を示した。
が、そこでひとつ思い出した。扉の先が誰ともつながっていない場合は、ロックがかかっていて扉は開かないのだ。
「扉が開かない──なんてことはないよな?」それでは、呼びかけようもない。
「安全装置は座標をセットさえしてあれば外れるはずですけど──あ、開きますねー」
ノブを引いたメイの声がにわかに嬉しげなものになる。
「うわ、うわ、すごい霧ですー」
しかしすぐにあわてだした。全く夢を見ていないものの夢の世界は、通常の何倍も濃い霧に覆われていて、十センチ先も見通せない有様だったのだ。
「これは、中に入るのは無理ですねー。一瞬で迷子ですよぅー」
ばたばたと手を振って霧を払いながらメイが言った。霧は俺たちがいる小部屋の方まで進入しようとしている。確かに、この中に入っていくのは自殺行為だ。
「なら、ここから呼びかけるまでだ。叫べ、腹の底から!」
「ゆ、雄一くーん」
「もっと大きく!」
「ゆーいーちくーん!きこえますかぁー!」
広い夢の世界に、メイの声がこだまとなって響いていく。
「ちょ、ちょっと武市君、やめなよ!」
離れた位置からクラス委員の女子が雄一に訴えている。
「おい誰か、先生呼んでこい!」
男子生徒のひとりがそう言い、別の生徒が何人か連れだって教室を飛び出していった。
周囲は騒然としていたが、雄一はそちらへ視線を向けることもしない。
その目はひたすら、目の前の大男に──母の漬け物を侮辱した男に向けられていた。
そしてその手には、果物ナイフ。
刃渡り十数センチほどのものとはいえ、中学校の教室には十分に不似合いな輝きを放っていた。
「おい、おまえ正気か?」
大男は平然を装ってはいたが、その声はかすかに震えている。
正気かどうかはわからない。だが本気かどうかは、その眼を見ればわかる。
雄一は本気だった。
「スイッチを──押してもよかったんだ」
独り言のようにつぶやく。
「母さんが死んで、僕にはなにも残っていないんだから。だけど、それでいいのかなって──このまま死んだら、ほんとうになにも残さず、ただ生まれてきて、死ぬだけで終わっちゃう。それでいいのかなって……」
「な、なに言ってんだ、こいつ」
雄一の言葉は、周りの人間からすればまるで要領を得ていない。
「目の前にしたら、誘惑に負けて押しちゃうと思ったから──寝ないで、ずっと考えてた。僕にはまだ、できることがあるのかなって」
「やばいよテツさん、こいつ、ちょっとイっちゃってるんじゃ──」
「うるせえよ。お、おまえは下がってろ」
大男自身にも雄一がまともでないことは伝わってきていたが、ここで簡単に逃げ出すようでは今後の体裁が保てないとの考えから、そこに踏みとどまっていた。
雄一はなおもそいつから眼をそらさないまま、誰向けでもない独白を続けている。
「だけどさすがに、もう限界だ。もう耐えられない。僕がいたあかしを──母さんを侮辱したおまえを。母さん、ぼくは大好きだったのに、だから、世界に、傷跡を、なにもしてあげられなかったから」
雄一の言葉は、もはや意味不明の単語の羅列になっていた。その眼は相変わらず相手を見つめているようで、しかし焦点が合っていないようにも見えた。
「母さん。僕の、傷跡を、残してやる」
雄一が右手のナイフを構えなおし、右足を一歩踏み出した。相手はその圧力に押されて一歩下がり、背後にあった机に手を置こうとした。
しかし、よほど手に汗をかいていたのだろう、右手が滑り、机のへりをとらえそこねた。大男は大音量を響かせて無様に転び、尻をしたたかに打ちつけた。周囲を囲む生徒たちがどよめく。
雄一が一歩、一歩と近づいてくる。大男はすぐ背中に机があるから、もう下がることができない。その距離が詰まる。ナイフの届く位置になる。
雄一には表情がなかった。まったくの無表情で、その位置に立っている。
大男はこれまで、殴りあいの喧嘩ならいくつも経験してきた。そんなとき、相手はいつも怒りに頬を紅潮させ、激情を隠さずにむかってきた。彼自身も同様だっただろう。
こんな風に、生命を左右する刃物を手にして、しかしいっさいの表情を持たず、こちらが理解できる感情も見せずにむかってくるものなど見たことはなかった。彼は大男だが、雄一と同じ弱冠十四歳の少年なのだ。
「ま──マジかよ、待てって」
大男は雄一を見上げて言った。隠せない震えが、声を裏がえらせる。
「ちょっとからかっただけだろ?そんな、刃物出されるほどのことじゃないっつーか」
冗談めかして言っても、雄一の顔面はひくともしない。
「なんだよ、謝ればいいのか?悪かった、ごめんなさい、ほら、これでいいだろ?おい、何とか言えよ!」
雄一はもう独白もなく、大男の訴えにもひと言も発しなかった。代わりに右手と右足をすこし引き、半身の体勢になった。
体重をかけてナイフを突き出す、その予備動作に入ったのだ。
「た、武市ぃ!」
大男が悲鳴をあげる。こんな声がでるのかと周りの生徒が驚くほど、か細く甲高い声だった。
雄一のひざが曲がり、腰が沈む。その動きを止めることができるものは誰もいない。
そのはずだった。しかし。
あとは大男へとその身を投げ出すばかりになっていた雄一が、突然その動きを止めた。
腰を上げ、大男から視線をはずす。しかしナイフは構えたままなので、周囲は相変わらず身動きがとれない。
雄一は虚空にむかって視線を泳がせている。
(……ゆ……いち……)
「声──」
そしてつぶやく。
「母さんの声がする──」
「おい、動きが止まったぞ!」
その様子をモニターで確認した俺は、歓喜の声を上げた。
「ほ、ほんとですかー?ひぃ、ひぃ」
メイも笑顔になったが、さっきからずっと全力で叫び続けていたので、すっかり息が切れている。
「ああ、しかもおまえの声を母親と勘違いしているみたいだ。このまま説得すれば、最悪の事態は回避できる」
「それはよかったですけどー、わたしもう限界です、とらちゃん代わってくださいー」
「バカ、俺の声でどうやって母親のまねをするんだ。おまえがやるんだよ」
「声が枯れちゃいますよぅー」
メイはまた泣き顔になった。
だが、気づけば扉の向こうをおおいつくしていた霧が、わずかばかり薄くなっていることに俺は気づいた。
「見ろ、あいつがおまえの声に気がついたせいで、すこし霧が晴れて視界が良くなったぞ。さっきほど大声じゃなくても聞こえるんじゃないか?」
「そ、そうですかねー」
まあ、気持ち程度かもしれないが。
「いいからやれ。もたもたしてると気のせいにされちまうぞ」
「うう、わかりましたよぅ」
メイはしぶしぶといった態度ながらまた扉のむこうへとむきなおり、深呼吸する。
「ゆういちくーん、そんなことしちゃダメですよぅー」
俺はメイを突っついた。
「いたっ、なにするんですかー」
「母親のふりをするんだよ。君づけしてどうする」
なんとかコンタクトをとることはできたが、はたしてこいつに説得なんかできるのだろうか?
「母さんなの……?」
頭の片隅に直接ひびくようなその声の主をさがして、雄一は視線をさまよわせた。
しかし当然ながら母の姿をその眼に認めることはできない。
しばらく耳を澄ませて、やはり空耳かと思い直そうとしたとき、また聞こえてきた。
(ゆういちく……ことしちゃダメ……よ……)
「母さん!」
さきほどよりもはっきりと声が聞こえ、雄一は周囲の状況も忘れて叫んだ。
(おかあさん……悲し……)
声はかすかに、しかし確実に聞こえてくる。その声に集中するあまり、雄一の右手がだらりと下がった。
「よし、今だ!」
その隙をついて、生徒に呼ばれて駆けつけていた男性教師がふたり飛び出し、雄一へととりついた。ひとりが雄一の右手からナイフをもぎ取り、もうひとりが抵抗しないように身体を押さえつける。
しかし、予想に反して雄一は全く抵抗せず、教師は勢いあまって雄一を押し倒してしまった。
「す、すまん武市、大丈夫か?」
教室の張りつめた空気がゆるむ中、教師が雄一を引き起こそうとする。
「おい、武市──?」
しかし、そのときにはもう、雄一は目を閉じて安らかな寝息をたてていた。
モニターの中の雄一が意識を失うのと同時に、扉の先を隠していた霧が一気に後退し、中の様子が見渡せるようになった。
「よし、よくやったぞ、メイ」
実際、説得らしい説得をしたわけでもなかったが、とにかく雄一がメイの声を聞いて思いとどまったのは事実だ。
「あうー、のど痛い……」
メイは舌を出し、のどを押さえてうめいていた。
「当面の危機は去ったな。これからどうする?」
「もちろん、説得しにいかないと……ん、ん、ごほん」
なんどか咳払いをしてのどを整えると、メイはようやく元の調子に戻った。
「まだ運命の悪い流れがどうなったかわかりませんし、放ってはおけないですー。目が覚めたとたんに暴れ出すかもしれないですし」
「それもそうか」
とにかく、眠っている今しかチャンスはない。
俺とメイは互いにうなずきあうと、扉を抜け雄一の夢の世界へと降り立った。
お読みいただきありがとうございます。
あ、あれ……どんどん長くなる、なんで?
2日前には書きあがっているはずだったんですが、まだ終わっていません。
一応、次で終わりの予定ですが……。あした書き終わるかな。
ご意見、ご感想などありましたらぜひお聞かせください。




