39、とにかく全部が、可愛い④
パチっ…と薪がはぜる音が、静寂に響く。もらったばかりの衣服の裾を軽く握り、イリッツァは小さく息を吸った。
「最初に――ヴィーに、謝っておく」
「?」
「本当は、もう少し早く謝るべきだったのかもしれないけれど――」
ぎゅっと拳に力を籠めるイリッツァを見て、カルヴァンは眉を顰める。
「間男がいる、とか言う話なら聞きたくないぞ」
「そんなわけあるか…!真面目に聞け、馬鹿」
いつになく真剣なイリッツァに軽口を叩くも、ぴしゃりと言われて閉口する。どうやら、そういう雰囲気ではないらしい。
イリッツァはその大きな薄青の瞳を閉じて、一つ深呼吸をした後、ゆっくりと瞼を押し上げた。
「カルヴァン。――十六年前の今日、何も言わずにお前を独りにして、ごめん」
「――――」
「俺も、十六年、色々な後悔をして生きてきたけれど――お前の比ではなかったと思う。…俺以外の誰の手も取らないって言っていたお前の前から俺が消えたら、お前はもう、誰の手も取れない。あの、暗くて寒い孤独の闇に、お前を独りで、十五年も置き去りにしたんだと思うと――胸が、痛い。…もし、の世界はないから、あの時何をしてたら、とかは考えても仕方ないけど…それでも、やっぱり、お前を置いて――それも、これ以上ないトラウマを植え付ける死に方で――遺言も何もなく、勝手に消えたことは、謝っておきたいと思ってた。ごめんな」
「――――――…」
カルヴァンは、いつもの軽口を吐くでもなく、人を食ったような表情すら押し込めて、軽く左耳を掻いてから視線を伏せた。
「イリッツァ・オームになってから、初めて記憶が戻った時――最初にしたのは、ヴィーの行方を知ることだった。絶対苦労すると思ったんだ。お前は――もう、この国にはいないと思っていたから」
「…なるほど」
「でも、調べたらすぐにわかった。お前は、その時もう王国騎士団長になっていて、当時場所によっては既に結界にほころびが出始めていた箇所への遠征任務で忙しくて、国民に顔をこれ以上なく売っていた。正義の諫言とか言われる事件について聞いたときは、絶対ヴィーじゃない同姓同名の別人だと思ったけど――でも、お前の武勇伝を聞けば聞くほど、絶対にお前だって確信した」
「………」
「まず最初に浮かんだのは――安堵だ。お前が、まだ――生きて、いる」
イリッツァは、当時の記憶と感情を思い起こしながら、そっと己の胸に手を当てた。
エルム教において、誰とも手を取らない人間は、生に執着しないとされている。そもそもが、自分にも他人にも興味のなかったカルヴァンだ。きっと、唯一現世にとどまる理由となっていたであろうリツィードを喪って――それでもまだ、生きていてくれることに、心から安堵した。
「すごく嬉しかった。お前のことだから、俺以外からの諫める言葉なんか聞かないだろう。適当に、その日の気分に合わせて、善も悪もなく、好き勝手に生きると思ってた。規律の厳しい兵団なんかすぐやめると思っていたし、お前が大嫌いなエルム教がはびこるこの国に未練なんかないだろう。きっと、その日吹く風に任せて、金と女とを求めて適当に流離うんだろうなと思っていた」
「…そうできたら、どんなに楽だっただろうな」
ポツリ、と嘆息とともにつぶやくカルヴァンの声は、平坦に響いた。
「だから――最初は、すごく嬉しかったけど、すぐに気づいた。お前が、無理して国に留まってくれていることに」
イリッツァは、微かに眉根を寄せて、瞳を伏せる。
「騎士団には信仰心を試す試験もあるから、何でお前が騎士になんかなれたのか、本当にわからなかった。鬼神とか言われて、片っ端から魔物を屠っているのも、英雄とか言われて国を守っているのも、女嫌いとか言われて人を寄せ付けないと言われているのも、昔のお前を知っている俺からすると、本当に意味不明だったけど――でも、何故そんなことになったのか、理由はわからなくても、きっかけは思いつく。…俺が死んだせいなんだろうな、って思った」
あの神様嫌いが、心を入れ替えて信仰心を持つようになるなど――女遊びを止めて、自分のことしか考えていなかった男が国家のために働くなどと、そんな異常事態が起きるような出来事があるとすれば。
それは間違いなく、自分の死が原因だっただろう。
「お前がどれだけ自由を愛しているか、それはよく知ってる。そのお前が、自分から、不自由を選んで、十五年も生きてくれた。――ありがとう。お前のおかげで、俺の、死ぬ前に願った最期の願いの一つは、ちゃんと、叶った。俺の大事な国民を、魔の脅威から守ってくれて、不安と恐怖から救ってくれて、本当にありがとう」
「……礼を言われる筋合いはない。それくらいしか、生きる意味が見いだせなかっただけだ。出来ることなら、どこかでさっさと死にたいと思って、遠征を繰り返していただけだしな」
左耳を掻いて、瞳を伏せてつぶやくカルヴァンに、イリッツァは少しだけ痛まし気な表情をした。
パチリ…と薪がはぜる音が室内に響く。ふと、カルヴァンが瞳をあげてイリッツァを見た。
「――他の、願いは」
「?」
「今、国民を守るっていうのは、願いの一つだったと言っただろう。――他にも、あったのか?」
軽く首をかしげて尋ねられ、ふわり、と表情が緩む。
「うん。――でも、それも、お前が叶えてくれたよ」
「…?」
「もう一回だけ、ヴィーに会いたい。――それが、俺が願った、もう一つの願いだ」
ぱちぱち、とカルヴァンが虚を突かれたように軽く目を瞬く。
「国民を守りたいっていうのは、聖人としての願いだった。――もう一つの方は、"リツィード・ガエル"としての、すごく個人的な、ただの我が儘だ」
「――――…」
「イリッツァになって、性別も外見も年齢も全部が昔と変わって…お前が住んでいる王都には、俺としてもトラウマを刺激されるから行きたくはなかったし、かといってナイードには俺の張った結界があるから騎士団の遠征は永遠に来ない。そのためだけに、結界を張らない、なんて選択は当たり前だけど出来なかったしな。だから――正直、ずっと、お前ともう一回会うのは無理だろうって思ってた。聖人なのに、『人』としての個人的な願望を願った罰なのかな、とか思ってた」
「…お前は、本当にその自罰的な思考をどうにかしろ。どれだけの重罪人なんだ、お前は」
カルヴァンは呆れた顔で呻く。聖人と名乗り出られなかったことも罰、死に際に個人的な願いを想い描いたことすらも罰。――どうして、聖人だけがそんなにも差別されなければならないのか。
しかしイリッツァは、はは、と吐息で笑ってからカルヴァンを見る。
昔よりも、随分と精悍な顔つきのそれは、それでも確かに昔の面影を残している。
「俺に向かって、そんなことを言うのは、昔からお前だけだな。――皆、褒めてくれるのに」
「俺に言わせれば、周りの連中が狂ってるんだ。意味が分からん」
「でも、嫌じゃないんだ。――お前が、そうして俺を『人』にしてくれた。きっと、お前に出逢わなかったら、いつまでも抜け殻みたいな人生だった」
そして、ふ、と苦笑を漏らす。
「だから、最期の最期に、俺はちゃんと、願えた。――お前に会いたい、って、何よりも強く、願うことが出来た」
「――…」
「その結果が、この転生で――色々あったけど、奇跡みたいな偶然が重なって、今がある。…まさか、お前と偶然再会する奇跡はあるかもとは思ってたけど、俺がリツィードだと信じてもらえるとは、さすがに思ってなかったよ」
「…俺も、そんな荒唐無稽な話を信じることになるとは思わなかった」
呆れたように言うカルヴァンに、イリッツァは優しく瞳を緩める。
「ずっと、俺にとって、今日という日は、後悔と贖罪の日だった。我が儘なんか言わなければよかった、どうせ二度と会えないのなら、転生なんかせずあのまま死んでいたらよかった――そんなことを考えながら、それでもどっかで、奇跡が起きてお前と会えるんじゃないかといつまでも諦めきれない自分がいて、本当に嫌になる、一日だった。どうにも、死んだときの記憶は嫌なものだったし」
「………」
「でも、今日は初めて――あの時、わがままを言ってよかった、って思えたんだ。…はは、そんなこと思ったの、人生で初めてだ」
吐息を漏らすように笑ったイリッツァを前に、カルヴァンは一つ左耳を掻いてから、そっと大きな手を伸ばす。柔らかな絹のような手触りの銀髪に触れると、幼子をあやすように優しく小さな頭を撫でられた。
雪国の空を映し込んだようなその瞳には、確かな愛情が宿っていた。
愛の種類はわからない。恋愛なのか、友愛なのか――両方、なのか。
ただただ「愛しい」という感情だけが込められたその瞳を前に、ふ…とイリッツァは心の奥底が緩むのを感じた。
(あぁ――今なら、言える気がする)
愛し気に頭を撫でてくれる手に、己の手を重ねて、イリッツァはするりと自然に零れ落ちる気持ちに蓋をすることなく、言葉を音に乗せた。
「ヴィー。――大好きだよ」
「――――――――――――――」
ぴたっ…とカルヴァンが硬直した。瞬きすら忘れたように、体の細部まで、全身を硬直させる。
そんな婚約者の反応に、微かに苦笑しながら、イリッツァは言葉を重ねる。
「今日だけ、な。十六年前の奇跡にあやかって、一年で一日――この日だけ、我が儘も、個人的感情も、素直に言ってもいい日にする。正直、やっぱり少し神罰は怖いけど――でも、きっと、何が起きても、ヴィーがまた、守ってくれると思うから」
今生で、イリッツァは何が起きても不幸にならない――
なぜなら、カルヴァンが、何があっても守るから。
そう言ってくれた言葉が、イリッツァの背中を押した。
きっと、今、再び十六年前のあの日に戻り、謎の声に同じ問いかけをされたとしても――同じ願いを持つだろう。
それが罪だと言われても、神の教えに逆らう万死に値する行いだと言われても。
きっと自分は、何百回だって、同じ過ちを繰り返す。
「ずっと、ずっと、ヴィーに、会いたくてたまらなかった。あの日、ナイードに来てくれて、ありがとう。お前の矜持を曲げてでも、俺の話を信じてくれて、ありがとう。俺は、女っぽくないし素直じゃないし、八つ当たりもお預けも平気でするし、何を言われても剣の鍛錬はやめられないし、自罰的な思い込みも激しくて、きっと何でも思い通りにしたいお前の性格からすれば、全く思い通りにならない面倒な女だけど――それでも毎日、飽きずにうんざりするくらい、愛を伝えてくれてありがとう」
ふ、とほほ笑んで、来年の今日には正式な伴侶となる男を見つめた。
「大好きだよ。男としても、女としても。――どっちの意味でも、ヴィーのことを、世界で一番、愛してる」
「――――――っ…」
ぐっと一瞬、見つめていた美丈夫の顔が歪んだかと思うと――
「わっ…」
ぎゅっと身体ごと抱きすくめられ、驚きに息が詰まる。
「ちょ――ヴぃ、ヴィー…?」
「………っ…」
何も言わないまま、渾身の力で抱きしめられ、困惑した声を上げるが、それでもカルヴァンは小さく息を詰めるような音を発しただけで、無言のままだった。
代わりに、ぎゅぅっとさらに力がこもる。
「痛い痛い痛い、力強すぎるって」
ぽんぽん、と相手の二の腕を軽く叩いて主張すると、ふっと一瞬力が弱まり――再び、ぎゅっと抱きしめられた。
「――…ヴィー…?」
予想と異なる反応に、イリッツァはやや困惑する。抱きしめられた体勢のまま、己の右手を視線だけで見下ろした。
「……俺、いつでも光魔法出せるように準備してたんだけど」
「うるさい黙れ。少しくらい浸らせろ」
軽口に少しむっとした声が帰ってきて、はは、と笑い声が漏れる。いつものカルヴァンらしさの欠片を見つけて、イリッツァは安堵した。
こちらからキスしただけで、ねっとりとしたキスをこちらの了承も得ずに行う男だ。初めてイリッツァが嫉妬したときだって、無理矢理襲い掛かろうとしてきた。
この一年、何度も何度も嫌味のように言われ続けてきた願いを叶えてやったら、きっと、また、こちらの制止も聞かずに襲われると思っていたのに。
「――今キスなんかしたら、絶対に止まれない」
「…いや、だから魔法を――」
「魔法でも止まれるか怪しい、って言ってるんだ」
「――――――――…そ…それは、困る…」
ぞっとした声を出して、素直にカルヴァンに抱きしめられるにとどめる。聖女の魔法が効かないなんてそんな馬鹿な、と思いたいが、過去、実際に効かなかったことがある以上、楽観視など出来なかった。
「今、必死にいろんな衝動と戦ってるんだ。少し待て」
「ぅ……」
「お前は本当に、いつも予測もつかない角度から俺を翻弄してくるな…」
「…え。嘘。…お前、いつも余裕綽々って感じじゃん」
「阿呆。んなわけあるか。振り回されっぱなしだ」
嘆息するように呻いてから、さら、と銀髪を優しく撫でて、耳元に軽く唇を落とす。
「俺も、愛してる、ツィー」
「っ…ぅ、うん」
「何だ、だいぶ固いな。お前から言って来たんだろう」
くっと喉の奥で小さく笑う音がして、いつものように揶揄の言葉が飛んだ。頬を染めて羞恥を逃がしながら、いつものカルヴァンに戻ってきたことにほっとする。
悪童さながらの性格の悪さで、女の敵で、下半身の屑っぷりは間違いなく王都一だと信じているが――それでも、いつもの彼が、一番いい。
「…ツィー」
「ぅん?」
「お前、拾われた時、実は一歳だったってことはないのか」
「――は…?」
しばしの沈黙ののち、いきなり訳の分からない話を切り出され、ぽかん、と口を開いて間抜けな顔でカルヴァンを見る。
今年三十一になる男は、至極真剣な顔で、イリッツァに切り出した。
「拾われたってことは、正確な誕生日が分かってるわけじゃないんだろう。じゃあ、実は拾われた時点で一歳だった可能性も――」
「は…え?お前、何言っ――」
「そうしたら、今日が十七の誕生日だ。――何の問題もなくなる」
「――――――!!!???」
にやり、といつもの悪童の笑みで笑いながらぐっと強く腰を抱き寄せられて目を白黒させる。
「な、何言っ――馬鹿!!!あるわけねぇだろそんなこと!!!」
「そうか?一年なんて、誤差だろう、誤差。可能性は否定できない」
「出来るに決まってるだろ!!!零歳児と一歳児で間違うか、阿呆!幼少期の月齢成長の速度舐めんなよ!!!?」
「そうなのか?俺は子作りは好きだがガキは好かんからそのあたりはよくわからん」
「ふ、ふざけっ――ちょ、オイ!!!腰を引き寄せるな!!!あ、当たっ…当たってんぞ、馬鹿!!!!」
「当ててるんだ」
「なお悪いわド阿呆ーーーーーー!!!!!!」
すっかり調子を取り戻したカルヴァンが長いスカートの裾から手を入れてこようとするのを必死に抑え、渾身の叫びを放つ。ニヤニヤと笑うカルヴァンは、全く意に介してなどいないようだ。
「なんで一年で一日とか、ケチくさいこと言ってるんだ。明日も明後日もその次も、毎日飽きるほど言えばいい」
「い、言うわけねーだろ、阿呆っ!!!」
「どうせお前、外では言ってくれないんだろう」
「あっ…当たり前だ!」
「来年は結婚式で、その次からは毎年祭だぞ。朝早くから夜遅くまで、一緒にいられないことが確定している一日をわざわざ指定しなくてもいいだろう。明日にしろ、せめて。毎年絶対何があっても休みをもぎ取る。一日中ベッドで過ごす」
「なんでベッド限定!!!?」
「別の場所がいいのか?まぁそれも確かに悪くはな――」
「そういう話から離れろド阿呆!!!!」
どこまでも下ネタを繰り広げるカルヴァンに、ベシッと灰掛かった藍色の頭を軽くはたいて怒鳴る。
「あーもう、寝る!寝るぞ!!!おやすみ、ヴィー!」
鍛えられた屈強な体を押しのけ、シーツを翻してさっさといつもの定位置に横になる。くっと片頬を歪めて笑った後、明かりを消してカルヴァンもするりといつもの定位置にすべり込んだ。
「ツィー」
怒ったように背を向けた体をいつものように優しく抱き込みながら、耳元にささやく。
「な、何だよ!いい加減に――」
「――――愛してる」
ちゅ、と銀髪に唇を落としながら囁くと、イリッツァは一瞬息を詰めてびくりと震えた。
「…ぅ…うん…」
「違うだろ。今日だけは、言ってくれるんじゃなかったのか」
「ぅ…ええぇぇぇ…そーゆうこと言うか?お前…」
「言う。眠りに落ちるギリギリまで、権利を行使するぞ、俺は」
サラリ、と銀髪を撫でながら言うと、呆れたような嘆息が聞こえ、くるり、と腕の中で少女が回転して向きを変えた。
こつん、といつものように胸板に額を預けるようにして、恥ずかしそうに言葉を紡ぐ。
「――俺も、大好きだよ」
「愛してる?」
「ぅ…愛、してる…」
耳まで真っ赤に染め上げながらも、か細い声で素直にリピートしてくれた婚約者に、愛しい気持ちがあふれ出す。
ぎゅっともう一度抱きしめて、甘い香りのする柔らかなその身体を堪能しながら、カルヴァンは奇跡のような偶然の重なりの上に実現したこの日常の、これ以上ない幸せをかみしめる。
あぁ――やっぱり、今日も。
――俺の嫁が、最高に可愛い。
連載期間の約一か月、お付き合いいただきありがとうございました!まったり不定期更新にお付き合いいただいた皆様、本当に感謝です…
この二人にまつわる小ネタのストーリーは、実はまだ頭にいくつかあるのですが、新作にも取り掛かりたいなと思っているので、いったんここで完結とさせていただきます。
何かの折に、思い出したように頭にある小ネタor他の番外編を世に放出する可能性もありますが…予定は未定…
新作投稿はGW中に開始したいなと思っています。(あくまで願望)
短編ではなく連載の予定です。今のところ、『聖女転生物語』(本編)よりもちょっと…いやかなりビターな展開になりそうなので、ぜひこのお話で糖度をしっかり堪能してから、口直し的に見に来てやってください。
何はともあれ、ここまでお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました!
※感想、レビューなどいただけましたら幸いです。泣いて喜びます。何卒よろしくお願いいたします。




