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アゲハの見た夢  作者: リフェリア


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3/3

夜の果てによく似た色

公園を去っていく和紗さんの背中を、俺はしばらく動けずに見送っていた。


さっきまで腕の中にいたはずの温もりは、もうどこにもなかった。

代わりに胸の奥へ残っていたのは、あの人が零した涙と、「もし伊織が彼氏だったら」という、冗談みたいで冗談では済まない一言だった。


和紗さんは泣いていた。

苦しんでいた。

あんなふうに自分を追い詰めてまで、たった一人の男に縋っていた。


許せなかった。


あの人をあそこまで追い込んだ男が。

あの人の光を奪った男が。

何より、和紗さんが笑顔でないことが許せなかった。


でも、それ以上に強かったのは、ようやく自分のやるべきことが見えた気がしたことだった。


和紗さんは、暗い世界に囚われていた俺を救い出してくれた。

だから今度は、俺が和紗さんを救い出す。


そう決めた瞬間、不思議なくらい気持ちは静かになった。


たいして時間もかからずに、裕也という男の輪郭は嫌でも見えてきた。

店の名前。出勤日。馴染みの店。

そして、和紗さんが通う頻度。


夜の街の人間関係は、外から見るよりずっと狭かった。


最初、俺は普通に話をつけるつもりだった。

和紗さんと別れてくれ、と。

あの人をこれ以上振り回さないでくれ、と。


だが、和紗さん以外の女を侍らせたまま、裕也は笑っただけだった。


「君さ、和紗の何なの?」

「……幼なじみや」

「へえ。そうなんだ。で?」

「和紗さんはあんたのせいで苦しんどる」

「それって、和紗が言ったのかい?」

「言わんでも分かる」

「なるほどねぇ……それじゃあ君は、和紗のこと何にも分かってないと思うよ」


その言葉に、俺は拳を固めて殴りかかりそうになった。


「暴力振るうなら顔はやめてくれよな。ホスト続けられないのは困るから」


俺は殴りかかりたい衝動を抑え、無言で見送ることしかできなかった。


後日、和紗さんにも遠回しに別れることを勧めた。

でも、返ってきたのは静かな拒絶だった。


「伊織には関係ないよ」


あの一言で分かった。

俺が正しいことを言うだけでは、和紗さんは救えない。


暴力では救えない。

正論では救えない。


俺が直接救う方法が思いつかない。


だったら、せめて裕也が和紗さんとちゃんと向き合える状況を作るしかない。


そう考えた時、答えは妙に単純に見えた。

裕也から、ホストとしての価値を奪えばいい。

ホストでいられなくなれば、真っ当な仕事に就くしかなくなるだろう。

そうすれば和紗さんの笑顔を曇らせている原因もなくなるはずだ。

それに、他に女が寄ってこなくなれば、和紗さん一人を大切にするしかなくなる。


それは、自分でも驚くほど自然な結論に思えた。


そのために夜の街へ入ることを、俺はあまり躊躇しなかった。

相手が望む顔をして、相手が欲しい言葉を選ぶことは、中高の生徒会で学んだ。

優しい男を演じることも、安心できる年下を演じることも、少し危うい匂いをまとった男になることも、やってみれば難しくなかった。


何より、目的があった。

和紗さんを救うという、必ず達成すべきことが。


そこから先は、怖いくらい早かった。


指名は増え続けた。

客の女たちは俺を面白がり、噂は噂を呼び、夜の街は新しい名前を勝手に広げていった。


イオリ。


自分の名前が、和紗さんのいない場所で何度も呼ばれるのは妙な気分だった。

けれど売上が上がるたび、俺の中ではただ一つのことしか意味を持たなかった。


これでまた一歩、和紗さんを苦しみから遠ざけられる。


裕也の店の客が減り、経営が傾いているという噂も聞いた。

それでもあいつの順位が落ちないのは、和紗さんが支えているからだと、すぐに分かった。


ますます許せなかった。

和紗さんはまだ、自分を削ってあいつを立たせている。


だったら、もっと徹底的にやるしかない。


裕也の店の売上が露骨に落ち、夜の街で俺の名前が広まりきった頃だった。

和紗さんから、久しぶりに連絡が来た。


少しだけ期待した。

でも、会ってすぐに分かった。


あの人は、自分の言葉で話しに来たんじゃない。


「伊織、もうやめて」

「何を?」

「……分かっとるやろ」

「和紗さん、それ、あいつに言わされたん?」

「違う」

「違わんよ」


和紗さんは困ったように眉を寄せた。

昔なら、その顔を見るだけで自分の言い過ぎに気づけたはずだった。

でもその時の俺は、もう違っていた。


和紗さんが俺を止めるのは、あの男に縛られているからだ。

自分では何が正しいか見えなくなっているからだ。


そう思えば、迷いは消えた。


むしろ、やめる理由がなくなった。


数日後、帰り道で囲まれた。


人数は多かったが、不思議と何も感じなかった。

怒りも、恐怖も、焦りもない。

ただ、邪魔だと思った。


最初に殴りかかってきた男の腕を払い、次の男の膝を折り、横から来たのを肘で潰す。

途中から、誰がどこにいるのかも意識しなかった。

身体が勝手に動いた。


最後に残った裕也は、もう立っているのがやっとみたいな顔をしていた。


俺はその耳元で静かに言った。


「お前のせいで和紗さんが泣いていた。もう二度と、あの人の前に現れるな」


裕也の肩が震えた。


「次に俺の視界に入ったら、もう顔で商売できると思うなよ」


ガクガクと壊れた玩具みたいに、裕也が何度も頷く。


少し間を置いて、俺は続けた。


「忘れるな。俺は、和紗さんをずっと見守っとる」


その言葉だけで十分だと思った。


その後、裕也の姿を見ることはなかった。


電話も繋がらず、店にも顔を出さなくなったらしい。

夜の街では色んな噂が飛んでいたが、俺にはどうでもよかった。


ようやく終わった、と思った。


これで和紗さんは、あの男から自由になれる。

もう泣かなくていい。

もう自分を削らなくていい。


きっと分かってくれる。

俺がどれだけ本気で、あの人のためだけにここまでやったのか。


そう思っていた。


その夜、和紗さんから「話したい」と連絡が来るまでは。


和紗さんから連絡が来たのは、日付が変わる少し前だった。


話したいことがあるんやけど、前に会った公園、来れる?


短い文面だった。

絵文字も顔文字もなく、ただそれだけだった。


それを見た瞬間、胸の奥が熱くなった。


ようやく、と思った。


裕也はもういない。

和紗さんを曇らせていた元凶は消えた。

あとは時間さえあれば、和紗さんもきっと分かってくれる。

俺がどれだけ本気で、和紗さんのことだけを考えてここまで来たのか。


公園へ向かう足取りは、妙に軽かった。


久しぶりに会うのなら、少しはちゃんとした格好をした方がいい気がして、新しく下ろしたシャツを着た。

客の女たちが似合うと言っていたジャケットも羽織った。

鏡の前で髪を整えながら、自分でも笑ってしまった。


まるで、初めて好きな女に会いに行く男みたいだと思った。


いや、違うか。

俺はずっと、和紗さんのことだけが好きだった。


公園に着くと、和紗さんはベンチの前に立っていた。


少し離れた街灯の下でも分かるくらい、顔色が悪かった。

けれど、俺の姿を見つけると、昔みたいに背筋を伸ばした。


それが嬉しかった。


「久しぶり、和紗さん。今日はどうしたの」


なるべく柔らかく言ったつもりだった。

実際、声は自然に明るくなった。


和紗さんは答えなかった。

ただ、じっと俺を見ていた。


その目が、前に抱きしめた夜の目と違っていた。

あの時あった揺らぎも、弱さも、涙の名残もなかった。

代わりにあるのは、冷え切った何かだった。


それでも俺は、その意味をすぐには理解できなかった。


「裕也のことなら、もう心配いらんよ」


俺は先に言った。

安心させるつもりで、俺は少し笑っていた。たぶん、褒めてもらうのを待つ犬みたいな顔をしていたんだと思う。


「もうあいつは和紗さんの前に現れん。二度と傷つけさせんから」


和紗さんの顔が歪んだ。


怒っているのだと分かるまで、一瞬かかった。


「なんで」


掠れた声だった。


「……え?」

「なんであんなことしたのって聞いとるんやけど」


胸の奥がひやりとした。


「和紗さんのためやよ」

「私のため?」


その言い方が、ひどく冷たかった。


「そうや。あいつのせいで和紗さん、ずっと苦しんどったやろ。泣いとったやろ。だから俺が——」

「とぼけんといて」


初めて聞く強い声だった。

それだけで、言葉が止まった。


「私から裕也を奪っといて、何が私のためなん」

「奪ったんやない。あいつは最初から——」

「私が選んだんや!」


叫ぶみたいな声だった。


夜の公園に、和紗さんの声が鋭く響く。

俺の鼓膜より先に、胸の奥のどこかを切り裂いた。


「誰に何言われても、私が選んだんや。間違っとっても、汚れとっても、あれは私が自分で選んだ現実やったんよ」


何を言われているのか、すぐには理解できなかった。


選んだ?

現実?


和紗さんは、裕也に騙されて、苦しめられて、泣いていたはずなのに。


「和紗さん、何言うとるん」

「分からんやろうね、伊織には」

「分かるよ。分かるから——」

「分かっとらん!」


その一言で、俺は黙るしかなかった。


和紗さんの肩が震えていた。

怒りなのか、悲しみなのか、それとも両方なのか、もう見分けがつかなかった。


「お父さんもお母さんも、伊織も、みんな同じや。正しいことばっかり言う。そっちの方が正しいって、そっちへ戻れって。そんなの、分かっとるんよ」


ぽつり、ぽつりと、吐き出すように言葉が落ちてくる。


「でもな、それでも私は、自分で選んだんや。失敗しても、汚れても、馬鹿みたいでも、自分で決めて、自分でやって、自分で苦しんできたんや」

「……」

「初めてやったんよ」


その一言だけが、やけにはっきり聞こえた。


和紗さんは、唇を噛んだ。

泣きそうなのに、泣くまいとしている顔だった。


「初めて、誰かの期待やなくて、自分で選んだ人生やったんよ……」


その瞬間、頭のどこかで、ばらばらに散っていたものが、音もなく繋がった。


小さい頃からずっと、和紗さんは強かった。

そう思っていた。

誰よりも明るくて、正しくて、強くて、迷わない人だと。


でも、違ったのかもしれない。


親に褒められるため。

みんなに好かれるため。

俺に憧れられるため。


そうやって、強い和紗さんでい続けてきたのだとしたら。


その「正しい和紗さん」から外れた人生だけが、和紗さんにとって初めて自分で掴んだものだったのだとしたら。


俺は、何をした。


何を、奪った。


「……返してよ」


和紗さんの声は、今度は小さかった。


「返してよ……私の時間を。私がやってきたことを。勝手に間違いにして、勝手に終わらせんといてよ……」


足元が抜けるような感覚がした。


俺はずっと、救ったつもりだった。

和紗さんのために、必要なことをしたつもりだった。

正しいことをしたはずだった。


なのに。


和紗さんは、俺に奪われたと思っている。


「私に必要なんは伊織やない」

「……」

「裕也なんよ」


その名前を聞いた瞬間、まだ胸のどこかに反発が湧いた。

そんな男のどこがいい。

あんなやつに何がある。


けれど、その反発より先に、別の事実が重くのしかかった。


和紗さんにとって大事なのは、裕也その人だけじゃない。

裕也を選び、そのために転げ落ち、それでも掴んでいた自分自身の人生だった。


俺はそれを、丸ごと踏み潰した。


「返してよ……」


和紗さんの目から、涙が落ちた。


「私に裕也を、返してよ」


何も言えなかった。


言える言葉が、一つもなかった。


和紗さんは涙を拭かなかった。

ただ、泣いたまま俺を睨んでいた。


その顔を見て、ようやく分かった。


ああ、もうだめなんだ、と。


俺がどれだけ説明しても。

どれだけ和紗さんのためだったと言っても。

どれだけ昔から好きだったと告げても。


もう、何一つ、届かない。


「お父さんも、お母さんも、伊織も」


和紗さんは、静かに言った。


「みんな、大っ嫌い」


その言葉は叫び声よりずっと深く刺さった。


「二度と、私の前に現れんといて」


強い口調だった。

昔、玄関先で俺に「大丈夫」と言ってくれた時の声と同じくらい、迷いのない声だった。


和紗さんは背を向けた。


引き止めようと思えば、できたのかもしれない。

名前を呼ぶことくらいは、できたはずだ。


でも、できなかった。


俺はただ、その背中を見ているしかなかった。


守ると心に決めたあの日も、たしかこんなふうに、和紗さんの背中を見ていた気がする。

あの時は、ついていけた。

追いかければよかった。

手を伸ばせば、届くと思っていた。


でも今は、違う。


離れていく背中に、もう追いつけないことだけが分かっていた。


街灯の下を抜けていく和紗さんの影は、振り返ることなく、夜の向こうへ消えていった。


取り残されたまま、俺は立ち尽くしていた。


和紗さんを幸せにしたかった。

ほんとうに、そのつもりだった。


なのに、どうしてこうなった。


どこで間違えたんだろう。


あの男を追い詰めた時か。

和紗さんの涙を見た時か。

助けなければと思った時か。


いや、もしかしたら。


初めてあの人に手を引かれて、世界が明るくなったあの瞬間には、もう。

俺の中では、何かが終わってしまっていたのかもしれない。

以上、初めて複数話を書ききった作品になります。


最後までお付き合い頂きありがとうございました。

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