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夜の森は静かだった。
虫の鳴き声すら遠ざかり、ただ風が葉を揺らす音だけが、小さな木造の小屋を包んでいる。
小屋の中心。床に描かれた魔方陣が、うっすらと紫の光を灯していた。
魔女──リゼ・アルフォルドは、肩までの黒髪を耳にかけながら、呪文の最終節を呟いた。
「応えよ。我が声に。我が供物に。我が執念に……この地に顕現せよ、深淵より来たる力の化身よ──!」
彼女の掌に、淡く青い炎が灯る。それが魔方陣へと投げ入れられると、空気が一変した。
ぐわん、と世界が歪むような感覚。
光。風。重力の狂い。周囲の空間が巻き込まれ、何かが──“来る”。
「……!」
リゼは目を細めて見つめた。
──来る、来る。ついに、私の契約の悪魔が……!
光が収まり、そこに“それ”が現れたとき。
「……え?」
「ちょ、どこ……? は? なんで森……? え、まじで今なに? 死んだ??」
そこに立っていたのは、明らかに“深淵の眷属”などではなかった。
金髪に派手な巻き髪。日焼けした肌に、謎の装飾をあしらった服。大きな目と、尖ったシルバーの爪。
魔女は、じっとその存在を見つめた。
それは“魔物”でも“精霊”でも“悪魔”でもない。──なんだこれは?
「……あなた、何?」
「こっちのセリフなんだけど!? てか誰!? 誘拐? やば、え、マジ? 夢??」
少女は狼狽しつつ、周囲を見回した。
辺りには木々。夜の闇。足元には見たこともない図形が描かれた床。異様な香りの蝋燭の煙。
「え、ちょ、あたしホントに死んだ……? でも痛くないし……いや、死んでたらこんな夢見ないか……」
彼女──星川みなみは混乱していた。
直前、彼女は夜の横断歩道を走っていた。スマホを見ながら急いで渡ろうとして、視界の端に迫るトラックのライトを見て──
──気づけばここだった。
リゼは少女の独り言を黙って聞いていた。言葉は辛うじて通じるが、意味がさっぱりわからない。
「“死んだ”? いや、あなたは……どこから来たの?」
「いやこっちが聞きたいんだけど!! あたし、てか星川みなみってゆうんだけど、あんた誰!?」
「……リゼ。リゼ・アルフォルド。魔女です」
「まじ? 魔女? ほんもの? ……え、え? 異世界? 異世界なの? これってあれ?」
彼女は目を丸くしたかと思えば、次の瞬間、ありえない笑顔を浮かべた。
「うっそ、やば、マジであたし異世界転生ならぬ異世界召喚? え、てかチート能力ある? スキル? え、これって絶対バズるやつじゃん!」
リゼはこめかみを押さえた。
──完全に失敗だ。
どこをどう間違えたのか、異界の知的存在どころか、妙な格好をした騒がしい少女を呼び出してしまったらしい。
これは儀式のやり直しどころか、何か別の問題に発展しそうだった。
「……ひとまず、そこに座って。話を整理しましょう」
「さんせーい! てかマジで異世界!? スゴ!」
椅子に座らせたみなみは、足を組みながらニコニコとリゼを見上げていた。
その笑顔は、召喚時の主従契約すら成功していないことがよくわかる。
リゼは深くため息を吐き、小さな机にメモを広げた。
──次の魔女集会まで、あと二週間。
召喚するはずだった悪魔の代わりにやってきたのは、まったく未知の存在だった。