Total Organic Cell Composition Android
僕が目覚めたときの視覚情報は今でも明確に記憶している。
時間経過とともにクリアになる神経回路。
瞼を開き、視覚神経にリンクすると無機質な調整ユニットの保護シールド越しに立つ一体のアンドロイドを確認することができた。
透過率の高いシールドの外側で僕の最終調整を行っているのがマティア以外であるはずもない。
聴覚も正常に稼動しているようだ。
ユニット自体が発している低く唸るような駆動音が振動となって神経を刺激している。
しばらくマティアは立体コンソールに指を走らせていたが、やがてやるべき作業を終了させたようで僕を覗き込んだ。
『体の調子はどうですか?』
「……現状は問題ありません。ただし経過観測は必要であると判断します」
密閉されたユニットの内部にはスピーカーとマイクが設置され、内外の音声はリアルタイムで相互会話が可能になっている。
空気の振動で音が伝わることは理解していたが、初めてそれを体験すると、想定していたよりもかなりダイレクトな感覚であることに驚いた。
自分の発声にも適応しなくてはならないだろう。
『では開発名称Total Organic Cell Composition Android AKF‐11、固有識別名称トッカ。正式起動シークエンスを開始します』
ユニット内のコンディショニングエアが排出され、一方では外気を取り込んで外部との適応作業が進められる。
僕は初めて空気のにおいを感じることができた。
身体が完成するまでの学習でひと通りの情報は保有しているとはいえ、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、これから経験するであろう味覚はどれもが新しいこと。
情報と実際の感覚にずれがあれば修正し、適正化された情報としてバックアップする。
これから活動していく中で僕に与えられた役割のひとつだ。
空気が抜けるような音がしてシールドが開く。
寄り添うように立つマティアから手を差し伸べられ、僕はその手を取って立ち上がろうとしたけど、その冷たさに思わず手を離した。
その原因は冷たさだったのか、冷たいこと自体なのか、判然としない。
「動作不良ですか?」
「いえ、まだ触覚に慣れていないようです」
「ではゆっくり立ってみましょう」
改めて手を取った僕は全身の感覚を確認しながら体を起こし、片足ずつ投げ出すようにユニットから足を下ろす。
そのまま立ち上がろうとして自重を移していくと、体を動かすことに慣れていない僕は、上半身を安定させることができずマティアに向かって倒れこんでしまった。
マティアの体は想定していたよりも硬く、過剰な触覚として痛みを感じたけど、それでもマティアは微動だにせず、僕がしっかりと立てるようになるまで支えてくれていた。
マティアに手伝ってもらいながら服を身に着ける。
今までの僕は考えることしかできなかった。
有機型アンドロイドであるがゆえに、生体パーツが自律稼動できるようになるまでの二〇〇〇〇時間を、マティアとリンクした情報だけの世界で過ごしていた。
そんなマティアが僕の目の前にいる。
お互いに情報だけの状態から、実際に触れることのできる存在として活動しているというのは、頭で理解していても感覚が追いつかない。
慣らしも兼ねて生活スペースまで歩く。
まだ一歩一歩がたどたどしく、何度もマティアに補助されながらなんとかリビングルームまでたどりついた。
「慣れるにはもう少し時間がかかりそうですね」
ソファに僕を座らせたマティアは、そう言って湯気の立ち昇るカップを持ってきた。
そのカップの中には透明度の高い液体が満たされていて、持つ手には熱いと感じるほどの温度が伝わってくる。マティアに促されカップを口に運ぶ。
「味覚は働いていますか?」
「温度と味覚に反応はありますが、サンプルが存在しないので正常かどうかは計りかねます」
「プログラムの中には味覚サンプリングも含まれますので、今日の味も覚えていてくださいね」
もう一度確かめるように口に含む。
僕のバイオコンピュータは通常のものとは違い、僕が意識して覚えようとするほどそのデータの信頼性が増加する。
逆に不必要だと認識したデータは思い出すのに苦労するし、場合によっては覚えようとしていたデータも思い出せないことすらある。
これはコンピュータとして重大な欠陥のようにも思えるけど、それはまだ僕の完成度が低いからかもしれない。
僕が目覚めてからまだ一時間も経っていないというのに、これまで学んだ情報はほとんど何の役にも立たないことがわかった。
二〇〇〇〇時間が無駄だったとは思わないけど、そこで得た情報を有効に活用するのはとても難しい。
難しいけど、立ち上がることができるようになり、歩くこともできるようになった。
もっと多くの情報を集めればマティアのように動くこともできるようになるだろう。
そうした五感からフィードバックされた情報の積み重ねを続けていけば、僕は有機型アンドロイドとして完成に近付いていくはずだ。
そのためには僕はもっと多くの世界を知らなければいけない。
「今日はどういったプログラムを行うのですか?」
「実行中です。しばらくは神経を体に慣熟させるプログラムを続ける予定です」
「では慣熟のための行動を指示して下さい」
「歩行に問題がなければ、外に出てみましょうか」
僕はマティアの補助がなくても立ち上がることができ、歩いてもすぐ倒れるようなことはなかった。
それを確認したマティアは外につながるドアを開き、僕を伴って庭の中央まで進む。
「この周りを歩いてみましょう……どうしました?」
先を歩いていたマティアが問いかけてきたけど、僕の視界は青い空にとらわれていて、答えることができなかった。
空が青いということは知識で知っていても、イメージすることすらできなかった青。
僕は、この先活動を停止するその日が来るまで、毎日この空を見上げようと思ったんだ。