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治癒は愛情の証だから無償で当然と言われましたので、愛情ごと終わりにします

掲載日:2026/10/19

 騎士団の訓練場の隅に、いつもの長椅子がある。


 私はそこで、膝に包帯を巻いた婚約者の足に手をかざしていた。淡い光が指先から流れ、腫れが少しずつ引いていく。


「ああ、楽になった。やっぱり君の治癒が一番だ」


 ガレス・ロウ様は満足げに言って、隣の騎士に目配せをした。


「次、こいつも頼む。昨日の模擬戦で肩を痛めたんだ」


 順番待ちの列ができている。いつものことだ。


 私は治癒師の免許を持つ子爵令嬢、リディア・アーベル。婚約者の部隊の怪我人を、毎日、無償で治している。


 もう一年になる。


 けれどこの日、七人目を終えたところで、私の指先は震えて止まらなくなった。魔力の使いすぎだ。


「すみません、今日はもう限界です。残りは明日に」


「は? あと三人いるだろう」


「魔力が尽きかけているんです。これ以上は、私自身が倒れます」


 ガレス様は露骨に顔をしかめた。


「リディア、君は婚約者だろう。部隊の仲間が困っているのに、断るのか?」


「断っているのではなく、休ませてほしいと」


「そもそも、君は治癒に値段をつけたいのか? 施療院の連中みたいに、金を取りたいと?」


 周囲の騎士たちが、くすくすと笑う。


「違います。ただ、一年間、毎日続けて、さすがに負担が」


「いいか」


 ガレス様は、教え諭すような口調になった。


「治癒は愛情の証だ。婚約者の仲間を無償で癒やすのは、僕への愛があるからこそだろう。それを負担だと言うなら、君の愛情はその程度だったということだ」


 愛情の証。


 私は、ゆっくりと息を吐いた。


「分かりました」


「分かってくれたか」


「はい。愛情が足りないのでしたら、終わりにしましょう」


 彼は、しばらく意味が分からない様子で瞬きをした。


「……何を?」


「婚約も、無償の治癒も、です。愛情の証でないとおっしゃるなら、これまで通りに続ける理由がありません」


 私は立ち上がり、膝の埃を払った。


「治癒の一年分の記録は、私の手元にあります。必要なら、正式な依頼書をもって施療院へお越しください。料金表を用意しておきます」


「リディア! 待て、冗談だろう?」


 冗談を言ったつもりは、一度もない。


 訓練場を出る私の背中に、ガレス様の笑い声が追いかけてきた。


「どうせ、すぐ泣いて戻ってくるさ。君の治癒が必要なのは、僕のほうじゃない。君が僕を必要としているんだからな」


 ◇


 私が向かったのは、街外れの古い施療院だった。


 先月から、院長が高齢を理由に閉院を考えていたと聞いていた。引き継ぎ手を探している、とも。


「引き継ぎを、お願いできませんか」


 そう申し出た私に、院長は目を丸くした。そして、横に立っていた青年が先に口を開いた。


「アーベル嬢。あなたの治癒を、ずっと見ていました」


 騎士団付きの医官、ダニエル・フェルナー様。


 騎士団の診療室で何度か顔を合わせていたが、挨拶以上の会話はしたことがない。


「見ていた?」


「あなたが治した騎士の傷の治り方が、おかしいくらい綺麗なんです。傷痕が残らない。再発もしない。それで、診療録を拝見したくて」


「診療録、ですか」


「はい。毎回、傷の状態と魔力量と経過を、あなたはすべて書き残している。あれは、治癒師としての仕事が一流の証拠です」


 誰かに仕事を認められるのは、一年ぶりだった。


「ここで一緒にやりませんか。料金は、きちんといただく施療院として」


「無償をやめる、ということですか?」


「治癒は労働です。魔力は有限で、技術には対価がある。それだけの話ですよ」


 彼は当たり前のように言った。


 私は少し考えて、頷いた。


「お願いします。ただ、条件がひとつ」


「聞きましょう」


「診察の順番は、症状の重い順にしてください。声の大きい人から、にはしないでください」


「もちろんです。それが一番、当たり前です」


 ◇


 施療院を再開して、三週間が経った。


 最初は閑古鳥が鳴いていたが、噂を聞いた街の人が少しずつ来てくれるようになった。料金は、適正な範囲で、事前に掲示してある。


 値段がはっきりしているというだけで、患者さんは安心してくれた。


 そして一ヶ月が経つころ、騎士団が揺れ始めた。


 最初に悲鳴を上げたのは、ガレス様の部隊だった。


 これまで毎日、私が治していた怪我人たちが、治らないまま訓練を続けた結果、悪化したのだ。


 騎士団の医官は、ダニエル様がこちらに移ったので、他の人が来ている。けれど他の治癒師は、一日に治せる人数が、私より少なかった。


 そもそも、私は一日に七人も治していたのではない。魔力が足りない分を睡眠時間で補っていた。そのことに、ガレス様は最後まで気づかなかった。


 施療院の扉が荒々しく叩かれたのは、ある雨の日の午後だった。


「リディア!」


 びしょ濡れのガレス様が、足を引きずりながら立っていた。


 膝の古傷が、ひどく腫れている。


「診てほしい。やはり、君の治癒でないとだめなんだ」


 受付に立っていたダニエル様が、静かに料金表を示した。


「当院の診察は、初診料と治療料がかかります。お支払いは先払いです」


「金だと? 僕は婚約者――」


「元、です」


 私は診察室から顔を出した。


「婚約は解消されたはずです。愛情が足りないというご判断のもとに」


「それは、言葉の綾というか……」


「綾でしたか」


「リディア。これまでの一年、僕の膝は君が診てきたじゃないか。君が一番、この膝をよく知っている。頼む」


 その通りだ。彼の膝には、古傷がある。治療の方針も、癖も、私の診療録にすべて書いてある。


 だから私は、診察室の椅子を示した。


「診ます。ただし、患者さんとして」


「……え」


「診察料は先払いで。膝の治療が必要な場合は、治療料も別途かかります。診療録は、他の施療院への紹介にも使えますので、ご希望なら写しをお渡しします」


 ガレス様は、口を開けたまま固まっていた。


 私は、これまでの一年を思い出した。


 夜遅くまで魔力を絞り出し、朝には何でもない顔で訓練場へ向かった日々。


 誰も、一言も、ありがとうを言わなかった日々。


 その全てを、愛情の名前で片づけられた日々。


 でも、今の私は、違う。


「払えないのでしたら、他の施療院をご紹介します。お大事に」


 ガレス様は、財布を握りしめたまま、動かなかった。


 やがて、震える手で銀貨を数え始めた。


 ◇


 その日の夕方、施療院の窓を閉めていると、ダニエル様がお茶を淹れてくれた。


「よく、あそこまで毅然としていられましたね」


「内心、手が震えていました。治癒の光より、ずっと」


「それでも、診察はきちんとなさった。患者として、公平に。あれは、治癒師の鑑です」


 彼はそう言って、カップを私の前に置いた。


「ひとつ、聞いてもいいですか」


「何でしょう」


「あなたの治癒は、愛情ではなかったんですか? ほんの少しも」


 私は、カップの湯気を見つめた。


「愛情はありました。でも、それは対価の代わりにはなりません。愛情があるから無償でいい、にはならない。愛情があっても、対価はいただく。そのほうが、お互いに長く続けられるんです」


 ダニエル様は、ゆっくりと頷いた。


「では、僕はこれから、とても高い料金を払うことになりそうですね」


「え?」


「あなたに、毎日お茶を淹れていただく権利を、買い取りたいと思っているので」


 一瞬、意味が分からなかった。


 それから、じわじわと頬が熱くなる。


「……それは、料金表にありません」


「では、新しく作りましょう。共同経営者として」


 窓の外では、雨が上がりかけていた。


 施療院の看板には、まだ乾ききっていない墨で、新しい名前が書かれている。


『アーベル・フェルナー施療院』


 その下に、小さく添えた一行。


『治癒料は、事前にお知らせします。』


 私は、笑った。


 心の底から、笑えたのは、久しぶりだった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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