憂いを帯びた色
上京して、大学生活がようやく日常らしい形を取り始めた四月の半ば。
俺は空き時間のほとんどを、和紗さんを探すことに使っていた。
卒論で忙しいのかと思って、同じ学部の人間に声をかけた。
教授の研究室にも顔を出した。
けれど返ってきたのは、まともな手掛かりより、耳を疑うような噂ばかりだった。
最近はほとんど講義に出ていない。
男の家に入り浸っている。
いつも違う男と歩いている。
ホストに相当貢いでいるらしい。
そんなはずがない、と思った。
思いたかった、と言う方が正しいかもしれない。
和紗さんに限って、そんな馬鹿な……
だが、学内をどれだけ歩き回っても、和紗さんの姿はどこにもなかった。
結局、噂の大半を伏せたまま、俺は母にだけ相談した。
最近、和紗さんが大学にあまり出てきていないらしいこと。
学内をどれだけ探し回っても見つけきれないこと。
師範たちに直接伝える勇気は、まだなかった。
母は『東京で息子がお世話になるかもしれないから、ご挨拶の品を送りたい』と上手く誤魔化して、和紗さんの現住所を聞き出してくれた。
師範たちをむやみに心配させたくないという俺の気持ちを、たぶん母は分かってくれたのだと思う。
教えてもらった住所を訪ねると、そこは立派なマンションだった。
オートロック付きで、当然、勝手には入れない。
仕方なく、通りの向かいにあった喫茶店に入った。
和紗さんが通りかかるのを待とうと思った。
気づけば七時間が経っていた。
コーヒーはとっくにぬるくなって、窓の外もすっかり夜になっていた。
店が閉まり支度を始めた頃、ようやく、待ち望んだ相手が現れた。
見知らぬ男と腕を組んだ状態で。
一目で分かった。
三年ぶりでも、見間違えるはずがない。
和紗さんは、変わらず美しかった。
けれど、その美しさは俺の知っているものとは違っていた。
陽光の下でも輝くような美しさではない。
肌にまとわりつく艶やかな美しさだった。
少し濃い化粧と、派手な服を着て、男の肩に頭をつけるほどに寄り添い歩く姿は、まるで羽を休めるアゲハ蝶みたいだと思った。
俺は立ち上がりかけた姿勢のまま、動けなかった。
二人はそのままマンションのオートロックを抜けて、中へ消えていった。
その日から数日、頭の中はずっと濁ったままだった。
大学へ行って、部屋へ帰る。ただそれだけのことにも妙に時間がかかった。
講義の内容は耳を滑っていき、気づけば同じページを何度も開いていた。
噂の方が正しくて、和紗さんは、俺の知っている和紗さんではなくなってしまったのだろうか。
それでも、師範たちが心配していることだけは伝えなければならない。
そう自分に言い聞かせて、俺はもう一度マンションを訪ねた。
部屋に明かりがついているのを確認して、エントランスのインターフォンを押す。
最後のボタンを押し込むまでに、ほんの一瞬だけ躊躇いがあった。
『はい、どちらさまですかー?』
聞こえてきた声は間違いなく和紗さんのものだった。
なのに、その語尾の軽さが、俺の知らない他人のように思えた。
「黒宮伊織です。和紗さん、お久しぶりです。今日は師範たちに頼まれごとをして、顔を見に来ました」
用意してきた言い訳は、思っていたよりもするりと口から出た。
『え、伊織? うそ、久しぶりじゃん。元気ー?』
その声音を聞いただけで、数日前に受けた衝撃とは別の何かが、胸の奥でまた揺れた。
忘れられていなかった。
それだけのことが、情けないくらい嬉しかった。
オートロックが解かれ、部屋へ通される。
久しぶりに上がった和紗さんの部屋は、綺麗に片付いていた。
けれど、玄関に並んだ見覚えのない男物の靴と、部屋の隅に無造作に置かれた灰皿が、和紗さんの生活がもう俺の知らないものになってしまっているのだと突きつけていた。
「で、ほんまに久しぶりやね。背ぇ伸びたなあ」
「和紗さんこそ。……覚えててくれたんやね」
「そりゃ覚えとるよ。伊織、めちゃくちゃ泣き虫やったし」
「それ、小三の話やろ」
「小三の話、ついこの前みたいに思い出せるわ」
そう言って笑う顔は、記憶の中の和紗さんと少しだけ重なった。
俺もつられて笑ったけれど、胸の奥では別の感情がまだざらついたままだった。
同じ大学に入ったこと。
全国大会の演武でベスト8まで残れたこと。
道場のこと、実家のこと、両親のこと。
俺が話すあいだ、和紗さんはテーブルに頬杖をつきながら、へえ、とか、すごいやん、とか、相槌を打っていた。
それから、俺は師範たちが心配していることを伝えた。
その瞬間、和紗さんの表情がほんの少しだけ固まった。
「最近、実家にあまり連絡入れとらんらしいね。師範たちも、だいぶ心配しとった」
「……そっか」
「何かあったん?」
和紗さんはすぐには答えなかった。
テーブルの上のグラスを指先で回して、氷の溶けた音だけが小さく鳴った。
「別に、大したことないんやけど」
「和紗さん」
「……大学、留年しとるんよね」
思わず息が止まった。
「去年、あんまり授業出れてなくてさ。単位、足りんかった」
「なんで?」
「彼氏がおるんよ」
言葉は軽かった。
けれど、その軽さがかえって俺の胃を冷たくした。
「大学入ってすぐ、サークルの先輩と付き合って。今はその人、大学辞めてホストしとるんやけど」
「……ホスト」
「うん。結構頑張っとって、今年に入ってからはナンバー3で看板にも顔載ってんねんで」
喫茶店の窓越しに見た、あの男の顔が鮮明に頭に浮かんだ。
拳を握りそうになるのを、膝の上でこらえた。
「和紗さん、その人と今も付き合っとるん?」
「付き合っとるよ」
あまりに即答だったので、逆に何も言えなくなった。
「いろいろあるんやけどさ。でも、頑張っとるんよ。あの人も。うちも」
「……頑張るって、何を?」
「……バイトとか」
「大学行けんくなるほど働かなあかんの?」
「彼女として、少しはあの人の売上に協力したいなあ、みたいな? それに、うちがお金使って隣におる間は他の女に時間使わせんで済むやろ?」
ふふ、と笑う。
俺の知らない笑い方だった。
俺は上手く相槌を打てていたんだろうか。
目の前にいるのが本当に和紗さんなのか、途中からそれすら分からなくなっていた。
初めて会った夜の喫茶店で受けた衝撃とは、別の痛みだった。
胸の奥にじわじわと何かが染み込んで、うまく呼吸ができなくなり、まるで溺れているような感覚だった。
「伊織、顔色悪いよ」
気がつくと、テーブルの向こうにいたはずの和紗さんが、いつの間にか隣へ来ていた。
膝の上で握りしめていた手をそっと包み込み、下から俺の顔を覗き込んでくる。
「大丈夫? なんか、ほんまに真っ青やよ」
自分の方こそ大変なはずなのに、和紗さんは俺のことを本気で心配してくれていた。
その目が、あの頃と同じ色をしていた。
憂いを含んだ、やわらかい眼差し。
初めて俺を迎えに来てくれた時、玄関先で見たあの表情と同じだった。
あの時、傷ついているように見えていた表情は、俺の言葉に傷ついたわけじゃなく、俺の苦しみを知って、心配してくれていたのかもしれない。
変わり果てたように見えた姿の奥に、変わらないものがまだ残っている。
そう思った瞬間、胸の中で、何かが大きく震えた。
「……大丈夫だよ。ちょっと、驚いただけ」
そう言うのが精一杯だった。
その夜は、それ以上深い話にはならなかった。
和紗さんはすぐに、昔みたいに明るく振る舞って、道場のことや地元のことを聞きたがった。
無理をしているように感じたが、気づかないフリをして、俺も昔みたいに振る舞った。
帰り際、和紗さんは少しだけ真面目な顔になって言った。
「お父さんたちには、もう少し黙っといてくれへん?」
「でも、心配しとるよ?」
「分かっとる。でも今は、まだ無理なんよ。必ずうちから話すから」
俺は頷くしかなかった。
それからも、何度か会って話すようになった。
最初は近況報告のため、という形だった。
けれどそれは口実でしかなかったと思う。
和紗さんは、昔の自分を取り戻そうとするかのように振る舞った。
明るく笑って、強気なことを言って、年上の余裕みたいなものをわざと見せようとする。
でも、そのどれもがほんの少しだけ噛み合っていなかった。
落ち着かない視線
笑っているのに、目だけが少しも笑っていないこと
少し大袈裟なリアクション
時々俺の太ももに置かれる手
そういう小さな「らしくなさ」を、俺は見逃せなかった。
ある日、和紗さんはぽつりと漏らした。
「お父さんと、ケンカしてもうたわ」
その日は駅前のカフェでテイクアウトして、公園のベンチで話していた。
雲ひとつ無い陽気だったが、和紗さんの声は冷え切っていた。
和紗さんは、独り言のようにポツリポツリと語った。
彼氏と別れて地元へ戻ってこいって。
しばらく実家で生活を立て直してから、復学を考えろって。
今の彼氏とこのまま一緒にいちゃダメって。
結婚なんてもってのほかだって。
学費も生活費も親が出しているのだから、好き勝手はさせられないって。
和紗さんは最初、作り笑顔に失敗したような顔で話そうとしていた。
けれど、話すうちに表情がどんどんなくなっていった。
「それでな、もうマンションも引き払えって」
「……引き払うん?」
「そのつもり。ここに住んどったんも親を心配させんためってだけやし」
「引き払った後はどうするん?」
「そのまま裕也と一緒に住む。元々そのつもりやったし」
「元々そのつもり」という言葉が、やけに苦しかった。
「でも伊織とはまた、こうやって話したいんやけどさ」
そこで和紗さんは、少し困ったように笑って、俺を見た。
「新しく住むとことか連絡先とか、お父さんたちには知らんってことにしといてくれへん?」
一見すると、ただ可愛く甘えているようにしか見えない仕草だった。
上目遣いでこちらを見て、左手の人差し指がそっと口元に寄る。
でも、その癖を俺は知っていた。
和紗さんが、無理してカッコつける時に出る癖。
三年離れていても、変わっていなかった。
「和紗さん、無理しとるやろ」
俺の口から出たのは、それだけだった。
和紗さんの表情が、一瞬で揺れた。
「……何が」
「無理しとる」
「してへんし」
「しとる」
わずかな沈黙のあとで、和紗さんは視線を落とし、吐き捨てるように笑った。
「……そんなん……当たり前やん」
その一言を皮切りに、堰を切ったみたいに言葉が溢れ出した。
「お父さんもお母さんも、裕也とは別れろしか言わん。家に連れて帰る、関係断たせる、それから復学やって。なんでそんなことまで親に決められなあかんの。誰と付き合うかも、誰と一緒に生きるかも、うちが決めることやろ」
「和紗さん……」
「学費と生活費出しとるからって、それで全部言うこと聞かなあかんの?大学辞めたらええならもう辞めたるわ!うちかて、自分のことは自分で何とかしようとしてるんよ!ちゃんと頑張っとるんよ!」
和紗さんの声が裏返った。
「裕也のお店に行くお金だって、うちが自分の身体で稼いだんよ。お父さんたちのお金なんか使ってない。文句言われる筋合いなんか、ないやん……っ」
最後の方は、もう言葉になっていなかった。
唇を噛みしめてもこぼれてしまうみたいに、涙が次々と落ちた。
その涙を見た瞬間、俺は立ち上がっていた。
気づけば、和紗さんを抱きしめていた。
小学生の頃、泣きじゃくる俺を抱きしめてくれたみたいに。
あの時の温度を、今度は俺が返している。
そんな錯覚に近い感覚が、胸の奥を熱く満たした。
和紗さんはしばらく、何も言わずに泣いていた。
肩が震えて、嗚咽が服越しに伝わる。
俺はただ、何も言わずに背中をさすり続けた。
十分ほど経った頃だろうか。
ようやく和紗さんの泣き声が小さくなって、俺の胸元に押しつけられていた額が、そっと離れた。
見下ろした先で、和紗さんが少し照れくさそうに笑った。
「……大きくなったんだね、伊織」
その言い方が、妙に優しかった。
いつの間にか、頭ひとつ分以上、身長が離れていた。
昔は見上げるしかなかった相手を、今はこうして腕の中に収めている。
記憶と現実のギャップに気持ちが混乱してしまう。
しかし次の瞬間、和紗さんは俺の胸に手を当てて、やんわりと身体を離した。
「もし伊織と付き合っとったら、こんな思いはせんで済んだんやろうけどね」
「……え」
「うまくいかんもんやね」
冗談めかした声だった。
でも、その目は少しも笑っていなかった。
そのまま和紗さんは背を向け、ゆっくりと歩き出した。
去っていく後ろ姿は、記憶の中のどの和紗さんよりも細く、頼りなく見えた。
今の和紗さんの世界は、きっと黒い靄に覆われている。
前も後ろも見えなくなって、どこへ進めばいいのかも分からず、ひとりで立ち尽くしている。
あの頃の俺みたいに。
だったら、今度は俺が助けたい。
俺が和紗さんに救われて、世界に光が戻ったように。
今度は俺が、和紗さんをその暗がりの中から連れ戻すんだ。
ただ助けるだけじゃない。
和紗さんがもう二度とあんなふうに泣かなくて済むように、ちゃんと守れる場所になりたい。
あの人が昔、俺にとってそうだったみたいに。
今度は俺が、和紗さんを照らす側になれると、その時の俺は本気で信じていた。




