歓びとしての色
三話構成の習作です。
「副会長のことが好きです。付き合ってください」
卒業式が終わったあと、体育館脇の桜の木のそばに呼び出された時点で、だいたい予想はついていた。
俺を呼び出したのは、生徒会役員の後輩である二年生だ。
一年の頃から妙に懐いてはいたけれど、これまで露骨に男女の恋愛を匂わせるような素振りはなかったはずだ。だから、ここに現れたのがこいつだった時は、少し驚いた。
「気持ちは嬉しい。けど、応えられなくてごめん。『ずっと好きな人がいるんだ』」
三年間、何度もこの場所で口にしてきた言葉だった。
しかし今日は、最後の一文に相手の声が重なった。
「……え?」
外していた視線を戻すと、そこにあったのは失恋した女子高生の顔ではなく、悪戯を成功させた子どもの顔だった。
「本当にその台詞で振るんですね。びっくりしました」
「……嘘告ってやつか? 真剣に悩んだ俺の純情を返してくれ」
「副会長のこと、好きなのは本当ですよ? ただ、どう見ても叶わない恋っぽいですし。だったら、前から気になってたこと聞いておこうかなって」
「気になってたこと?」
「その『ずっと好きな人』って、本当にいるんですか?」
あっけらかんとした聞き方に、思わず笑いがこぼれた。
「いるよ」
「へえ」
「俺に、生きる目標をくれた人だ」
そう答えた瞬間、『ずっと好きな人』との思い出が静かに浮かび上がってきた。
俺はスウェーデン出身の父と、日本人の母のあいだに生まれた、いわゆるハーフだ。
白い肌に明るい茶髪、少しだけヘーゼルがかった瞳。小さい頃の俺は日本の子どもたちの中ではかなり目立つ見た目をしていて、そのうえ身体まで弱かった。
小学三年生くらいまでの俺は、男子の中でうまくやれていなかった。
上履きが見つからない朝が何度かあった。
体操服を探しているあいだ、教室の隅で笑い声がした。
女子と話しているだけで、女好きだとからかわれた。
放課後の遊びに俺だけ誘われなかった。
今になって思えば、一つ一つは小さな悪意でしか無かった。
女子にチヤホヤされていたことも、外遊びに混ざれなかったことも、たぶん男子たちから見れば鼻についたのだろう。
でも、当時の俺には十分な痛みだった。
もともと身体が弱く、気持ちまで折れやすかった俺は、そんな小さな悪意にひどく怯えた。
気づけば男子の輪に近づくのが怖くなって、外へ出ることすら億劫になっていた。
学校へ通えなくなって、一週間ほど経った頃だった。
当時六年生だった和紗さんが、俺を迎えに来た。
和紗さんの両親と俺の両親は仲が良く、家族ぐるみで顔を合わせることもあった。けれど、活発な和紗さんと、病気がちで大人しい俺は、三つの年の差もあって、それまで特別親しかったわけではない。
それなのに、親づてに事情を聞いた和紗さんは、わざわざ家まで来てくれたのだ。
「伊織、学校行こうよ」
その言葉に、俺はひどい返し方をした。
「絶対嫌だ。僕がどれだけしんどいか知らないくせに!勝手なこと言うなよ!」
言った瞬間、自分でも最悪だと思った。
和紗さんは少しだけ傷ついた顔をした。
それ以上その顔を見ていられなくて、俺は逃げるように自分の部屋へ戻った。ベッドに潜り込んで、その日は一日中、ぐちゃぐちゃな気持ちのまま過ごした。
俺を苦しめていたのは和紗さんじゃない。
来てくれただけなのに、傷つけた。
嫌われたかもしれない。
そんなことばかり考えていた。
それなのに、次の日の朝になると、和紗さんはまた来てくれた。
前日のことがあまりにも気まずくて、玄関に立ったまま何も言えずにいる俺に、和紗さんは昨日と変わらない明るい顔で言った。
「伊織がなんで学校行きたくないんか、ちゃんとクラスまで行って聞いてきたよ。クラスの男の子らに嫌なことされたんやろ?」
図星だった。
思い出したくもない教室の空気が一気に蘇ってきて、胸の中がまた暗くなる。俺はただ俯くことしかできなかった。
すると和紗さんは、握りしめていた俺の両手を、そっと包んだ。
「もう大丈夫やよ。うち、全員怒っといた」
「……え?」
「うちな、少林寺拳法やっとるんよ。けっこう強いんやって」
そこで和紗さんは、少しだけ胸を張って笑った。
「これから伊織が嫌なことされたら、全部うちがぶっ飛ばして守ってやる。やから大丈夫。一緒に学校行こ」
びっくりして顔を上げた俺の前で、和紗さんは、朝の光の中でも眩しいくらいの笑顔を浮かべていた。
その瞬間、何かが決壊した。
俺は子どもみたいに、いや、実際子どもだったんだけど、声を上げて泣いた。
和紗さんは泣き止むまで、何も言わずに抱きしめてくれた。
その日は結局、学校には行けなかった。
けれど次の日から、俺は和紗さんと一緒に登校するようになった。
一緒に歩くようになって初めて、和紗さんがどれだけ周りに好かれているのかを知った。
いつも明るくて、誰にでも優しい。
男女問わず友達が多くて、自然に人の中心にいるような人だった。
そんな和紗さんが、俺を大事に扱ってくれた。
それだけで、周りの態度は目に見えて変わった。
からかわれることはなくなり、怖くて俯いてばかりいた通学路も、少しずつ普通の道に戻っていった。
俺にはない強さを持った彼女に、俺は強く憧れた。
和紗さんと一緒に登下校した一年間は、それまで鬱屈していた俺の世界を、一気に明るいものへ書き換えてしまった。
「やっぱり、強い男の人ってかっこいいよね!」
卒業を間近に控えた冬の日。
少林寺拳法の演武大会で優勝した拳士を褒めたたえながら、和紗さんは熱っぽくそう言った。
整った顔立ちに、肩へかかる黒髪。
いつも笑っている人だったけれど、応援に行った大会で見た演武中の真剣な顔に魅せられた。
まるで別人みたいだった。
普段の柔らかな眼差しからは想像もできない鋭い眼光、淀みなく滑らかに動く身体、勝った瞬間にほどける表情。あんなに強い輝きを放つ人を、俺はそれまで見たことがなかった。
表彰の時にメダルをかけられ、盾を掲げる和紗さんは、ただ綺麗なだけじゃなかった。
明るくなった俺の世界の中で、それでもなお神々しく見えるくらい、強く輝いていた。
やがて和紗さんは卒業し、中学校へ進学した。
俺は小学四年生になった。
ひとりで歩く通学路は、思っていたよりずっと静かだった。
曲がり角で立ち止まっても、待っていてくれる人はもういない。
学校のできごとを話そうにも、隣で笑ってくれる相手はもういない。
その寂しさが、俺に教えてくれた。
俺が和紗さんに向けていた気持ちは、ただの憧れだけではなかったのだと。
そこからの俺は変わった。
心配する両親を説得して、和紗さんの実家の寺に併設された少林寺拳法の道場へ入門した。
小学生の部の正式な練習は週二日だけだったが、和紗さんと、師範であるご両親の厚意で、俺はそれ以外の日にも道場へ通わせてもらえることになった。
最初の頃は、少し無理をするとすぐ熱を出した。
道場で倒れたこともある。
それでも毎日続けているうちに、少しずつ身体は変わっていった。
一年もすると風邪をひきにくくなり、息も上がりにくくなった。
身長はぐんぐん伸びて、中学一年の夏には、あれほど大きく見えていた和紗さんを、少しだけ見下ろせるようになっていた。
けれど、追いつけたのは背丈だけだった。
三歳から十二年以上も少林寺拳法を続けてきた和紗さんの技は、文字通り段違いだった。
道場での手合わせでは、和紗さんが大学進学で上京するまで一度も勝てなかった。
それでもよかった。
勝てなくても、少しでも近づきたかった。
和紗さんがいなくなってからの三年間、俺はその背中の幻を追うように、ひたすら稽古に打ち込んだ。
三段以上の演武大会でも、上位に残れるようになった。
技にも自信がついた。
そのたびに師範からは、「強さに溺れんように、心も強うなりんさい」と口を酸っぱくして言われたものだ。
大学進学で東京へ出てからの和紗さんは忙しいらしく、実家にもあまり帰っていないと聞いた。
和紗も頑張っているのだと、師範は誇らしそうに話していた。
だから俺も、止まれなかった。
和紗さんの隣に、自信を持って立てるようになりたかった。
ただそれだけを目標に、俺は努力を続けてきたんだ。
荷物をまとめ終え、いよいよ旅立ちの日が来た。
玄関先で、母が少し気がかりそうに言う。
「和紗ちゃん、最近あんまり連絡よこさないみたいでね。ご両親も少し心配してるの。東京で見かけたら、元気かどうかだけでも教えてあげて」
「和紗さんのことやし、どうせ何かに夢中になっとるんやろ。便りがないのは元気な証拠って言うし」
「そうだといいけどね」
まだ少し不安そうな両親に見送られて、俺は新幹線に乗り込んだ。
和紗さんは、大学へ進んでから大会でも名前を見なくなった。
けれど、きっと新しい場所で、彼女らしく輝いているのだと思っていた。
今の俺の姿を見てほしい。
昔みたいに守られるだけの子どもじゃない。
隣に立っても恥ずかしくないくらいには、ちゃんと成長できただろうか。
窓の外、菜の花畑が陽の光を浴びて、一面に黄色く輝いていた。




