夜の果てによく似た色
公園を去っていく和紗さんの背中を、俺はしばらく動けずに見送っていた。
さっきまで腕の中にいたはずの温もりは、もうどこにもなかった。
代わりに胸の奥へ残っていたのは、あの人が零した涙と、「もし伊織が彼氏だったら」という、冗談みたいで冗談では済まない一言だった。
和紗さんは泣いていた。
苦しんでいた。
あんなふうに自分を追い詰めてまで、たった一人の男に縋っていた。
許せなかった。
あの人をあそこまで追い込んだ男が。
あの人の光を奪った男が。
何より、和紗さんが笑顔でないことが許せなかった。
でも、それ以上に強かったのは、ようやく自分のやるべきことが見えた気がしたことだった。
和紗さんは、暗い世界に囚われていた俺を救い出してくれた。
だから今度は、俺が和紗さんを救い出す。
そう決めた瞬間、不思議なくらい気持ちは静かになった。
たいして時間もかからずに、裕也という男の輪郭は嫌でも見えてきた。
店の名前。出勤日。馴染みの店。
そして、和紗さんが通う頻度。
夜の街の人間関係は、外から見るよりずっと狭かった。
最初、俺は普通に話をつけるつもりだった。
和紗さんと別れてくれ、と。
あの人をこれ以上振り回さないでくれ、と。
だが、和紗さん以外の女を侍らせたまま、裕也は笑っただけだった。
「君さ、和紗の何なの?」
「……幼なじみや」
「へえ。そうなんだ。で?」
「和紗さんはあんたのせいで苦しんどる」
「それって、和紗が言ったのかい?」
「言わんでも分かる」
「なるほどねぇ……それじゃあ君は、和紗のこと何にも分かってないと思うよ」
その言葉に、俺は拳を固めて殴りかかりそうになった。
「暴力振るうなら顔はやめてくれよな。ホスト続けられないのは困るから」
俺は殴りかかりたい衝動を抑え、無言で見送ることしかできなかった。
後日、和紗さんにも遠回しに別れることを勧めた。
でも、返ってきたのは静かな拒絶だった。
「伊織には関係ないよ」
あの一言で分かった。
俺が正しいことを言うだけでは、和紗さんは救えない。
暴力では救えない。
正論では救えない。
俺が直接救う方法が思いつかない。
だったら、せめて裕也が和紗さんとちゃんと向き合える状況を作るしかない。
そう考えた時、答えは妙に単純に見えた。
裕也から、ホストとしての価値を奪えばいい。
ホストでいられなくなれば、真っ当な仕事に就くしかなくなるだろう。
そうすれば和紗さんの笑顔を曇らせている原因もなくなるはずだ。
それに、他に女が寄ってこなくなれば、和紗さん一人を大切にするしかなくなる。
それは、自分でも驚くほど自然な結論に思えた。
そのために夜の街へ入ることを、俺はあまり躊躇しなかった。
相手が望む顔をして、相手が欲しい言葉を選ぶことは、中高の生徒会で学んだ。
優しい男を演じることも、安心できる年下を演じることも、少し危うい匂いをまとった男になることも、やってみれば難しくなかった。
何より、目的があった。
和紗さんを救うという、必ず達成すべきことが。
そこから先は、怖いくらい早かった。
指名は増え続けた。
客の女たちは俺を面白がり、噂は噂を呼び、夜の街は新しい名前を勝手に広げていった。
イオリ。
自分の名前が、和紗さんのいない場所で何度も呼ばれるのは妙な気分だった。
けれど売上が上がるたび、俺の中ではただ一つのことしか意味を持たなかった。
これでまた一歩、和紗さんを苦しみから遠ざけられる。
裕也の店の客が減り、経営が傾いているという噂も聞いた。
それでもあいつの順位が落ちないのは、和紗さんが支えているからだと、すぐに分かった。
ますます許せなかった。
和紗さんはまだ、自分を削ってあいつを立たせている。
だったら、もっと徹底的にやるしかない。
裕也の店の売上が露骨に落ち、夜の街で俺の名前が広まりきった頃だった。
和紗さんから、久しぶりに連絡が来た。
少しだけ期待した。
でも、会ってすぐに分かった。
あの人は、自分の言葉で話しに来たんじゃない。
「伊織、もうやめて」
「何を?」
「……分かっとるやろ」
「和紗さん、それ、あいつに言わされたん?」
「違う」
「違わんよ」
和紗さんは困ったように眉を寄せた。
昔なら、その顔を見るだけで自分の言い過ぎに気づけたはずだった。
でもその時の俺は、もう違っていた。
和紗さんが俺を止めるのは、あの男に縛られているからだ。
自分では何が正しいか見えなくなっているからだ。
そう思えば、迷いは消えた。
むしろ、やめる理由がなくなった。
数日後、帰り道で囲まれた。
人数は多かったが、不思議と何も感じなかった。
怒りも、恐怖も、焦りもない。
ただ、邪魔だと思った。
最初に殴りかかってきた男の腕を払い、次の男の膝を折り、横から来たのを肘で潰す。
途中から、誰がどこにいるのかも意識しなかった。
身体が勝手に動いた。
最後に残った裕也は、もう立っているのがやっとみたいな顔をしていた。
俺はその耳元で静かに言った。
「お前のせいで和紗さんが泣いていた。もう二度と、あの人の前に現れるな」
裕也の肩が震えた。
「次に俺の視界に入ったら、もう顔で商売できると思うなよ」
ガクガクと壊れた玩具みたいに、裕也が何度も頷く。
少し間を置いて、俺は続けた。
「忘れるな。俺は、和紗さんをずっと見守っとる」
その言葉だけで十分だと思った。
その後、裕也の姿を見ることはなかった。
電話も繋がらず、店にも顔を出さなくなったらしい。
夜の街では色んな噂が飛んでいたが、俺にはどうでもよかった。
ようやく終わった、と思った。
これで和紗さんは、あの男から自由になれる。
もう泣かなくていい。
もう自分を削らなくていい。
きっと分かってくれる。
俺がどれだけ本気で、あの人のためだけにここまでやったのか。
そう思っていた。
その夜、和紗さんから「話したい」と連絡が来るまでは。
和紗さんから連絡が来たのは、日付が変わる少し前だった。
話したいことがあるんやけど、前に会った公園、来れる?
短い文面だった。
絵文字も顔文字もなく、ただそれだけだった。
それを見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
ようやく、と思った。
裕也はもういない。
和紗さんを曇らせていた元凶は消えた。
あとは時間さえあれば、和紗さんもきっと分かってくれる。
俺がどれだけ本気で、和紗さんのことだけを考えてここまで来たのか。
公園へ向かう足取りは、妙に軽かった。
久しぶりに会うのなら、少しはちゃんとした格好をした方がいい気がして、新しく下ろしたシャツを着た。
客の女たちが似合うと言っていたジャケットも羽織った。
鏡の前で髪を整えながら、自分でも笑ってしまった。
まるで、初めて好きな女に会いに行く男みたいだと思った。
いや、違うか。
俺はずっと、和紗さんのことだけが好きだった。
公園に着くと、和紗さんはベンチの前に立っていた。
少し離れた街灯の下でも分かるくらい、顔色が悪かった。
けれど、俺の姿を見つけると、昔みたいに背筋を伸ばした。
それが嬉しかった。
「久しぶり、和紗さん。今日はどうしたの」
なるべく柔らかく言ったつもりだった。
実際、声は自然に明るくなった。
和紗さんは答えなかった。
ただ、じっと俺を見ていた。
その目が、前に抱きしめた夜の目と違っていた。
あの時あった揺らぎも、弱さも、涙の名残もなかった。
代わりにあるのは、冷え切った何かだった。
それでも俺は、その意味をすぐには理解できなかった。
「裕也のことなら、もう心配いらんよ」
俺は先に言った。
安心させるつもりで、俺は少し笑っていた。たぶん、褒めてもらうのを待つ犬みたいな顔をしていたんだと思う。
「もうあいつは和紗さんの前に現れん。二度と傷つけさせんから」
和紗さんの顔が歪んだ。
怒っているのだと分かるまで、一瞬かかった。
「なんで」
掠れた声だった。
「……え?」
「なんであんなことしたのって聞いとるんやけど」
胸の奥がひやりとした。
「和紗さんのためやよ」
「私のため?」
その言い方が、ひどく冷たかった。
「そうや。あいつのせいで和紗さん、ずっと苦しんどったやろ。泣いとったやろ。だから俺が——」
「とぼけんといて」
初めて聞く強い声だった。
それだけで、言葉が止まった。
「私から裕也を奪っといて、何が私のためなん」
「奪ったんやない。あいつは最初から——」
「私が選んだんや!」
叫ぶみたいな声だった。
夜の公園に、和紗さんの声が鋭く響く。
俺の鼓膜より先に、胸の奥のどこかを切り裂いた。
「誰に何言われても、私が選んだんや。間違っとっても、汚れとっても、あれは私が自分で選んだ現実やったんよ」
何を言われているのか、すぐには理解できなかった。
選んだ?
現実?
和紗さんは、裕也に騙されて、苦しめられて、泣いていたはずなのに。
「和紗さん、何言うとるん」
「分からんやろうね、伊織には」
「分かるよ。分かるから——」
「分かっとらん!」
その一言で、俺は黙るしかなかった。
和紗さんの肩が震えていた。
怒りなのか、悲しみなのか、それとも両方なのか、もう見分けがつかなかった。
「お父さんもお母さんも、伊織も、みんな同じや。正しいことばっかり言う。そっちの方が正しいって、そっちへ戻れって。そんなの、分かっとるんよ」
ぽつり、ぽつりと、吐き出すように言葉が落ちてくる。
「でもな、それでも私は、自分で選んだんや。失敗しても、汚れても、馬鹿みたいでも、自分で決めて、自分でやって、自分で苦しんできたんや」
「……」
「初めてやったんよ」
その一言だけが、やけにはっきり聞こえた。
和紗さんは、唇を噛んだ。
泣きそうなのに、泣くまいとしている顔だった。
「初めて、誰かの期待やなくて、自分で選んだ人生やったんよ……」
その瞬間、頭のどこかで、ばらばらに散っていたものが、音もなく繋がった。
小さい頃からずっと、和紗さんは強かった。
そう思っていた。
誰よりも明るくて、正しくて、強くて、迷わない人だと。
でも、違ったのかもしれない。
親に褒められるため。
みんなに好かれるため。
俺に憧れられるため。
そうやって、強い和紗さんでい続けてきたのだとしたら。
その「正しい和紗さん」から外れた人生だけが、和紗さんにとって初めて自分で掴んだものだったのだとしたら。
俺は、何をした。
何を、奪った。
「……返してよ」
和紗さんの声は、今度は小さかった。
「返してよ……私の時間を。私がやってきたことを。勝手に間違いにして、勝手に終わらせんといてよ……」
足元が抜けるような感覚がした。
俺はずっと、救ったつもりだった。
和紗さんのために、必要なことをしたつもりだった。
正しいことをしたはずだった。
なのに。
和紗さんは、俺に奪われたと思っている。
「私に必要なんは伊織やない」
「……」
「裕也なんよ」
その名前を聞いた瞬間、まだ胸のどこかに反発が湧いた。
そんな男のどこがいい。
あんなやつに何がある。
けれど、その反発より先に、別の事実が重くのしかかった。
和紗さんにとって大事なのは、裕也その人だけじゃない。
裕也を選び、そのために転げ落ち、それでも掴んでいた自分自身の人生だった。
俺はそれを、丸ごと踏み潰した。
「返してよ……」
和紗さんの目から、涙が落ちた。
「私に裕也を、返してよ」
何も言えなかった。
言える言葉が、一つもなかった。
和紗さんは涙を拭かなかった。
ただ、泣いたまま俺を睨んでいた。
その顔を見て、ようやく分かった。
ああ、もうだめなんだ、と。
俺がどれだけ説明しても。
どれだけ和紗さんのためだったと言っても。
どれだけ昔から好きだったと告げても。
もう、何一つ、届かない。
「お父さんも、お母さんも、伊織も」
和紗さんは、静かに言った。
「みんな、大っ嫌い」
その言葉は叫び声よりずっと深く刺さった。
「二度と、私の前に現れんといて」
強い口調だった。
昔、玄関先で俺に「大丈夫」と言ってくれた時の声と同じくらい、迷いのない声だった。
和紗さんは背を向けた。
引き止めようと思えば、できたのかもしれない。
名前を呼ぶことくらいは、できたはずだ。
でも、できなかった。
俺はただ、その背中を見ているしかなかった。
守ると心に決めたあの日も、たしかこんなふうに、和紗さんの背中を見ていた気がする。
あの時は、ついていけた。
追いかければよかった。
手を伸ばせば、届くと思っていた。
でも今は、違う。
離れていく背中に、もう追いつけないことだけが分かっていた。
街灯の下を抜けていく和紗さんの影は、振り返ることなく、夜の向こうへ消えていった。
取り残されたまま、俺は立ち尽くしていた。
和紗さんを幸せにしたかった。
ほんとうに、そのつもりだった。
なのに、どうしてこうなった。
どこで間違えたんだろう。
あの男を追い詰めた時か。
和紗さんの涙を見た時か。
助けなければと思った時か。
いや、もしかしたら。
初めてあの人に手を引かれて、世界が明るくなったあの瞬間には、もう。
俺の中では、何かが終わってしまっていたのかもしれない。
以上、初めて複数話を書ききった作品になります。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。




