理性と本能の中に感情あり
人間は理性と本能の狭間にある生命である。
知恵があるからこそ、理性が存在し、遺伝を残す事で生命を繋ぐからこそ、本能がある。
生命は生きる為に学び、理解し、次に繋げる。
理性と本能はそれ故に切っても切れないのだろう。
本能だけならば、他の生命と変わらず、理性だけならば機械と変わらない。
その境界にあるのが、我々の持つ感情なのだろう。
感情に振り回されるのは人間が感情のコントロールの領域に達してないからだと云える。
故に幼少期の方が何事に対しても挑戦的で学習への吸収力が高いと云える。
義務教育も幼少期に習うのは社会に適正する為であり、最低限の知識として有する事で将来的に自身の可能性を広げる為だと云っても良い。
大人はつい、子供にいい学校に入って貰いたいと思いがちだが、本当に見るべきは子供の可能性であろう。
もっとも、そこには家庭環境や金銭面などの様々な要因がからんでくる。
故に実際に子供に適した環境を大人が提供するのはなかなかに困難な事である。
幼少期から養われる感情はほとんどの場合、まず始めに親に真似事からはじまる。
親の口癖などを吸収し、言語を覚え、その仕草を真似るのだ。
無論、テレビやドラマの影響などもあるだろう。
子供同士の戯れで覚える事もある。
だが、間違えてはならない。
最初に覚えるのは肉親の言葉である。
最初の感情がそれこそ、愛なのか、それとも違う感情なのかは個体差もあるだろうが、親の在り方次第と云える。
子供の頃は本能や知的好奇心があるのが当たり前なのだ。
ネットで流れる歌などによる反体制的なものが流行しようとそれはいつの時代でも起こる事なので大人がすべき事は批判ではなく、何故、それがダメであるのかの説明や或いは流行の一つとして聞き流すかで将来は変わるであろう。
ただ、叱り、暴力に訴えるとその子どももいずれ同じ事をするであろう。
我々は進化過程の中で人間と云う形に落ち着いた。
しかし、間違えてはならない。
我々はまだ進化の途中にあるのだ。
故に退化するのではなく、進化する為に昔の考えを押し付けない考え方や柔軟性も必要になって来る。
我々の経験はあくまでも我々の経験なのだ。
語り継ぎ、未来に考えさせる事で本当の意味での次へと進む。
過去の過ちを繰り返さない為に未来ではどうすべきか、何を考え、何を夢見るか。
理性と本能の先に我々は何を見出だすのか。
すべてはまだ、これからなのである。