第180話 同僚と上司
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一階に下り、光は再び厨房に顔を出した。
光が奥で何かをやっていると、何人かのパティシエが栄に話しかけてきた。
『僕はコウと同期のニルスです。よろしく、ハル』
ニルスは礼儀正しく、好青年の笑みを浮かべ、栄に挨拶をする。帽子を脱ぐと、クルクルと天使のような金色の髪をしており、思わず触りたくなったが、ぐっと押さえた。続いて声をかけてきた男は、随分と背の高い、高い声をした男だった。男は、しどろもどろに挨拶を始めた。
「ハジメマシテ、ワタシノ、ナマエハ、アラン・ブランシュト、デス」
まるで呪文でも唱えるかのような挨拶に、栄は苦笑したが、「よろしく」と日本語で返す。アランは通じたことが余程嬉しかったのか、顔をくしゃくしゃにし「ヨロシク、オネガイ、シマス」と、更に声を高くして言った。
二人が挨拶を終えると、昨日、光を呼び出してくれた恰幅の良い男が、親しげに近づいてきた。
『やあ、ハル。昨日は挨拶が出来なくて残念だったよ。僕はジョエル・アーバンだ。よろしく』
栄は彼が光の大家だと思い出し、慌てて『いつもコウがお世話になってます。アパルトマンの件やら、色々ありがとう』と言うと、大きな声で笑い『気にしなくていいさ』と、栄の背中を思い切り叩いた。栄は痛さに顔を歪めたが、大笑いしているアーバン氏に合わせ、無理矢理笑顔を作って見せた。
そうこう挨拶をしていると、光が生真面目で、神経質そうな印象を与える男と共に、栄の前に現れた。
「ハル兄、こちらは俺の上司。シェフパティシエのミシェル・カッセルさんだよ」
ミシェル氏は、にこりとも笑わず、頭を軽く傾ける。光と競える程、身体の線が細く、痩けているように見える頬、尖った顎、薄い唇が、妙に冷たさを感じた。更に、人を見下すように横目で見る目つきが、あまり良い印象を与えない。光は栄がそんなことを思っているとも知らず、ミシェル氏に栄を紹介していた。
ミシェル氏は『なるほど。こちらが、コウの尊敬するお兄さんですか』と、妙に籠もった声で言うと、人を吟味するかのように顎に手を当て、栄を上から下までゆっくり見回しだす。
栄は強張った顔でミシェル氏を見つめた。先ほど会ったカッセル氏と、本当に親子なのだろうかと思うほど、似ていない。栄は、拙いフランス語で『コウがお世話になっています』と言うと、光に顔を向け『今、彼は何て?』と訊ねた。栄は益々気に入らないと思ったが、弟のため、じっと我慢をした。
光は幾分、はらはらした表情で、栄とミシェル氏を交互に見る。
光から通訳を受けたミシェル氏は、栄を横目で見て、ゆっくり頷いた。
栄は臆することを止め、ミシェル氏に質問をした。
『弟の仕事ぶりはどうですか?ご迷惑は、掛けていませんか?』
心なしか喧嘩を売るようなぶっきらぼうな口調で言った。どうせまた光に通訳させるんだろ、と思ったので、綺麗な発音など気にしなかった。
しかし、ミシェル氏は光を通さず、栄の質問に答えた。
『まだまだ駄目だね』
冷たく、はっきりと言い切った。
栄はその言葉に、顔が引き攣った。だが、ミシェル氏の言葉には続きがあった。
『だが、コウは素晴らしいパティシエになるだろ。これからもっと多くのことを学んで、技術を磨けば、一流のパティシエになれる可能性が大いにある。コウの手先の器用さと勘の良さは、持って生まれた才能だ。今はまだ、仕事が雑になることが希にある。勘にも波がある。確立した物にするには、誰でも時間がかかる物だ』
栄は少々拍子抜けをした表情でミシェル氏を見た。ミシェル氏は、相変わらず顎に手を当て、斜め目線で栄を見ていたが、光の話をし出したミシェル氏の瞳は、幾分、柔らかさを感じた。
栄は数回瞬きをすると、我に返ったように「そうですか。ありがとう。これからも、よろしくお願いします」と日本語で返していた。ミシェル氏が光を見て、通訳を求める。
光が通訳をすると、ゆっくり頷いた。
その時、ミシェル氏は微かに笑みを浮かべた。気がした。栄は、強張った顔を崩し、微笑み返したが、ちゃんと笑えていたかどうか定かではない。
ミシェル氏が仕事に戻ると、光は栄を促し、外に出ようとした。
『コウ』と、呼び止められ振り向くと、ニルスが何か手に持って近づいてきた。
『これ、忘れてるよ。これを取りに来たんだろ?何、緊張してるんだよ』
ニルスは光に箱の入った袋を手渡した。
『あ、ごめん。ありがと。ミシェルさんに兄さんを紹介するので、頭一杯になってた』
『しっかりしろよ。あ、あと、さっきジョエルさんが、店に寄れって言ってた』
『分かった』
『じゃあ、明日な』
『うん。ありがとう』
ニルスは光に手を振ると、栄に人懐っこい笑顔を見せ、厨房の中に戻っていった。
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