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【現代】短編読み切り

夕暮れのホームと、学ランの彼(40)

作者: 夏灯みかん

 ガタン……ゴトン……と揺れる電車の車窓の外には、田舎町の風景が広がっている。

 閑散とした車内。大きなスーツケースを持ち、千里はぼんやりと窓の外を見つめていた。


(よくスマホに広告が出てくるWEB漫画みたいなことが、自分に起こるとはなあ)


 浮気相手と共に土下座をする元夫と浮気相手の姿が目に浮かんだ。

 40歳――結婚10年目にして、元夫に浮気された。

 相手は医者をしている夫の勤務先の、20代の看護師。

 子どもはいないし、離婚の決断までは早かった。

 証拠を集め、離婚を突きつけ、慰謝料ももらった。

 

 ――けれど、気持ちは全く晴れない。

 元夫と10年暮らした都内の一軒家は売り払った。

「子ども部屋は2つは欲しいね」なんて新婚当初話していた会話が頭に浮かぶ。子どもは結局できなかった。夫の仕事は忙しかったし、看護師の千里も大学病院の看護主任として忙しくしていたので、ここ数年は会話も減っていた。離婚を突きつけると、元夫はすがることもなく、頭を下げてから、うなずいた。


 離婚後、千里は都内から3時間ほどの北関東の田舎町にある実家に帰ることにした。


(幸い、仕事はたくさんあるし。1人で都心で高い家賃払うのもったいないし……)


 千里は看護師をしているので、実家に帰っても仕事には困らなさそうだった。


 けれど。


 だんだんと見慣れた実家の最寄り駅のホームが見えてきた。

 夕暮れのホームに母校の高校の男子の制服を着た人影が見えて、千里の瞳が潤んだ。

 高校生の時――当時付き合っていたあの制服を着た彼氏と毎日電車に乗った日々を思い出す。初めての彼氏で、毎日がキラキラして見えた青春の記憶。

 ――結局、その当時付き合っていた同じ高校の彼氏――大輔とは、進学後に別れてしまったけれど。


(40歳になって、スーツケース1つで出戻ってきちゃった)


 ぽとりと頬を涙がつたった。

 高校生の時の自分に情けなくて謝りたい、そんな気持ちの涙だった。


『駅に到着します――、お降りの方はドアボタンを押してください――』


 アナウンスが流れ、電車が止まる。

 千里は『開』ボタンを押して、ホームに下りた。


「……え?」


 そして、硬直した。

 あの、ホームに見えた、ベンチに座る母校の学ランを着た男子生徒――は、『生徒』ではなく、同年代の疲れた表情の男性だったのだ。――しかも。

 千里は、彼の顔に見覚えがあった。時間は経っているが間違えるはずはない。

 高校時代、毎日このホームから一緒に通学していた、当時の彼氏。

 先ほどまで思い出していた、


「だ、大輔? なんで、制服着てるの? え?」


 思わず声を上げた千里に、驚いたように学ランを着た大輔も顔を上げた。


「え? 千里? え?」


 しばらくの沈黙。見つめ合う千里と大輔。


 沈黙を破ったのは、大輔の隣に腰掛けていた白髪の老婦人だった。


「あらあら、ちーちゃんのお母さんかしら? 大輔がいつもお世話になっております」


 小さな体を曲げてにこやかに挨拶をする老女。

 彼女のことも、千里は覚えていた。


「お、おばさん……?」


 彼女は、大輔の母親の浩子のはずだ。

 大輔の家にもよく遊びに行っていた彼女が千里のことを当時「ちーちゃん」と呼んでいたのを思い出した。

 けれど、浩子の発言に、千里は違和感を感じた。


(私……のこと、わかってない……?)


 彼女は、千里のことを『ちーちゃんのお母さん』と呼んだのだ。


(私を、私のお母さんだと思ってるってこと……?)


 驚いて大輔を見つめると、大輔は困ったように頭を掻いてから、千里に言った。


「おばさん、ご無沙汰してます」


 そう言って、千里に頭を下げる大輔。

 千里は困惑したまま、反射的に頭を下げた。

 そんな千里に、大輔は小さい声で囁いた。


「久しぶり。ごめん。話合わせてくれないか? ――母さん、認知症になっちゃって」


 学生時代と変わりないぶっきらぼうで端的な話し方に、やっぱりこの学ランを着た40歳の男性は、大輔なのだと実感する。大輔は悲し気に視線を落とした。


「母さん、俺のことも高校生だと思ってるんだよ」


 その時、場の雰囲気を救うような明るい声が響いた。


「浩子、大輔くん、ごめんね! トイレの水がなかなか流れなくて! 困っちゃったわよお」


 手を振って駆けつけたのは、明るい色の服に身を包んだ浩子と同年代の女性。

 彼女は、千里を見ると「まあ!」と大きな声を上げた。


「あら、ちーちゃんじゃない? 久しぶり~! お母さんから、『戻ってくる』って聞いてたけど、今日だったの? 相変わらず美人さんね~」


「加奈子さん、お久しぶりです……」


 彼女は、大輔の家の近くに住む、大輔の伯母……浩子の姉だ。

 浩子と仲が良く、大輔の家に遊びに行った時に顔を合わせることも多かった。

 地元で顔の広い女性で、千里の親とも実は知り合いだったことが後でわかって驚いた記憶もある。


「……そうよねえ。ちーちゃんも美人さんだから、お母さんも美人さんなのねえ」


 浩子が感心するようにつぶやいた。


「加奈子伯母さん……母さんは、千里を千里のお母さんだと思ってるっぽいです」


 大輔が状況を加奈子に補足すると、加奈子は目を大きくした。


「そういうこと!?」


 浩子は独り言のように話し続けた。


「ちーちゃんは本当にうちの大輔にはもったいない子ですよ。礼儀正しいし、しっかりしてるし。私の作るお弁当もおいしいって言ってくれてねえ、特に卵焼きが好きなんですよね。大輔もいつも、『ちーちゃんにあげるから、卵焼きを1つ多く入れてくれ』なんて……。大輔、今日もちーちゃんに卵焼きあげたのかしら」


「ごめん……」


 大輔が困惑したように、千里を見つめた。

 千里は懐かしいやら恥ずかしいやらという気持ちで視線を泳がせた。


(大輔といつもお昼一緒に食べてたなあ。懐かしい……)


 1人で話し続ける浩子を見つめる。


(おばさんは、――私たちが高校生だった時に戻っちゃったのね……)


 それから、腰を落として、ベンチに座る浩子と目線を合わせると微笑んだ。


「千里もいつも『おばさんの卵焼きがおいしい』って言ってますよ。卵焼きの中に、切り干し大根やお漬物が入っていて、クセになるって……。家でも、『大輔君の家の卵焼きを作ってくれ』なんて、私に言うんですよ」


 どれも本当にあったことだった。


「千里……」


 大輔は『千里の母親』を演じる千里に驚いたように目を広げた。


「まあ、そんなふうに言ってくれるなんて嬉しいわ! そうそう、最初は残り物の切り干し大根をふと思い立って入れてみたんです。そうしたら、大輔が『これ、おいしいね』って。それから、卵焼きに入れる専用で切り干し大根を煮るようにしたんですよ……」


 浩子は嬉しそうに笑うと、話し続けて、くるっと大輔を見た。


「大輔、今日のお弁当はちゃんと持って帰ってきたかしら」


「あ、ああ。今日もおいしかったよ」


 大輔は鞄から弁当箱の入った武骨な黒い保冷バッグを出すと、浩子に渡した。


「懐かしい……」


 千里は思わずつぶやいた。その黒い保冷バッグは、高校生の時、千里が大輔と隣町の雑貨屋で買ったもの、そのままだった。


 弁当を受け取った浩子は、嬉しそうに笑って千里に言った。


「ちーちゃんに、これからも大輔と仲良くしてねって伝えてくださいね。大輔はもうちーちゃんにゾッコンで、家でも『ちーちゃんがね』『ちーちゃんがね』って話すんですよ」


「母さん!」


 大輔が慌てたように叫んで、浩子は驚いたように止まると、スイッチが切れたようにぼーっとした視線に戻った。千里は気恥ずかしくなり、うつむく。そんな千里、大輔、浩子のやり取りを見ていた加奈子が口を開いた。


「浩子、あたしとちょっと先に改札出てよう? 大輔くんもちーちゃんのお母さんとちょっと話したいかもしれないよ?」


 大輔は驚いたように加奈子を見た。


「伯母さん、そんな……」


「ほら、大輔くんも息抜きした方がいいわよ! 浩子、行きましょう~」


 加奈子はお弁当を受け取り、またぼんやりとした様子に戻った浩子の手を引いて、改札へ向かうエレベーターの方へ歩いた。


「ありがとうございます」


 大輔は立ち上がって頭を下げると、ベンチに腰掛け、ふーっと息を吐いて学ランの襟元を緩めた。――その様子が高校生の頃そのままだったので、千里は思わず目を瞬いた。




「いや……、高校卒業ぶり? なのに、驚いただろ……、ごめん」


 詫びる大輔に、千里は首を振った。


「ううん、大輔も大変そうだね……。制服着てるのは、びっくりしたけど……」


「そりゃ、びっくりするよな。おじさんが制服着てるんだもん」


 自分が着ている学ランを眺めて、大輔は苦笑した。


「……母さん、制服(コレ)着てないと、俺だってわかんないんだよ……」


「え!?」


「いや、本当に。制服着てないと、俺のこと『知らないおじさん』って言って、家に入れてくれないんだぜ」


「……1日、ずっと制服なの……?」


「まさか」と大輔は肩をすくめた。


「朝起きて、制服で家出るだろ……、で、駅で母さんと別れて、着替えてから仕事行くんだ。母さんは加奈子伯母さんに家に連れて帰ってもらって。で、帰ってきたら、また駅で着替えて、伯母さんに連れてきてもらった母さんと合流するって感じ」


 大輔は言い訳するように頭を掻いた。


「ちゃんと駅員さんには、事情説明してるよ。変質者じゃないですよって。――でも、駅の『制服おじさん』なんてあだ名つけられたりしててさ……、恥ずかしいんだけど、仕方ないよな……」

 

 千里は励ますように大輔の肩をたたいた。


「――制服、似合ってるよ」


「え? そ、そうか?」


「うん。それ、高校の時のだよね? まだ入るのすごいよ。私、自分の着るの絶対無理だもん」


 千里は心底感心した様子でつぶやいた。

 大輔が着ている制服は、古ぼけた生地で、実際に高校時代に着ていたものに違いなかった。

 40歳――、確実に高校生だった時より体重が増え、腰回りも太くなっているのが自分を含め一般的なはずなのに、大輔はぴちぴちになることもなく、学生の頃のようにぴったりと制服を着こなしていた。大輔は少し照れたように髪をかいた。


「いや――痩せたんだよ。最初着たときは、ボタン止まらなくてさ……」


「すごいね。羨ましいよ。どうやって痩せたの?」


「家で、ゲームで……、リング型のフィットネスゲームのやつ……知ってる?」


 リング型の専用コントローラで、画面に合わせて運動するフィットネスゲームだ。

 自宅で手軽に運動できると、千里も気になっていたゲームだった。


「あ、あれ痩せるの? 大輔、昔からゲーム好きだったもんね」


「いや、母さんいるし、ジムとかもいけないからさ……」


 つぶやいてから、大輔は千里を見つめた。

 千里の大きいトランクに視線を向ける。


「俺の話ばっかり悪いな。――千里は、帰省? ずいぶん荷物多いな」


 千里は「あはは」とわざと大きな笑い声を出した。


「それが、“出戻り”っていうの? 実家に戻るの」

 

大輔は瞳を大きく広げた。


「え? 医者の旦那は?」


「――離婚しちゃった――、っていうか、よく知ってるね……?」


 千里は大輔が元夫の職業を知っていたことに驚いて、口をぽかんと開けた。


(高校の卒業式から会ってないけど……)


「いや、高校の時のやつに、千里が医者と結婚したって話は聞いてたから……」


 大輔は誤魔化すように顔の前で手をぱたぱたと振った。


「そいつに『お前と別れて良かったな』って言われたよ。――そうか、千里もいろいろ大変だったんだな……」


 千里は言葉に詰まると、うつむいた。


「『別れて良かったな』って、私のことフッたのは大輔だったじゃない……」


 大輔にフラれたのは、卒業式の日のことだった。

 『3年間、ありがとう。俺は地元を出るから、別れよう』

 それだけ言って、大輔は呆然とする千里を置いて、上京して、行方知れずになってしまった。


「千里と別れたの――俺がやった“一番馬鹿な事”だと思ってるよ」


 大輔はうつむきながらつぶやいた。


「俺さ、高校の時、母さんがウザくて仕方なくて。高校生の息子の弁当持って、毎日駅までついてくるんだぜ? なんか母さんが一生ついてきそうな気がして、母さんに『しっかりちーちゃんを安心させてあげられる就職先見つけなさいね』なんて言われて、嫌になっちゃって。千里は母さんとも仲良かったし。俺の人生勝手に決めるなって思って……、地元のことは全部捨てて出てってやるって気持ちだったから」


 千里は当時を思い出した。大輔の家は小さい頃に離婚したとかで、母一人息子一人の母子家庭だった。朝、駅で大輔に会うと、仕事に行く浩子も一緒に駅にいたことを思い出した。今思えば、確かに、高校生の大輔にとっては、負担を感じるものだったかもしれない。

 

学生服姿の肩が少し震えているような気がした。


「家出てからは、実家にも一度も帰らなかった。トラック運転手やってたんだけど……腰をやっちゃって、仕事辞めて――そしたら、警察から電話があってさ。『お母さんを保護しました』って。行ってみたら、母さん病院に入院させられてて、引き取ろうにも俺のことがわかんないし……『息子は学校に行ってるはずです』とか言うんだぜ」


 大輔は一息ついて顔を上げると笑った。

 無理に口角を上げているように見えた。


「それでダメもとで制服着てみたら、俺のこと認識したっぽくて『おかえり、大輔』ってさ。まじで、顔認証成功! みたいな感じ」


「大変、だったね……」


「まあ、高校出てから一回も家に帰らなかったからさ。母さんの中の俺は、高校時代で止まってたんだろうなあ。――もっと家に帰ったりしてれば、早く気付けたかなとか思うと、なかなかしんどいな……」


 大輔は話しながら目元を手でぬぐった。

 その様子が、先ほど、ホームでまぶたをぬぐった自分と重なり、千里は息ができないような気持ちになった。思わず、大輔の手を取る。


「1人で抱え込まないようにね」


「ああ……、ありがたいことに、加奈子伯母さんが近くに住んでるから、いろいろ面倒見てくれてるし――日中は、俺の勤務先のデイケアも行ってるし……」


「勤務先?」


「俺、今、介護施設の送迎ドライバーやってんの。出勤したら、送迎車でまた母さん迎えに行くんだけどさ。母さん、運転手が俺だってわかんないのね。送迎中、俺に息子の話すんのよ。本人なのに」


 大輔は「ははは」と乾いたような笑い声を漏らした。

 視線は下を向いたまま。歪んだ口元から、声だけが漏れた。


「それが『サッカー部頑張ってて偉い』とか、『しっかりしてて朝自分を起こしてくれる』とか『かわいい彼女がいて嬉しい』とか俺の自慢話ばっかりなわけ。嫌になっちゃうよなあ。施設でもニコニコしてて、評判いいしさ。有り難いけど、嫌になる――罪悪感が、湧いてきちゃって」


「おばさん、いつも褒めてくれる人だったもんね」


 先ほども『礼儀正しいし、しっかりしてるし』と自分に対して言っていた浩子を思い出して、千里はつぶやいた。


 昔から浩子は褒めてくれる人だった。大輔の家に行って靴を脱げば『靴をそろえて偉い』、夕食を食べれば『食べ方が綺麗だ』と。千里の家は両親が仕事でほぼ家におらず、そんなふうに褒められたことはなかったから、大輔の家が居心地よく感じたことを覚えている。


「――制服着てるとさ」


 大輔はベンチに座ったまま頭を抱えてうつむいた。


「なんか、高校生の時に戻ったみたいな気持ちになっちゃって。学校行ったらかわいい彼女がいて、母さんもボケてなくて――でも、家帰って鏡見ると、中年のおっさんが学生服着て、それを高校生の息子だって思いこんでる母さんがいるわけ。人生、うまくいかないよなあ」


 それから、はっとしたように顔を上げた。


「久しぶりなのに、自分語りばっかりでごめんな」


 千里は首を振った。


「――本当、うまくいかないよね。私も『ごめん、やっぱり子どもが欲しかった』って20代の浮気相手と一緒に夫に土下座されて離婚したの。……ドラマかよって感じよね……」


 大輔は目を見開いて、何度か瞬きをして、つぶやいた。


「それは……壮絶だな……」


「でしょ」


 千里は「あはは」と瞳が潤んだまま、声だけ乾いた笑い声を出した。

 それから、つぶやいた。


「――なんか、人間ってどうにもならない状況になると、笑っちゃうよね……」


「それな」


 二人は目を合わせると、ふっと吹き出した。

 今度は、乾いた笑い声ではなく、やわらかな声だった。

 千里は「ふふ」と笑って言った。


「――慰謝料と、家を売ったお金で、実家リフォームするんだ。うちの親も年取ってきたし、バリアフリーで」


「……俺の勤め先、バリアフリー工事のリフォーム業者も出入りしてるから、資料いる?」


「本当? 助かるかも……」


 千里はスマホを出した。


「――連絡先、教えてくれる?」


 高校卒業して大輔と別れてから、ガラケーがスマホになり、何台も機種変更するうちに、大輔の連絡先は消えてしまっていた。


「お、おう……」


 千里がスマホの画面を見せると、大輔は一瞬戸惑うように頬を掻いた。

それから学ランの外ポケットをぽんぽんと叩き、「あ!」と声を上げて、内ポケットを探る。

スマホを取り出すその様子がおかしくて、千里は思わず噴き出した。


「大輔の制服からスマホって、違和感ある~。私たちが高校生の時はガラケーだったもんね」


「そうそう。お前、ストラップじゃらじゃらつけてたよな」


「懐かしい……」


 つぶやきながら、友達登録をした。

 シュポ! という電子音がして、千里の画面にスタンプが表示された。

 「久しぶり」という文字に添えられたキャラクターは、高校時代に千里が携帯電話にたくさんつけていたストラップのキャラクターだった。


「このスタンプ、私の好きなやつだ。よく覚えてたね」


「覚えてるよ。ちーちゃん、これ好きだったから、プレゼントとか買いに俺キャラショップとか行ったし」


「そういえば、そうだね。大輔がくれたキャラもののシャーペン、使いやすくて今も使ってるんだよ」


「マジで? ちーちゃん、物持ち良すぎじゃないか?」


「……そうかな」


 そこで、ふと、千里は大輔が自分のことを、高校時代のように『ちーちゃん』と愛称で呼んでいることに気づいた。


「ちーちゃん? どうかした?」


「――なんだか、昔に戻ったみたいだね」


 学校帰りの駅のホーム。他愛のない雑談。

 タイムスリップしたような気持ちになって、千里は目を閉じる。

 けれど、再び目を開けると、そこに映る自分の手には、40歳という年齢がしっかりと刻まれていた。


「――おばさん、私のことを『私のお母さん』って勘違いしてたよね」


 感慨深くつぶやいた。確かに、今の自分はあの時の自分の親世代の年齢だ。

 ――そこでふと、ある考えに思い立った。


「――私が制服を着たら、おばさんはどう思うのかな。『私のお母さんが制服を着てる』って思うのかな。それとも、私だってわかるのかな」


 大輔はしばらく沈黙してから、大きく首をひねった。


「どうだろうな……? 俺は、制服着てないと『知らないおじさん』って言われるんだ」


「家でもずっと着てるの?」


 大輔はうなずいた。


「それが、家の中だと、学ランの上着羽織ってると、なんとかなるんだ」


「そうなんだ」


「そうそう。俺もギリギリのラインを探してて」


「出かける時は、上着、羽織るだけじゃダメなの?」 


「それが……『制服のズボンも履きなさい』って怒られるんだよ……」


 ほとほと困ったような言い方に、千里は笑ってしまった。


「ごめんね、笑うところじゃないんだけど」


「いや、大丈夫。不思議だよなあ」


 大輔もそう言って笑ってから、じっと千里を見つめて、つぶやいた。


「……ちーちゃんの制服……あり……じゃないかな?」


「え?」


 大輔ははっとするように顔を上げて、ぶんぶんと手を顔の前で振った。


「――いや、母さん、制服ならちーちゃんのこと、ちーちゃんって認識するんじゃないか」


 それから、大輔は千里を見つめた。


「さっきは、ちーちゃんのこと、ちーちゃんのおばさんだって勘違いしてる母さんに話を合わせてくれてありがとう。ちーちゃんのそういう優しいところ、変わってないよな……」


 それから、視線を落として、つぶやいた。


「ちーちゃんと別れるなんて、旦那は馬鹿だよ」


 沈黙が流れる。 リンリンと虫の音がした。気がつけば、夕焼けは沈みかけて、日が暗くなりかけていた。

 大輔ははっとしたように立ち上がると、わしゃわしゃと髪を手でくしゃくしゃにした。


「――あ、ごめん! 母さんと伯母さん待っちゃってるから、行かないと!」


「――こっちこそ、ごめんね、話が長くなっちゃって……」


「ぜんぜん! 久しぶりに話せて楽しかったよ。また、連絡するな!」


 そう言って大輔は手を振って、ばたばたと改札の方へ駆けて行った。

 

「『制服、あり』ってどういうことよ」


 1人でつぶやいてから、千里は吹き出して目元を拭った。

 笑った拍子に涙がにじんだ。

 ――けれど、それは、駅に向かう車内でぬぐった後悔の涙ではなく、温かい涙だった。

 

 しばらくそうしてベンチに座っていると、ホームの照明がぽつりぽつりと灯り出した。


 鞄のポケットで、スマホが小さく震える。

 画面には「大輔」の文字。――メッセージはたった一行。

 

 『母さん、今日はよく笑ってた。ありがとう』

 

 胸の奥がじんわりと熱くなった。

 ホームを吹き抜ける風が、まるで背中を押すように頬を撫でる。

 

 千里はスーツケースの持ち手を握り直し立ち上がった。


「私は制服なんか絶対入らないだろうな。ダイエットしようかな」


 そうつぶやきながら、トランクを引いて前を向いて、改札へ向かう。

 

 実家に帰ったら、部屋の整理をして、制服も探してみよう。

 それから、親とリフォームのプランを話して、ダイエットのプランも考えよう。


 やることは、たくさんある。


 夕暮れのホームで止まっていた時間が、少しだけ動き出した気がした。

 


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