治癒は愛情の証だから無償で当然と言われましたので、愛情ごと終わりにします
騎士団の訓練場の隅に、いつもの長椅子がある。
私はそこで、膝に包帯を巻いた婚約者の足に手をかざしていた。淡い光が指先から流れ、腫れが少しずつ引いていく。
「ああ、楽になった。やっぱり君の治癒が一番だ」
ガレス・ロウ様は満足げに言って、隣の騎士に目配せをした。
「次、こいつも頼む。昨日の模擬戦で肩を痛めたんだ」
順番待ちの列ができている。いつものことだ。
私は治癒師の免許を持つ子爵令嬢、リディア・アーベル。婚約者の部隊の怪我人を、毎日、無償で治している。
もう一年になる。
けれどこの日、七人目を終えたところで、私の指先は震えて止まらなくなった。魔力の使いすぎだ。
「すみません、今日はもう限界です。残りは明日に」
「は? あと三人いるだろう」
「魔力が尽きかけているんです。これ以上は、私自身が倒れます」
ガレス様は露骨に顔をしかめた。
「リディア、君は婚約者だろう。部隊の仲間が困っているのに、断るのか?」
「断っているのではなく、休ませてほしいと」
「そもそも、君は治癒に値段をつけたいのか? 施療院の連中みたいに、金を取りたいと?」
周囲の騎士たちが、くすくすと笑う。
「違います。ただ、一年間、毎日続けて、さすがに負担が」
「いいか」
ガレス様は、教え諭すような口調になった。
「治癒は愛情の証だ。婚約者の仲間を無償で癒やすのは、僕への愛があるからこそだろう。それを負担だと言うなら、君の愛情はその程度だったということだ」
愛情の証。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「分かりました」
「分かってくれたか」
「はい。愛情が足りないのでしたら、終わりにしましょう」
彼は、しばらく意味が分からない様子で瞬きをした。
「……何を?」
「婚約も、無償の治癒も、です。愛情の証でないとおっしゃるなら、これまで通りに続ける理由がありません」
私は立ち上がり、膝の埃を払った。
「治癒の一年分の記録は、私の手元にあります。必要なら、正式な依頼書をもって施療院へお越しください。料金表を用意しておきます」
「リディア! 待て、冗談だろう?」
冗談を言ったつもりは、一度もない。
訓練場を出る私の背中に、ガレス様の笑い声が追いかけてきた。
「どうせ、すぐ泣いて戻ってくるさ。君の治癒が必要なのは、僕のほうじゃない。君が僕を必要としているんだからな」
◇
私が向かったのは、街外れの古い施療院だった。
先月から、院長が高齢を理由に閉院を考えていたと聞いていた。引き継ぎ手を探している、とも。
「引き継ぎを、お願いできませんか」
そう申し出た私に、院長は目を丸くした。そして、横に立っていた青年が先に口を開いた。
「アーベル嬢。あなたの治癒を、ずっと見ていました」
騎士団付きの医官、ダニエル・フェルナー様。
騎士団の診療室で何度か顔を合わせていたが、挨拶以上の会話はしたことがない。
「見ていた?」
「あなたが治した騎士の傷の治り方が、おかしいくらい綺麗なんです。傷痕が残らない。再発もしない。それで、診療録を拝見したくて」
「診療録、ですか」
「はい。毎回、傷の状態と魔力量と経過を、あなたはすべて書き残している。あれは、治癒師としての仕事が一流の証拠です」
誰かに仕事を認められるのは、一年ぶりだった。
「ここで一緒にやりませんか。料金は、きちんといただく施療院として」
「無償をやめる、ということですか?」
「治癒は労働です。魔力は有限で、技術には対価がある。それだけの話ですよ」
彼は当たり前のように言った。
私は少し考えて、頷いた。
「お願いします。ただ、条件がひとつ」
「聞きましょう」
「診察の順番は、症状の重い順にしてください。声の大きい人から、にはしないでください」
「もちろんです。それが一番、当たり前です」
◇
施療院を再開して、三週間が経った。
最初は閑古鳥が鳴いていたが、噂を聞いた街の人が少しずつ来てくれるようになった。料金は、適正な範囲で、事前に掲示してある。
値段がはっきりしているというだけで、患者さんは安心してくれた。
そして一ヶ月が経つころ、騎士団が揺れ始めた。
最初に悲鳴を上げたのは、ガレス様の部隊だった。
これまで毎日、私が治していた怪我人たちが、治らないまま訓練を続けた結果、悪化したのだ。
騎士団の医官は、ダニエル様がこちらに移ったので、他の人が来ている。けれど他の治癒師は、一日に治せる人数が、私より少なかった。
そもそも、私は一日に七人も治していたのではない。魔力が足りない分を睡眠時間で補っていた。そのことに、ガレス様は最後まで気づかなかった。
施療院の扉が荒々しく叩かれたのは、ある雨の日の午後だった。
「リディア!」
びしょ濡れのガレス様が、足を引きずりながら立っていた。
膝の古傷が、ひどく腫れている。
「診てほしい。やはり、君の治癒でないとだめなんだ」
受付に立っていたダニエル様が、静かに料金表を示した。
「当院の診察は、初診料と治療料がかかります。お支払いは先払いです」
「金だと? 僕は婚約者――」
「元、です」
私は診察室から顔を出した。
「婚約は解消されたはずです。愛情が足りないというご判断のもとに」
「それは、言葉の綾というか……」
「綾でしたか」
「リディア。これまでの一年、僕の膝は君が診てきたじゃないか。君が一番、この膝をよく知っている。頼む」
その通りだ。彼の膝には、古傷がある。治療の方針も、癖も、私の診療録にすべて書いてある。
だから私は、診察室の椅子を示した。
「診ます。ただし、患者さんとして」
「……え」
「診察料は先払いで。膝の治療が必要な場合は、治療料も別途かかります。診療録は、他の施療院への紹介にも使えますので、ご希望なら写しをお渡しします」
ガレス様は、口を開けたまま固まっていた。
私は、これまでの一年を思い出した。
夜遅くまで魔力を絞り出し、朝には何でもない顔で訓練場へ向かった日々。
誰も、一言も、ありがとうを言わなかった日々。
その全てを、愛情の名前で片づけられた日々。
でも、今の私は、違う。
「払えないのでしたら、他の施療院をご紹介します。お大事に」
ガレス様は、財布を握りしめたまま、動かなかった。
やがて、震える手で銀貨を数え始めた。
◇
その日の夕方、施療院の窓を閉めていると、ダニエル様がお茶を淹れてくれた。
「よく、あそこまで毅然としていられましたね」
「内心、手が震えていました。治癒の光より、ずっと」
「それでも、診察はきちんとなさった。患者として、公平に。あれは、治癒師の鑑です」
彼はそう言って、カップを私の前に置いた。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「あなたの治癒は、愛情ではなかったんですか? ほんの少しも」
私は、カップの湯気を見つめた。
「愛情はありました。でも、それは対価の代わりにはなりません。愛情があるから無償でいい、にはならない。愛情があっても、対価はいただく。そのほうが、お互いに長く続けられるんです」
ダニエル様は、ゆっくりと頷いた。
「では、僕はこれから、とても高い料金を払うことになりそうですね」
「え?」
「あなたに、毎日お茶を淹れていただく権利を、買い取りたいと思っているので」
一瞬、意味が分からなかった。
それから、じわじわと頬が熱くなる。
「……それは、料金表にありません」
「では、新しく作りましょう。共同経営者として」
窓の外では、雨が上がりかけていた。
施療院の看板には、まだ乾ききっていない墨で、新しい名前が書かれている。
『アーベル・フェルナー施療院』
その下に、小さく添えた一行。
『治癒料は、事前にお知らせします。』
私は、笑った。
心の底から、笑えたのは、久しぶりだった。
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