神とは『きっかけ』説
神とはそもそも、なんなのであろうか?
今も昔も神と云う単語を耳にするが、人が神が如く振る舞う事は出来れども、神その物にはなれない。
しかし、人間とは不思議なモノでそう云う存在にすがり付く。
かく云う私も無神論ではなく、神の存在を信じている。
日本では古くから八百万と云う神は常に身の回りに存在していると云うのも一理ある。
絶対だと信じる神はいても、絶対的な神などは存在しないだろう。
神の世界があるのなら、そこは絶妙なバランスをキープしているに違いない。
生命の本質は弱肉強食だが、知能の高い存在はそれを様々に越える事を理性で求めてくる。
その理性も支配欲などにより煩悩で掻き消される事があるが、その中にも生命は神を見る。神とは真になんぞや。
豊穣の神、戦神、愛の神、太陽の神ーー例を上げ出したら、キリがない。
2021年でも転生を主体にした作品は未だに多くあるが、その中にも神は登場する。
こう云った神はさぞかし名のある神であるであろうが、基本的に神としか呼ばれる事はない。
この神々は果たして、本来は何の神なのであろうか?
尚、転生などについては現在に始まった事ではない。
彼の有名なエジプトのツタンカーメンも蘇る事を信じ、自身の死後、ミイラとなって眠っていた。
個人的には化石やミイラなどは自然に帰すべきだと思っている。
人間にとっては世紀の発見かも知れないが、死者への冒涜な気がしてならない。
自分の眠る場所を荒らされた挙げ句、展示されたらと思うとあまり良い気分になる事はないだろう。
それに時代が変われば、後々の知能の高い生命体が歴史を間違える可能性もある。
無論、人間はそんな事を考えたりしないだろうが、人間を知らぬ知能の高い生命体は私達をどう見るであろうか?
化石と同年代だからと進んだ技術でクローンなどを産み出された場合や品種改良される事を思うと私は良い顔が出来ない。
話を戻そう。輪廻転生と云う概念があるように我々の中には転生すると云う概念が自然と刻まれている。
次はもっと良い環境に産まれたいなどの考えから、自らの命を断つなんて行動もあるかも知れない。
しかし、人間とは不思議なモノで苦労を乗り越えると楽しく思え、逆に生に固執する。
ある意味で私達は極端なのかも知れない。
そんな私達を転生させる神とは改めて考えると興味深い存在である。
損得勘定もあるかも知れないが、生命を転生させる神と呼ばれる存在は転生した人間にさぞかし興味があるのだろうか?
それとも、仕事と割り切って考えるのだろうか?
物語の転生は人間が別世界などの人間になると云うモノだが、現実的な話をすると転生した世界が安住の地とも恵まれた生活ともーー極端な話だが、同じ生物であるとも限らない。
そして、転生先でも争いなどがない世界だとも言えない。
前世の記憶が本当に役立てられるのはほんの一握りだろうし、危ぶまれる能力を持てば、同族からも迫害され、命を奪われかねない。
それでも人間は不思議と自身を特別におきたがる。
無論、それは私個人にも当てはまるだろう。
私も自身の特殊な立ち位置に置いて描いた作品があるのだから。
ただ、私は転生よりも真に特殊な能力のない自分で自分を貫くのが好きなので特殊な能力を持つキャラクターはごく一部に限られているし、戦闘よりも対話や非戦闘員である事の方が歳を重ねる毎に増えて来た。
どうやら、私は凡人に劣る現状でも自分を貫く前進するモノがあるようだ。
寧ろ、神がいるのならば、現在のハンデを持つ状態にも感謝したい。
何故なら挑戦して達成する喜びが増すのだから。
人間が不完全であるのは神への感謝を忘れさせない為だったりするのかも知れないと個人的に思う。
そんな神もまた、神の一角に過ぎないのだろうが、私には十分過ぎる位の挫折や達成などが充実した今世である。
仕事漬けで過労死しなかったのが不思議な位なので、これにもまた運命を感じずにはいられない。
私の中の神とはそんな風に『きっかけ』を与え、生命に進化を促す計り知れない存在なのだと思えて来る。
それは恐らく、今も昔も変わらず、生命の在り方を観察しているのだろう。
或いは飽きてしまっているかも知れないが、この時のこの瞬間は自分しか味わえない。
平行世界があったとしても、自分が自分と認識出来るのは今を生きる自分だけだろう。
平行世界があったとしたら、神はどのように私達を観察するのか、大変興味がある。
もしも、私を観察する神がいるのならば、いつかは自分が生きて来た事をつまみに語りたいものであるが、それまでにネタをもっと増やしておくとしよう。
これが『きっかけを与えるのが神』と云う私の説である。
人ーー或いは他の知的生命がこれを読んで、どう判断するかだが、こう云った説もあると思ってくれれば良いだろう。
今後、人間以上に進化した存在が出てきたら、神にきっかけを与えられているのだろう。
それまでには人間は衰退しているのだろうが、そこは時代の流れである。