31、素直じゃなくても、可愛い⑭
イリッツァの言葉が響いた後――たっぷりと時間をおいて、静かにカルヴァンが口を開いた。
「…なるほど。少し、予想の斜め上だった」
「その割には驚いてないように見えるけど――」
「魔法の残滓が残ってる。相変わらずこれは、本当に気分が悪いな」
微かに目を眇める様子からは、残滓という言葉の通り、既に効果が切れかかっていることが分かる。妙に冷静なのは、そのせいかもしれないと思いながらも、カルヴァンがあっさりと受け入れたことで、イリッツァの胸の中には小さなさざ波が生まれていた。
(なんで――自分で言い出した、ことだろ…)
「…まぁ、色々と言いたいことはあるが、その前に明らかにしておきたい。友人に戻るとお前は簡単に言うが、具体的にどういう関係を想像している?」
「え…いや…ぐ、具体的…って…?」
「神殿に籠るわけじゃないんだろう。リツィードのときのような関係と言われても――例えば、家はどうする。一緒に暮らすのか?あの頃は同室だったが」
「あ、そ、そういうこと…えっと…」
予想外に建設的な話し合いになっていることに、さざめく胸中を悟られぬよう意識から締め出して、イリッツァは考える。カルヴァンは、強行軍の疲労を思い出したのか、ため息を吐いて寝台に再び腰かけた。
「い、一緒に暮らせたら、いいなとは思う。どういう風に周りを納得させるのかまでは考えてないんだけど――毎日お前に会いたい、っていうのは、リツィードの時から、変わらない」
「ふぅん」
「も、もちろん、寝台とかは別にする。何なら、寝室を分けてもいい。でも――おはようとおやすみは、毎日顔を見て言いたい」
「なるほど…?」
「それから――呼ぶときは、やっぱり、『ツィー』って呼んでほしい」
「ふっ…リツィード、じゃダメなのか。――随分、お前にばかり利のある条件だな」
鼻で嗤うように嫌味を言われて、かぁっと頬が染まる。
確かに、リツィードだった時代は、寝る前の挨拶以外で呼ばれることなどほとんどなく、今のように日常生活の中で当たり前に『ツィー』などと呼ばれていなかった。自分から当時の関係に戻りたい、と伝えておいて、都合のいいところだけは今の関係性をつづけたいという主張を指摘されれば、イリッツァは反論など出来るはずもなかった。
「っ…お前、が、嫌なら――無理に、とは言わない」
「ほぅ…?」
「俺に都合がいいことばっかり言ってるのは、理解してる。でも――俺はもう、お前に、何も返すことが、出来ないから…」
ふ、と心に暗い影が落ちる。
――昔から、だ。
リツィードの時代から、ずっと隣にいてくれるカルヴァンにただただ甘えるばかりで――結局、いつだって、何一つ彼の利になるような物を返すことは出来ない。
女好きのカルヴァンに唯一返せるものだったかもしれない"女"としての価値は、たった今、自分から取り上げたばかりだ。
「俺にだけ都合が良くてずるい、何か罰を――っていうなら、大人しく神殿に籠る。そもそも、聖女って言うのはそういうもんだ。今が、イレギュラーすぎる。別に俺は――」
「俺はエルム教徒じゃないから、罰だのなんだのに興味はない」
ぴしゃり、と聖職者モードになって孤独と不幸に邁進しようとし始めたイリッツァの言葉を遮る。ぐっとイリッツァは口を閉ざして言葉を飲み込んだ。
カルヴァンは軽く左耳を掻いてから、嘆息とともに口を開く。
「お前の罰に興味はない。――俺にとっての利を話せ、と言っている」
「え――…」
「交渉っていうのはそういうもんだろう。お前と友人関係になることで享受できる利が魅力的なら、お前が今挙げた条件も飲んでやる。同居も、挨拶も、呼び名も。積極的にやってやろう」
「あ――…えっと――…」
ぱちぱち、と薄青の瞳が瞬いて頭をめぐらす。
もっと頭ごなしに反対されると思っていたのに、ここまで建設的な話し合いが出来ているのだ。不幸に酔って、孤独に進んでばかりではいけないのだろう。歩み寄る姿勢を見せてくれている彼に、何が何でも、何かしらの利を示さないといけない。
「――お、女の子と、遊び放題だ」
「……なるほど…?」
「好きな子と、好きな時に、好きな気分で遊べる。手が綺麗な子でも、足が綺麗な子でも、髪が綺麗な子でも――キスや肌の相性がいい女の子でも」
「――――――?」
カルヴァンの眉が顰められ、怪訝な顔でイリッツァを眺める。やたらと具体的な例に、違和感を覚えたのだろう。
イリッツァはその視線の居心地の悪さから逃れるように咄嗟に視線を逸らし、早口で言い切った。
「昔みたいにたくさんの女の子と同時進行してもいいし、成人したんだから、花売りを買ってもいい。責めるような奴はいないし、誓いを立ててないんだから、神罰が下ることもない」
「――――責める…か」
カルヴァンは、口の中で何かをつぶやき、ふっと視線を落として一点を見つめる。
(利を…計算してる?)
ドキドキとカルヴァンの出方をうかがっていると、ゆっくりとカルヴァンの雪空がイリッツァを見上げた。
「じゃあ、俺が結婚するのはどうなる」
「え――――」
「お前と結婚するなら、お前以上に特別な奴は作らないと――お前以外の女を、女として愛さないと約束したわけだが――リツィードとカルヴァンの関係になるなら、結婚相手まで縛られる義理はないだろう」
「ぁ――――」
「こう見えて、意外といい年して独身って言うのはこの国では肩身が狭くてな。中途半端に名前が売れてるせいで、誰もかれもが人の結婚に興味津々だ。お前と結婚できるなら、聖女と英雄の結婚として、誰も文句など言わないだろうと思っていたが、別れるなら、お前と再会する前と同じ問題が勃発する。さすがにあの王女と結婚する羽目になるのは勘弁してほしいが、まぁ、誰かと結婚せざるを得なくなる可能性だってある」
ドクン…と胸が一つ不穏な音を立てた。
「お前と婚約しているっていう状態は、不用意に遊べないという面があるのは事実だが、逆に言えば、体のいい面倒な女除けにもなっていたのもまた事実だ。それがなくなれば、当然俺の地位や権力に群がる女どもが、またやってくる。結婚なんて話になれば当然お前と同居何て言うのは難しい」
「……ぅ…」
「それに――まぁ、もしかしたら、本気で惚れるような相手が出てくる可能性だって、ゼロじゃないしな」
「――――っ!」
ひゅ――と、イリッツァの喉が変な音を立てた。
しん…と一瞬、沈黙が下りる。
カルヴァンは、左耳を掻きながら飄々と言葉をつづけた。
「昔どこかで言った気がするが、俺が結婚なんてしたくないと思っていたのは、毎日会っても、毎日抱いても飽きないような女なんていないと思っていたからだ。お前は中身はリツィードだから、毎日会って飽きることはないだろうし、外見もタイプだからな。抱き飽きるってこともないだろうと思っていたから、結婚してもいいかと思ったわけだが――よく考えたら、お前、今生では孤児なんだろう」
「ぇ――う、うん…」
「ってことは、この世の中に、お前の生みの親とか親族って言うのが存在しているわけだ。――俺の好みのど真ん中になる遺伝子を持った人間が、どこかにいる可能性があるわけだろう。っていうか、ナイードに先代聖女の親族がいるなら――あぁ。そう考えると夢が広がるな。もしかして、あのあたりなら結構生まれ得る遺伝子配列なのか?…あぁ、あの時、もう少しナイードに滞在しておくべきだった。盲点だったな」
くっと喉を鳴らして片頬を上げるカルヴァンは、だいぶ魔法の効果が薄れているらしい。見知った女好きの悪童さながらの表情にイリッツァは息を詰めた。
「少なくともお前の外見は女としてすごくタイプなんだと何度も口酸っぱく伝えているだろう。その女を公然と抱けなくなるんだぞ。――他の女をいくらでも抱いていいから、なんて言われても、メリットとデメリットが釣り合わない」
「っ……!」
「お前を失っても、お前と同じような女を抱けるんだとなれば、まぁ考えてやってもいいかとなるが――そうすると、当然、結婚っていうのが視野に入ってくるだろう。毎日抱いても絶対に飽きない女なんだからな」
イリッツァはサッと顔を青ざめさせ――そっと、カルヴァンに手を伸ばした。
「――――…何の真似だ…?」
「っ――……!」
ぎゅ…とカルヴァンの服の裾を掴んで俯いたイリッツァに、カルヴァンは冷静に問いかける。イリッツァは、答えを紡げぬまま、さらに衣服に皺を強く刻み込んだ。
「ツィー。――言わなきゃ、わからない。それは、どういう意味だ?」
「っ……」
ぎゅぅぅぅっ…とこれ以上なく握力を込めながら、イリッツァは言葉の代わりに震える吐息を吐き出した。カルヴァンは、そのままじっとイリッツァの言葉を待つ。
「――結婚…は、ダメだ…」
「ほう…?なんでだ。お前と友人関係に戻るメリットは、俺の、女関係の欲求を満たせることなんだろう?」
「っ…け、結婚はっ…し、神罰が――」
「くだらないな。毎日抱いても抱き飽きない女だぞ。そもそも、浮気なんかしない」
「――――っ…!」
ぐぃっ…
イリッツァはうつむいたまま、つかんだカルヴァンの服の裾を引っ張る。ふ、とカルヴァンの口の端に笑みが浮かんだ。
「なんだ。――言いたいことがあるならはっきり言え」
「っ、ぅ…」
服を握りしめる拳は、既に真っ白になっている。今にも泣きそうな顔になっているのを自覚しながら、イリッツァはうつむいて震える吐息を堪えた。
沈黙すら楽しむようにカルヴァンが辛抱強く待てるのは、イリッツァが紡ぎたい言葉を察しているからだろう。どこか愉快そうな光をその灰褐色の瞳に宿していることを、うつむいたままのイリッツァは知ることが出来ない。
「そ…それ…なら…」
「ぅん…?」
「浮気、しなくて…外見が、俺みたいなのがいいなら――俺で、いいだろ――!」
「――そうだな。俺もそう思う」
どこまでも素直になれない婚約者の言葉に、堪え切れないようにふっと吐息で笑いを漏らして、カルヴァンはそっとイリッツァの腕を取り、己の腕の中へと導いた。
抵抗することもなく、頽れるように腕の中に納まった少女をしっかりと抱きしめて、離れていた数日の間ずっと恋しくてたまらなかった白銀の手触りを確かめる。
(あぁ――やっぱり、最高だ)
ふわりと鼻腔をくすぐる甘い匂いも。すっぽり収まる抱き心地の良い身体も。
何より、この腕の中に閉じ込めた時の――今、ここに、愛しい存在が確かにいるのだと実感できる、形容し難い心からの安堵の感情も。
何もかも――どんな存在も、彼女には代替できないと悟る。
「で?――俺には、お前が、どうにもさっきから本音を言っているようには聞こえないんだが」
「っ……!」
「リアムやランディアはごまかせたか知らないが――まさか、俺まで欺けると思ったのか?何年の付き合いだと思ってる」
へにょ、とイリッツァの眉が下がる。
カルヴァンは、最初から見抜いていた。
結婚式での誓いが破られて神罰が下ることを恐れている、などと――そんなものは、彼女がこんなことを言い出した真の理由ではないことを。
「俺は、お前と結婚するなら、浮気なんかしない。その代り、毎晩抱くかもしれないが、それは我慢しろ。――で?本当は、何が問題なんだ?」
「ぅ……い…言え、ない…!」
「ほう…?それはますます言わせたくなるな」
くっとカルヴァンは面白そうに喉の奥で嗤う。完全に魔法の効力は抜けているようだ。
さらり、と銀髪を撫でるようにして甘やかすと、イリッツァはビクッと体を刎ねさせ、慌てて抵抗する。
「だ、ダメだっ…」
「?――なんでだ。いいだろう。何日お預けされたと思ってる。いい加減限界だ。好きなだけ触らせろ」
パッと手を振り払うように押しのけられ、むっとした不機嫌を隠さぬ表情で抗議するも、イリッツァは困った顔で涙目になりながら、必死に言い募る。
「だ、ダメだっ…と、友達に、戻るっ…!」
「まだ言ってるのか、お前。懲りない奴だな」
あまりの強情さに、呆れたため息が漏れる。素直じゃないにもほどがあるだろう。
「と、友達、なんだからっ…こういうのもっ…き、キスも、ハグも、ダメだっ…」
「ほう…?」
(こいつは、また俺を怒らせたいのか?)
抱きしめられている腕から逃れるように身じろぎをして主張する少女に、頬が引くつくのを感じる。
「お、お願いだ、ヴィー…っ…俺っ…俺、もうっ…無理なんだ…!」
「――――…」
青い顔で、涙を浮かべて。
懇願するイリッツァは、どこまでも本気だった。
「――無理、か。…なるほど。いつの間にか、俺は随分と嫌われていたらしい」
「ちっ…違う!」
灰褐色を眇めて苦く自嘲したカルヴァンを、慌てて否定する。
「嫌いになんてなってない!っ…そんなの、あるわけ無いだろ馬鹿っ!!」
「そうか?まぁ、俺は元々お前とは価値観が決定的に合わないからな。愛想を尽かされたとしても――」
「あり得ない!!!これ以上しつこいと怒るぞ馬鹿っっっ!!!」
「――もう怒ってるだろ…」
泣きそうな顔で怒鳴ったイリッツァに左耳を掻きながら呆れた声を返す。イリッツァは憤慨したままキッとカルヴァンを睨むように見やった。
価値観が徹底的に合わないのは事実だ。信仰も、恋愛観も、人生観も、何もかもが決定的に違う。
それでも、二十五年――子供みたいな喧嘩をしようが、死に別れようが、どんな事があろうともずっと一緒にいたいと思うこの気持ちに、もはや理由などない。
カルヴァンがイリッツァを嫌うことなどないと断言出来るように、イリッツァもまた、そんなことはあり得ないと断言出来るのだ。
「っ…ヴィーは、何も悪くないっ…俺の、問題なんだ…ごめん…」
「ならその問題というやつを聞かせろ。納得出来るわけないだろう」
「っ…そ…それは――」
イリッツァは下唇を小さく噛んだまま言葉に詰まった。しん…と部屋に何度目かの沈黙が下りる。
何度か、迷うように薄く桜色の唇が開き――そのたびに、きゅっと口元を引き締めては言葉とともに気持ちも飲み込んでしまう。そんな様子をしばらく眺めていたカルヴァンは、いつまでたっても進捗しない状況に、重たい嘆息を漏らした。
「――わかった。もういい。埒が明かない」
「っ…」
「理由は言えないが、もうそれはお前の中では決定事項で、覆しようのないことなんだ、ということだな?」
「っ――――…」
きゅぅっとイリッツァの眉が痛まし気に寄せられ――そっと、ゆっくり、小さな頭が頷いた。
言葉などなくても、相手が言いたいことはなんとなくわかる。イリッツァの無言の主張を確かに受け止めたカルヴァンは、小さく揺れた薄青の瞳をしばし眺めていた。
じっと見つめられていることに気づいていないわけでもないだろうにいつまでも交わらない視線に、ふ、と相手に気づかれないほどに小さく嘆息すると、カルヴァンも軽く瞼を伏せて一点を見つめる。
「――それにしても、唐突過ぎないか?」
「ぇ…?」
「今この瞬間からキスもハグも禁止、なんて言われたって、そんなに簡単に頭が切り替わらない。――お前、最後にキスしたのがいつか、覚えてるか?」
言われて、やっとイリッツァの視線が上がる。記憶をめぐらすように何度か大きな瞳が瞬いた。
「えっと――リリカのところから教会まで帰るとき――」
「額にしたやつなんかカウントするな。――ここにしたやつだ」
「――――!」
桜色の唇を親指でたどるようになぞられ、びくっとイリッツァの肩が跳ねる。
ふ、とカルヴァンの口の端に笑みが浮かぶ。いつもの悪童の笑みではなく――苦笑に近い、微かな笑み。
「遠征だの仕事だのが重なったからな。裕に一週間以上はしてないだろう。――正直俺は、最後のキスがいつだったか、それがどんなだったか、全く覚えてない」
「っ……そ、れは…」
「この俺が、結婚相手に、とまで望んだ女を諦めるんだぞ。――せめて最後に、キスの思い出くらいくれたってよくないか?」
「――――」
誘うようにゆっくりと唇を指でたどられ、イリッツァの蒼い瞳が揺れる。
脳裏に、薄暗い文具屋の奥で、吐息が混ざるほど近づいていた二人の男女の影が蘇った。
「――――…それで、友達に、戻ってくれるのか?」
「あぁ。約束しよう。キスが終われば、婚約関係は解消する。生涯、聖女として生きるなりなんなり、好きにしろ。俺も、好き勝手に生きる。――どうやって国民を納得させるかは、後から考える」
最後の言葉は重たい嘆息とともに吐かれた。おそらく、ありえないほどの強行軍のせいで、疲労がたまっているのだろう。頭があまり回っていないというのは本当なのかもしれない。
イリッツァはなおも迷うように少し瞳を揺らし――しばらくして、覚悟を決めたようにゆっくりと瞼を下ろした。
「――いいよ。最後、だ」
「ふ…何度見ても、最高に綺麗な顔だな」
覚悟を決めて、キスを待ち受けるように少しだけ上向いた面を眺め、悦に入ったような声が低く響いた――