勇者召喚に失敗した王国、代わりに勇者の母親を召喚してしまう
「成功だ!」
白い光が消えた瞬間、玉座の間に歓声が上がった。
「勇者様だ!」
「これで我が国は救われる!」
「女神よ、感謝いたします!」
床に描かれた大きな魔法陣の中心で、佐々木恵子は買い物袋を両手に持ったまま、しばらく黙っていた。
右手には大根。
左手には特売の卵。
目の前には王冠をかぶった老人。
その周りには、剣を持った騎士や、長い杖を持った人たちが並んでいる。
天井はやたら高く、壁には知らない国の旗がかかっていた。
恵子は一度だけ目を閉じた。
そして、もう一度開いた。
「……ここ、どこですか?」
歓声が止まった。
王冠の老人が目をぱちぱちさせる。
「お、おお。勇者様。突然の召喚、さぞ驚かれたことでしょう」
「召喚?」
「はい。我がアルディナ王国は今、魔王軍の侵攻を受けております。そこで異世界より、魔王を倒す力を持つ勇者様をお招きしたのです」
恵子は黙った。
それから、ゆっくり買い物袋を床に置いた。
「確認していいですか?」
「もちろんですとも」
「あなたたちは今、別の世界から、勝手に人を連れてきたんですか?」
「……はい」
「本人の許可なしに?」
「……はい」
「魔王と戦わせるために?」
「……はい」
「帰れるんですよね?」
誰も答えなかった。
恵子は、その沈黙でだいたい理解した。
「帰れないんですか?」
「い、いえ! 魔王を倒せば、きっと女神様が――」
「きっと?」
「……おそらく」
「おそらく?」
王様の顔から汗が流れた。
恵子は四十四歳だった。
夫と、高校二年生の息子と、中学二年生の娘がいる。
ふだんは町のスーパーで働いている。
魔法も使えない。
剣を持ったこともない。
走ればすぐ息が切れる。
どう考えても勇者ではない。
「ところで」
恵子は周囲を見回した。
「私のどのへんを見て勇者だと思ったんですか?」
また沈黙が落ちた。
やがて、青いローブを着た魔法使いらしい老人が、おそるおそる口を開いた。
「……本来、召喚されるはずだった勇者は、十七歳前後の若者でした」
「十七歳?」
「はい」
「男の子?」
「その予定でした」
恵子の目が細くなった。
「十七歳の子を、勝手に戦争へ連れてくるつもりだったんですか?」
「いや、あの」
「未成年ですよ?」
「み、みせいねん?」
「子供です」
玉座の間にいた大人たちが、そろって目をそらした。
恵子は深く息を吸った。
「それで、失敗して私が来たと」
「おそらく、勇者となる者と最も強いつながりを持つ者を、魔法陣が誤って選んだのではないかと……」
「最も強いつながり?」
嫌な予感がした。
「勇者になるはずだった方は、あなたの血縁かもしれません」
恵子の頭に、家でゲームばかりしている息子の顔が浮かんだ。
十七歳。
男。
「……まさか」
「心当たりが?」
「あります」
「おお!」
王様の顔が明るくなった。
「では、もう一度召喚を行えば――」
「やめなさい」
低い声だった。
玉座の間が凍りついた。
「今すぐ、その魔法陣を消してください」
「し、しかし勇者がいなければ、我が国は――」
「だからって人の息子を勝手に連れてくるんですか?」
「……」
「しかも帰れるかどうかもわからないところへ?」
「……」
「あなた、自分の子供でも同じことができます?」
王様は答えられなかった。
恵子は腕を組んだ。
「まず話を聞きます」
「え?」
「魔王軍が来てるんでしょう?」
「は、はい」
「どこまで来てるんですか。何人いるんですか。こっちの兵士は何人ですか。食料は。けが人は。逃げる場所は」
王様は口を開いたまま固まった。
「……なぜ、そのようなことを?」
「子供をさらう前に、自分たちでできることを全部やったか確認するためです」
その日、アルディナ王国の大臣たちは、生まれて初めて異世界の主婦に会議へ呼び出された。
そして三時間後。
「話になりません」
恵子はそう言った。
机の上には大量の書類と地図が広げられている。
国王、宰相、騎士団長、魔法師団長が並んで座っていた。
全員、怒られている子供のような顔をしている。
「まず、前線の兵士が三日まともに寝ていないってどういうことですか?」
「敵の攻撃が激しく……」
「交代させればいいでしょう」
「兵が足りません」
「王都に二千人いるじゃないですか」
「王都の守りが薄くなります」
「前線が崩れたら王都も終わりでしょう」
「……」
「あと食事。黒パン一枚と干し肉だけ?」
「戦時ですので」
「戦う人に食べさせないでどうするんですか」
騎士団長が小さくなった。
「それと避難。国境近くの村にまだ人が残ってますよね」
「本人たちが土地を離れたがらず――」
「説得したんですか?」
「一度、兵を送りました」
「一度で諦めない」
「はい……」
なぜか全員、素直に返事をするようになっていた。
恵子はため息をつき、地図の一点を指した。
「それで、魔王軍はこの川の向こうにいるんですね?」
「はい。三日以内には橋を越えると思われます」
「人数は?」
「およそ八千」
「こっちは?」
「前線に三千。王都を合わせれば五千ほどです」
「勝てないですね」
「だから勇者様を――」
「私は勇者じゃありません」
「ですが!」
「戦えません。剣も使えません。魔法も使えません」
「では、どうすれば……」
恵子は地図を見た。
「魔王軍は、なんで攻めてきたんですか?」
「魔族は人間を憎んでおります。それ以外に理由など――」
「本人に聞いたんですか?」
「……え?」
「魔王に、どうして攻めてくるんですかって」
「聞くわけがないでしょう!」
「なんで?」
「敵ですぞ!」
「敵だって口くらいあるでしょう」
大臣たちは顔を見合わせた。
恵子は頭を抱えたくなった。
異世界でも、話し合いが足りないらしい。
「使者を出します」
「危険です!」
「じゃあ私が行きます」
「もっと危険です!」
「私は戦えないんでしょう? 相手も警戒しないんじゃないですか」
「そういう問題ではありません!」
騎士団長が初めて強く言い返した。
「あなたは異世界から来られた方だ。我々の都合で呼び出しておいて、危険な場所へ一人で行かせるなどできません」
恵子は少し驚いた。
最初よりは、まともになっている。
「では護衛をつけてください」
「……行くこと自体はおやめにならないのですね」
「子供を呼び出されるよりはましです」
三日後。
恵子は魔王軍の陣地にいた。
両脇にはアルディナ王国の騎士がいる。
向こうには、角の生えた兵士や、青い肌の兵士、耳の長い者たちが並んでいた。
思っていたより普通だった。
少なくとも、話ができない化け物には見えない。
「人間が、何の用だ」
大きな黒い天幕の中で、魔王はそう言った。
恵子は少し拍子抜けした。
魔王は五十歳くらいに見える男性だった。
黒い角はある。
けれど顔は疲れていた。
目の下には、はっきりくまができている。
「寝てます?」
「……は?」
「ちゃんと寝てます?」
「何を言っている」
「顔色悪いですよ」
「人間の女。貴様、魔王を前にして――」
「三日寝てませんね?」
「……二日だ」
「二日でも駄目です」
魔王の側近たちがざわついた。
恵子は椅子に座った。
「話をしましょう」
「我々に降伏しろと?」
「違います。なんで戦争してるのか聞きに来ました」
魔王は黙った。
「人間は、魔族が人間を憎んでるから攻めてきたと思っています」
「……馬鹿馬鹿しい」
「違うんですね」
魔王はしばらく恵子を見ていた。
やがて机の上に、一枚の地図を広げた。
「三年前から、北の山で雨が降らなくなった」
「はい」
「我ら魔族の土地は作物が育たなくなった。家畜も減った。そこで南の国々に食料を売ってくれと頼んだ」
「アルディナ王国にも?」
「ああ」
「断られた?」
「それだけではない。国境を閉じられた」
恵子は眉をひそめた。
「なぜです?」
「魔族が大量に入れば国が乱れると」
「それで戦争に?」
「最初は国境近くの倉庫から食料を奪った。こちらも生きるためだった。すると人間の兵が来た。こちらも兵を出した」
「それで、引けなくなった」
「……そうだ」
恵子は長く息を吐いた。
「どっちも馬鹿ですね」
「何?」
「魔族も人間もです」
天幕の中が静かになった。
「食料を奪われたら、人間は怒るでしょう」
「では我らは飢えて死ねと?」
「違います。だからその前に、もっと話せばよかったんです」
「話して断られた」
「一回?」
魔王が黙る。
「一回で戦争始めない」
「……」
「向こうにも同じこと言いました」
その日、人間と魔族の代表による話し合いが始まった。
最初は怒鳴り合いだった。
王国の宰相は「村を焼いた」と怒り、魔王の側近は「国境で魔族を追い返した」と怒った。
恵子は十分だけ我慢した。
「はい、そこまで」
両方が黙った。
「怒るのは後。まず、これから人が死なない方法を決めます」
「しかし――」
「今夜から停戦」
「勝手に決めるな!」
「じゃあ、このまま戦って何人死ぬんですか?」
誰も答えなかった。
「食料が足りない魔族には、アルディナから麦を送る」
「そんな余裕は――」
「王都の倉庫に去年の麦が残ってます」
宰相が目を見開く。
「なぜそれを」
「帳簿見ました」
「しかし、それは冬の備えで――」
「全部渡すとは言ってません。半分貸すんです。来年、魔族側から鉄と薬草で返してもらう」
魔王が腕を組む。
「我らの山では良質な鉄が採れる」
「ならちょうどいいです」
「人間に売ったことはない」
「これから売ればいいでしょう」
「簡単に言うな」
「戦争するより簡単です」
誰も反論できなかった。
そこからは早かった。
アルディナ王国は国境を一部開き、魔族側へ食料を送った。
魔族軍は橋の向こうまで下がった。
人間の兵も同じだけ下がった。
捕虜は互いに返した。
焼かれた村には、魔族側から木材と人手が出された。
魔族の土地には、人間の農家が乾いた土地でも育つ作物の育て方を教えに行った。
もちろん、全部がすぐうまくいったわけではない。
何十年も相手を怖がってきた人たちだ。
けんかもあった。
約束を破る者もいた。
それでも、戦争よりはずっとましだった。
一か月後。
アルディナ王国と魔族領は正式に停戦した。
玉座の間で国王が泣いた。
「勇者様……あなたが世界を救ってくださった」
「だから私は勇者じゃありません」
「では、賢者様!」
「違います」
「聖母様!」
「それはもっと違います」
恵子は疲れていた。
家に帰りたい。
息子と娘が心配だった。
夫はもっと心配だった。
あの人は洗濯機を回せても、洗ったものを干すところまでが一仕事だ。
「約束してください」
恵子は国王に言った。
「もう二度と、勝手に異世界から人を呼ばないこと」
「……はい」
「子供を戦争に使わないこと」
「はい」
「困ったら、まず話し合うこと」
「はい」
「兵士にちゃんと寝てもらうこと」
「はい……」
「返事が小さい」
「はい!」
魔法師たちは、一か月かけて帰還の魔法を調べた。
幸い、召喚された本人が強く元の世界を思えば、一度だけ帰すことができるらしい。
ただし、二度とこちらへ来ることはできない。
「十分です」
恵子は即答した。
帰る日。
魔法陣の前には、国王や大臣だけでなく、魔王まで来ていた。
「世話になったな」
「こちらこそ」
「我は、勇者とはもっと強い者だと思っていた」
「私もです」
「だが、お前ほど恐ろしい者は見たことがない」
「どういう意味ですか?」
「二日寝ていないだけで一時間説教された」
「当たり前です」
魔王が小さく笑った。
「息子にも、よろしく伝えてくれ」
「何をです?」
「勇者になどならず、母親を大事にしろとな」
「それは私から言います」
光が恵子を包んだ。
最後に聞こえたのは、国王たちの声だった。
「ありがとうございました、勇者の母君!」
「だから勇者じゃないって言ってるでしょう!」
次の瞬間。
恵子は近所のスーパーの前に立っていた。
右手には大根。
左手には卵。
時計を見る。
家を出てから、まだ一時間しか経っていなかった。
「……何だったの、あれ」
夢だったのかもしれない。
そう思いながら家へ帰る。
玄関を開けると、高校生の息子が二階から降りてきた。
「母さん、おかえり。遅かったじゃん」
「ちょっと異世界に行ってた」
「は?」
「あなた、知らない人に『世界を救ってください』って言われても、ついて行っちゃ駄目よ」
「何の話?」
「特に魔法陣には気をつけて」
「母さん?」
息子が本気で心配そうな顔をした。
恵子は靴を脱ぎながら、買い物袋を持ち上げる。
「今日カレーだから、玉ねぎ切って」
「急だな!」
「あと宿題終わった?」
「今やろうと思ってた!」
「その言葉、異世界でも聞いた気がするわ」
「本当に何があったの!?」
台所へ向かいながら、恵子は少しだけ笑った。
世界を救う勇者なんて、たぶん必要なかったのだ。
必要だったのは、困っているなら困っていると言うこと。
相手の話を聞くこと。
疲れたら寝ること。
そして、腹が減っているなら、まず何か食べること。
少なくとも恵子は、それで一つの戦争を止めた。
「母さん、肉これで足りる?」
「足りない。冷凍庫にもう一パックあるから出して」
「はーい」
異世界でもこちらでも、夕飯の時間はやってくる。
恵子にとっては、そのほうがずっと大事だった。




