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夏色のガーネット

作者: しいらしゆう

ガーネットとは、赤色の宝石です。

石言葉は『生命力、情熱、実り』です。

魔除の御守りとして使用されます。



それでは、楽しんでください!




- [ ] プロローグ










最近、特にここ一カ月ぐらいから、得体の知れない感覚に襲われることがあった。言葉にするのは容易ではないが、強いて言えば空虚感に似たものにも思われたのだが、どこか違った様子なのである。そんな物に襲われ始めて、僕は自覚症状があるぐらい病んでいった。

しかも、それが起こるのはいつも決まった時間だったのだ。大抵は帰りの電車の中だが、時折自分の部屋にいる時にもあった。

僕はそれが何者なのか突き止めようと苦労した。だが、なんとなく友達に相談するのは気が引けた。実はこう見えて、学校では比較的普通な高校生なのである。友達がいないわけでもないし、週末カラオケに行くこともざらにあるほどだ。そこで、あいつ実はやべえやつだの、あいつ病んでるだの、そういう噂にされては面目が立たないのである。

無論、親に相談するのもまずい。うちの家は父が東京に単身赴任中で、実質家族は母と妹と僕だけである。そういう事情もあって、母にはいつも苦労をかけている。僕が一年半後に大学入試を控えているのもあって、若干病気がちになっている。(もともと母はそういうストレスに弱い)

そんなこと考えてたら、いつのまにか電車は最寄駅に着いていた。


見上げた空は灰色だった。まさに絵の具で塗り潰したような灰色だった。夏場にこうして雲がかかることは珍しくないのだが、今日は一層分厚い雲がかかっている。そのうち、大粒の雨が降り出した。傘を叩きつける雨粒の音に囲まれて、僕はこの世界から切り離されたように思った。そう感じた自分を嘲笑した。

階段を上って歩道橋を渡り、公園の前を抜けて住宅街の中へ進む。最後に突き当たりのT字路を右に曲がって、やっと家が見えた……その時、背中に鈍い衝撃を感じた。と同時に、視界がなくなった。

ぼーん…ぼーん………

年末の除夜の鐘のような音が、頭の中をひたすら駆け巡る。

もはや恐怖を通り越して、意味がわからない。自分が今どんな状況に置かれているか、理解できない。

ぐらっと地面が揺れて、僕はその場に倒れた。全身に力入らない。

ああ、だめだ。死んじゃうのか。よくわかんないけど。

今までの人生が走馬灯のように駆けめぐ…ろうとしたその瞬間に、ぱっと突然目が覚めた。

自分の部屋のベッドの上だった。

僕はゆっくり起き上がった、が特に変わったことはない。いつもの僕の部屋だ。立ち上がってみた。普通に立てる。

何だったんだ、さっきのは。だんだんと気味が悪くなってきた。


ーーえぇえええぇ!?ーー


僕はその場で腰を抜かした。

廊下から、聞きなれない男の悲鳴が聞こえたのだ。腹の奥から叫んだような声だ。よく響いた。


ーー嘘でしょ?ーー


また聞こえた。僕はたじろいだ。

あぁ、今度こそ本当に死ぬんだ。よくわかんないけど。きっと今は悪い運気が溜まっていて、いろんな怪奇現象が起こるんだ。きっとそういうことだ。

僕は急いでドアに鍵をかけて、床に落ちていた青チャートを片手に持ち、携帯電話を鞄の中から拾い上げた。

もしドアを開けられたら、青チャートでぶん殴ってやろう。そう思った。

110番を打つ人差し指が震える。金縛りにあった時にように、うまく体が動かない。


ーー何でだよおぉぉおおーー


僕はさらに焦った。額から汗が吹き出た。そして警察に電話をかけようとしたのだが、


ーーちょっ!やめてください!ーー


っと何者かの手がドアを貫通してきて、僕の携帯をもぎ取っていってしまった。

僕は言葉を失った。何しろ、初めての経験だった。手がドアから出てきたのが。

もはや一周回って、恐怖という感情はなかった。


「あなたは誰ですか」


僕はドア(その奥にいる人間)に何の躊躇いもなく語りかけた。


ーー君こそ、誰です?ーー


僕の問いに答えてくれるあたりは、いい人らしい。じっくり聞いてみると、少年のような声だ。


「僕の家から出て行ってください!」


口調を強めて言った。


ーー俺の話を聞いてくれないか?ーー


少しの間があった後に、そいつはそう言った。


「僕の家に忍び込んで何がしたいんですか?」


僕は完璧に落ち着きを取り戻していた。それに相手の態度に、悪意は感じられなかった。優しささえ感じた。

僕は疑問に思った。何故自分の家に侵入してきた不審者にそんな思いを抱くのだろうか。しかもこいつはただ者じゃない。先ほどの衝撃の光景がまだ目に焼き付いている。なのに何故、こんなに親近感が湧くのか。不思議だ。


ーー君の部屋に入ってもいいですか?ーー


彼はそう尋ねた。丁寧な話し方だ。僕は許可を出した。

僕の予想通り、彼はドアをすり抜けてきた。まだ見慣れはしないが、僕はここで、彼がただの人間ではないと確信を持った。

彼の様子はあまりに普通だ。僕と同じぐらいの身長で、おそらく高校生ぐらいの男の子だ。


「君は一体、何者なんですか?」


僕は聞いた。

彼は僕の落ち着き具合に驚いた、がそのまま答えた。


ーー俺の名前は…、生前の名前は伊藤祐輝です。ーー


1つ謎が解けた。あと100個ほどあるけど。


「つまり、君はもう亡くなっている?」


ーーはい。そういうことですねーー


こういう場合は成仏させてあげるべきなのか。そっと手を合わせる。南無阿弥陀仏。


ーーいや、やめてください。色々あって、ここにいるんです。ーー


と言って僕の手を軽く叩いた。ドアはすり抜けられるけど、僕は触れるらしい。


「どんなことがあったんですか?」


ーー少し長くなるのですが…ーー


彼はそう言って続けた。



俺は一度死んで、黄泉の国に行ったんです。そこがいわゆるセカンド・ライフ・ワールド、略してSLWと言います。反対にこっちのあなた方が生きている世界をファースト・ライフ・ワールド、FLWと言います。俺は死んでしまってFLWからSLWに行ったのですが、そこでややこしい決め事があるんです。FLWでの成績のよかった人のみ、「バックパス」を貰えるのです。これは一度死んでSLWに来てしまっても、もう一度FLWに戻れる権利です。俺は高校生で死んでしまって可哀想だからって、色々と配慮をしてくれて、この機会を手にしました。

しかしこれは条件付きです。まず、FLW管理委員会の指示に従う、ということ。これは日本政府の内閣に極秘で存在している委員会で、そこで指示されたことをこなしていかなければなりません。いまいちそこのところは俺もあまり理解していません。すみません。

そしてさらに大事なことは、自分が生き続けられるのは俺が選んだ一人の人間の中だけである、ということです。どういうことかと言うと、俺の姿が見えるのは君だけだし、俺の言ってることも君にしか聞こえない、ということなんです。

何故君が選ばれたか気になるよね?うん。教えてあげます。

君の名前は富樫駿(とがし しゅん) ですよね? いや、あの、俺には君と同姓同名の友達がいたんです。割と珍しい名前ですけど。それで俺はその人と結構仲が良かったわけです。本物の親友でした。

そこで俺は言ったんです。その「バックパス」の職員の人に、「富樫駿」がいいです、って。

そしたらどうなったか。ご存知の通り、俺は見ず知らずの君のところに降ろされて、本当びっくりしましたよ。呆れたもんです。これからずっと過ごしていかないといけないのに……。




開いた口が塞がらなかった。つまり、僕はもともと全く関係がなかったのに、巻き込まれたわけだ。とんだ迷惑である。

ただこれが現実なら、受け止めなければならない。もしここで僕が彼を放っておいてしまったら、彼はどうなるんだろう。誰にも気づかれないまま、生きていくのか。

一番辛いのは、僕じゃなくて彼なんだ。


「そういうことなら、僕は大丈夫です。」


そういうと彼はニコッと笑った。

案外、ポジティブなやつだ。カッコいい。僕とは正反対だ。



その日の夜、僕らはこれからについて語り合った。正直、僕はまだ地に足がつかないが、彼はこの状況を楽しんでいるようだった。彼の心境は当分理解できそうもない、と僕は思った。

彼は明日、FLW管理委員会に顔を出さなければならないと言った。そこで、君はどこにいくつもりだ、と聞かれた。

僕は友達と遊びにいく、だから用事が済んだら家にいてくれていいよ、と伝えた。


ーー後で合流していい?ーー


彼は僕が何回ダメだと言っても聞かなかった。意外とわがままなやつだ。

それに、この件に関しては僕としても妥協するわけにはいかない。

遊びにいく相手が、女子なのだ。しかも、2人きりで。

榎本(えのもと)さんとは、たまたま隣の席になって仲良くなった子で、部活で忙しいところに時間を割いてくれて、誘ってくれたのだ。

割と本気で、彼女は僕のことが好きなんじゃないかと、思うことがある。しかも可愛い。

それが1ヶ月前のことで、それから僕は毎日、学校に行くのが楽しい。授業は上の空で聞いているが、何しろ彼女と会話が出来るだけで幸せだ。

ただその代償として、1人でいるときにはまたあの変な感覚が湧き上がってくるのだ。この幸せがすぐ潰れる儚いもののような気がして、逆に追い込まれてしまうのだ。ただ、これもきっと何かあれば直ぐに思い悩んでしまう僕の性格から来たものなのだろう。見っともない。


ーーなんでダメなのぉ?ーー


彼は子供みたいに叫んだ。僕にしか聞こえないのでうるさいと感じるのも僕だけなのだが。

僕は適当に彼をあしらって、さっさと眠りについた。








- [ ] 第1章




大事な日に限って、寝坊するものだ。

伊藤に起こされて目覚めた時刻はすでに9時を回っていた。


ーー約束は何時なの?ーー


「11時。遅れるかもだわ」


朝ごはんを食べる時間はない。急いで身支度をした。実は、その日のコーディネートを妹に相談しようと考えていたのだが、妹は既に外出していた。

ファッションのセンスがない僕はネットで調べる時間もなく、結局全部伊藤に任せてしまった。

伊藤はいい意味で期待を裏切ってくれた。彼は意外とセンスがあるらしく、短時間でなかなかのセンスを発揮した。


ーー今日起こしてあげたのも俺だし、この服も俺が選んだしさ、俺に感謝とかないのわけ?ーー


「ありがとう、助かった」


ーーそうじゃなくて、連れて行ってよ。ーー


彼は僕が寝ている間に委員会の方には顔を出しに行ったらしく、さっさと連れて行けと朝から騒ぎ出した。

最終的には、僕の方が止むを得ず引き下がる形になった。急いでいたし、何しろ起こしてくれたのは本当に感謝していたのは事実だった。

ただ、何もするなと心に誓わせた。

家を出たら、猛ダッシュで駅に向かった。途中で伊藤の姿が見えなくなったと思ったら、彼は民家の中をすり抜けながら走っていた。異様な光景である。

日曜日の昼前ということもあり、電車には人が少なかったので、気にせず伊藤と話していた。数人の乗客がずっと一人で喋ってる僕を見て、みんな他の車両に行ってしまった。それはそれで僕らには都合が良かった。

伊藤には、あらかじめ今日のことを話さなければならない。二人きりになって思い出した。

もともと言う予定なんかなかったので、少し困った。だけどどうせすぐにバレるのだったら、ここで正直に話しておこうと思う。










「僕は榎本さんが好きだ。」






ーーいや、誰だよーー












榎本 奈々さん、我等が2年B組の人気の女の子だ。影からそっと狙ってるのは僕だけじゃないはずだ。

集合場所に指定された場所に向かう胸が弾む。おそらく伊藤がいなかったなら、なおさらだっただろう。

交通量の多い難波のスクランブル交差点に足を止められた。数分の間に、無数の人間が集まってきて、コンサート会場のような窮屈さになった。それなのにみんな、限られたスペースでスマホをいじくっている。

信号が青になった途端に、群衆は殺気立った様子で前へと進む。

都会の人間は楽しくなさそうだな、と思うのは今回だけじゃない。難波に来るたびそう感じる。

都会が苦手なのは、やはりそういう理由だろう。

次からはもっと田舎がいいなぁと思う。次があるかはわからないが。

そんなことを考えながら、数分足早に歩いた。


ーーあ、あの子?可愛いじゃんーー


伊藤が指をさしたのは、まさしくその彼女であった。都会の薄暗い雰囲気の中、ただ一点輝いている。

腕時計を見ると既に5分ほど遅れていた。

僕は大慌てで彼女の方に走っていった。


「ごめん、遅れた」


榎本さんはとても機嫌がいいようで、満面の笑みで僕に笑いかけた。


「待ってた!」


元気にそう言って僕の肩を軽く引っ叩いた。

もう完璧に、惚れた。


ーーニヤニヤすんなよぉーー


伊藤が羨ましげにぼやいた。



今日は、一緒にご飯を食べて、その後ボウリングに行く予定だ。

彼女の方から、おすすめの店があるから、そこに行こうと提案されたので、そうすることにした。

僕らが歩き出すと、伊藤も迷わずついてきた。

sただやはり、榎本さんは伊藤のことが見えないようである。僕だけが置かれたこの異常な現実に、少しだけ実感が持てた。

彼女は大通りから狭い路地に入った。そこを躊躇なく進んでいく。

すると右手に、ラーメン屋さんが見えてきた。ここが彼女おすすめの店だと言う。

女子がラーメンを食べるなんて、案外驚いた。

店内は10席程度のカウンター席しかないような狭いものだった。

あいにく満席で、少し待つことになった。

彼女とずっとくだらない世間話をして時間を潰した。

伊藤は鼻歌でB'zを歌っていた。

「ねえ、好きな人とかいないの?」

榎本さんの唐突な質問に、僕は我が耳を疑った。

これって、まさか……


ーーこれって、まさか……ーー



こういう時、どのように答えたらいいのだろう。本当の気持ちを、ぶつけるべきなのか、否か。

伊藤だったら、この状況をどう乗り切るのだろうか。

ちらっと伊藤を見た。

すると伊藤は僕に親指を立てて、


ーーここで正直に言えなきゃ、きっと損するぞーー


と彼らしくない頼もしい助言をくれた。

僕は今まで人の意見に流されて生きてきた。それで僕は何回も失敗してきたものだ。

しかしこういう時こそ、伊藤を信じてみようと思う。

伊藤の真面目な言葉に、背中を押された。

言ってしまえばこっちのペースだ。

俺はこの手で、幸せを勝ち取る!


「榎本さんでお待ちのお客様〜」


あ。呼ばれた。

店員に奪われた。僕の絶好の告白のチャンスを。

可愛い女の子が、自分から好きな人を聞いてくれるなんていう素晴らしい機会は、きっと二度とないのだろうに。


ーーおい、呼ばれてるぞ、お前ーー


伊藤は笑いを堪えながら僕を店に押し込んだ。

とはいえ、そこのラーメンは極めて美味しかった。空気の読めないあの店員さえいなければ、是非もう一度来てみたい。

榎本さんはラーメンが大好物だそうで、特に醤油ラーメンが好きだと言った。

僕も同じだと答えると、彼女は嬉しそうにした。その笑顔に癒されて、僕は先程のあの事故さえどうでもよくなってしまった。

こうして2人(?)でいられることの方が、楽しいのだ。

伊藤は僕らが食べ終わるまで店の外で待っていてくれていた。つまらなそうにサザンを歌っていた。伊藤は選曲の年代が古すぎる。

僕らは仲良く会話を弾ませながら、予定通り、近場のボウリング場に着いた。

安場なのだが、しっかりとした場所だ。

彼女はボウリングのために、短い髪を後ろで束ねた。

いつも見る可愛らしいショートヘアも勿論魅力的だが、集中するためのその髪型もカッコいい。


ーー可愛いなぁーー


たまらず伊藤も声を上げるほどである。



彼女はストライクやスペアを出す度に、わざわざ僕のところまで来てハイタッチをしてくれた。そんな楽しそうな僕らを見て、伊藤はいいなぁと羨ましそうに呟く。

2時間、そればかり繰り返した。


窓から射し込む陽がオレンジ色に変わった頃、彼女から、そろそろ帰ろうかと提案された。

僕は快諾した。

こんな幸福感に満ちた1日も、もうすぐ終わる。

しかし明日、学校に行けばまた彼女の隣の席に座れる。そんな希望が心の中に生まれた。

いつもの僕なら、きっとそんなポジティブに考えれない。また例の空虚感に似た感覚に襲われていただろう。

今はその感覚に襲われずにいた。いつもよりも、前向きでいられた。

これは全部、伊藤のおかげなのだろうか。そうであるならば、彼に感謝したい。そう願うばかりである。


「今日はありがとう」


帰り際の難波駅の改札前で、僕が言った。


彼女は小さくうんと頷いた。


「1つ聞いていい?」


質問を投げかけられた。

そして彼女は、日中とは打って変わって、真剣な眼差しを僕に向けた。

初めて見る表情の彼女に、少しうろたえた。

僕がいいよと答えると、彼女は続けた。


「直哉くんと仲いいでしょ」


直哉?

もちろん直哉とは親友で仲がいい。幼稚園からの幼馴染だ。

しかし彼女の話の筋がわからない。

しかもなぜ下の名前で呼ぶのか。


「言いにくいんだけど…」


数秒間の間、場は静まり返った。自分の呼吸する音さえ聞こえない。

彼女は深く息を吸い込んで口を開いた。















「私は直哉が好きなの」
















最寄駅から続く坂道を、伊藤と2人で下っていく。

9月の割には肌寒い風が、鋭く吹きつける。

伊藤にお洒落にコーディネートしてもらった、薄手のジャケットが、飛ばされてしまいそうだった。僕はそれを抑えるのに必死であった。

この季節になってくると、日が暮れるのが早くなってくる。

それだからか、いつもなら明るいこの通りも、今日はどこか薄暗く感じた。


ーー人生こんなもんさ…ーー


赤信号を待っている時、伊藤が突然、そう言った。

一度絶望を味わっている人間であるからこそ、彼の言葉には重みがあった。


ーー榎本さんも、酷いやつだーー


伊藤は僕をフォローしたつもりなのかもしれない。

確かに普通の人間ならそう感じるかもしれない。

ただ僕はどうしても、榎本さんが酷いやつだとは思えなかった。

僕の中で、彼女はまだ輝き続けているのだ。

彼女にとって、僕はただ直哉に近づくための道具であったとしても、やはり僕は彼女が好きだ。

これだけは譲れない。僕はやっぱり彼女が好きだ。

悔しさや寂しさよりも、やりきれない思いの方が圧倒的に強いのだ。


「俺は諦めない」


そうか、と伊藤は答えた。


ーー道はきっと長いぞーー


分かってる。そんなこと分かってる。

ただ、ここで手を引いたら、僕はきっと後悔せずにはいられなくなるだろう。

挑戦しないよりも、挑戦して砕け散った方がマシだ。


「榎本さんは誰の手にも渡さない!」


僕は一面に広がる星空にそう叫んだ。


ーーじゃあ、まず整形しなくちゃなーー


そう言って伊藤が笑った。

それを見て僕も笑った。



今日は非常に疲れた。

1日の中で両極端な2つの感情、愉悦と絶望を味わった。

やはり、人生は生温くないものである。

僕は改めて肝に銘じた。

そして何より、直哉が羨ましくて仕方なかった。

生き返れるのなら、直哉になろう。


ーー俺、こう見えて実は彼女いたんだぜーー


僕が風呂から上がってパジャマに着替えている時、伊藤が言った。

僕は呆然とした。

こんなやつに彼女がいたとは…。

とにかく信じられない。こんな浮ついたやつにも愛し、愛される人がいるなんて。

「どんな子?」

不本意ながら、少し興味があった。


ーー可愛いやつだよーー


伊藤はデレデレしながら言った。よっぽど好きなのだろう。

そんなことを聞いたつもりは無いのだが。

「そうじゃなくて、性格とかだよ」


ーー性格も可愛い!ーー


と彼は僕のベッドの上で惚気だした。

少し羨ましい。いや、めちゃくちゃ羨ましい。

「僕もすぐに追いつくさ」

僕も負けじと胸を張った。


ーーてか、立ち直るの早くない?ーー


「凹んでる時間が勿体無いね」


とカッコつけて言ってみたが、実は僕も少しそう思った。自分が生き急いでるようにも見えた。

だが、遅いよりかはよっぽどマシだろう。

正直、まだ振られたわけでもない。まだ心に余裕はある。


急に僕の携帯が電子音を鳴らした。

ホーム画面に、榎本さんからのメールの通知が来ていた。


ーーおっ、いきなりーー


伊藤が興味津々に覗き込んできた。


僕が期待していたほど、メールは長くはなかった。


( 今日はありがとう!楽しかった。これからもよろしく!)


複雑な思いだが、彼女が本当に楽しかったと感じたのなら、僕はそれでいいと思った。

なぜか、少しホッとした自分がいた。

しかし返信には困った。

何しろ、経験がない。


「なんて返すべきかな? 」


伊藤に尋ねた。彼は昔、彼女もいたらしいし、乙女心の1つや2つぐらいは把握している筈だ。


ーー俺だったら、普通に返すなーー


普通ってなんだよ。

それがわからないから聞いてるんだよ。


「どういうこと?」


僕は問い直した。


ーーだから、適当に返せばいいんだよーー


この後何回も聞いたのだが、全く進展が無いので、もう彼に聞くのはやめて、自分で返すことにした。


(こちらこそ!)


30分推敲を繰り返した末に、僕はこれしか思いつかなかった。

最後まで「!」をつけるかどうか悩んだ。

伊藤は暇になって地理の教科書をずっと眺めていた。時折、あくびをした。



ーーねえ、明日学校行っていい?ーー


伊藤が寝ぼけた顔で尋ねた。

もう時計の針は11時を指していた。

僕は快諾した。

こんなやつでも、いないよりかはましだと思った。

僕は意外と、寂しやがりかもしれない。


ーー直哉ってやつがイケメンだったら潰してくるぜ!ーー


伊藤は大きな声で叫んだ。

意気込みだけは、買ってやる。



伊藤が満員電車に乗るのは嫌だと言うので、いつもより早く家を出た。

おかげで、7時半には学校に着いてしまった。


「おはよー」


僕が教室に入るなり、直哉が声を掛けてきた。

驚いた。

こんな朝早い時間に何をしてるのだろう。

そして、直哉がいつもとは違う人間に見えた。

妙に緊張した。


ーーあいつか?ーー


僕は直哉に聞こえないように小声でそうだ、と答えた。

伊藤の直哉を見る目が一瞬にして獣のようになった。


ーーイケメンじゃねえぇかーー


嫉妬心が強い男である。

僕にとっては十分、伊藤もイケメンだと思うのだが。


「今日なんでそんな早いの?」


直哉が僕に聞いた。


「何となく…なんか、その…」


舌が上手く回らない。

おかしい。

直哉の顔を見ると、平常心でいられなくなる。


僕の様子がおかしいことを察した直哉は、僕を不思議そうに、心配そうに見た。

何故か僕はその目が怖かった。


「駿ちゃん、大丈夫?」


「大丈夫、平気だよ」


僕は直哉の気遣いを適当に流して、教室から飛び出た。

慌てて伊藤もついてきた。


一度落ち着こう、そう思った。

荒ぶる呼吸を整えようと、深呼吸する。


ーー奪われるのが怖いかーー


突然、伊藤が口を開いた。


「え?」


ーー親友に榎本さんを奪われるのが怖いんだろ?だからあいつを恋のライバルって意識しすぎるんだーー


伊藤の言うことは、間違いなく正しい。

僕は初めて、自分の本当の気持ちを理解した。

僕はこれまで、自分をも偽っていたのだ。

榎本さんにあんな風にされても、平気なフリをしていた。

榎本さんが幸せならいいとか、カッコつけていた。

だけど実際は、迫り来る直哉の影に怯えていたのだ。


だが、今の僕には、どうすればいいかすらもわからない。

今、目の前にいる伊藤だけが頼りなのだ。


僕は、これほどまでに人を愛していいのだろうか。



人気のない廊下に、僕の胸の鼓動だけが響く。


ーー安心しろーー


力の入らず壁に寄りかかる僕に、伊藤は耳元で囁いた。


ーー俺がいるだろーー


鋭く真っ直ぐな言葉は、僕の耳に吸い込まれて、脳の中を何度も駆け巡った。

安堵の感情と、心が締め付けらるような気配の両方がした。


ガラっと扉の開く音がする。


「駿! どうしたんだよ?」


僕の様子が気に掛かったのか、直哉が教室から出てきた。

伊藤はそんな彼を無言で睨みつけた。


「気分が悪くなって…ごめん」


僕は言った。

「保健室連れて行こか?」


直哉は優しい。

こんな僕にでも、親切にしてくれるのだ。


そんな直哉とは裏腹に、僕は酷い人間だ。

彼はこんなに優しくしてくれるのに、僕は自分のことだけで頭がいっぱいだ。


「大丈夫、もう平気」


出来るだけ元気に、僕は言った。

すると、直哉は納得した様子で帰っていってくれた。


僕も一呼吸おいてから、教室に戻った。



依然として、僕のわだかまりは消えないままであった。

心のどこかに、何かが引っかかったままである。

そんな気まずい空気の中、暫く気を紛らわすために自習をしていたら、次第にクラスメイトも登校してきた。


伊藤は、直哉を追いかけると行ってそのままどこかに行ってしまった。

そこまでする必要はあるのか?

僕は疑問に思った。


随分と教室が賑やかになった頃、榎本さんも来て、僕の隣の席に腰を下ろした。


「おはよ」


席に着くや否や、彼女は僕に声を掛けた。

また今日もお美しい限りである。


「ねえ、日曜日空いてる?」


また、突然のお誘いである。

なぜ僕ばかり誘うのか。

しかし、そんなこと聞けやしない。


「空いてるけど…」


断れない性格が出てしまった。

しかも好きな人に言われると尚更そうなってしまう。


「実はサッカー部の試合があるの」


なるほど。

やはり直哉目当てか。

少し溜息をついた。


彼はサッカー部のエースで、実力は本物だ。

入学後すぐにスタメンの座を勝ち取り、今ではチームに欠かせない存在となっている。

おかげで、前回の大会でもいいとこまで行けたらしい。


きっと、1人で試合を見に行くのは気が引けたのだろう。

それが僕を誘った理由か。


「じゃあ、日曜の朝、10時で学校ね」


僕は了承した。

少なくとも、榎本さんと一緒に過ごせるのは悪いことではない。

だが、あまり乗り気では無いのもまた事実であった。




僕はこの日の約束を、前日まで伊藤には内緒にしていた。

自分を安売りするな、と怒られそうな気がしていたのだ。

しかしまさに、現実にそうなってしまい、酷く怒られた。

しかし、


「約束しちゃったんだから仕方ないだろ!」


と強行突破してきて、今に至るわけだ。


そんなことを考えていたら突然、ズバンと強烈な音が響き、敵陣のゴールネットが鮮やかに揺れた。


開始早々に、試合が動いた。

ものすごい歓声が、グラウンドを包み込んだ。


決めたのは、直哉だ。



「よっしゃぁああー!」


僕の隣に座る榎本さんも、喜んだ。

満面の笑みだ。


ーー何してんだ、この野郎ぉぉぉお!ーー


伊藤は相手チームを応援しているらしい。

先程から、誰にも負けない気迫で声を張り上げている。

側から見たら、ただの熱狂的なファンでしかないだろう。


「凄いなぁ、直哉」


僕はそっと呟いた。

榎本さんも首を縦に振った。

伊藤は舌打ちをして、溜息をついた。


あっという間に、試合は再開した。

直哉にボールが回るたび、榎本さんは立ち上がった。

対照的に、伊藤は貧乏ゆすりが激しくなっていった。



結局、このままスコアは動かずに前半が終了した。

しかし、直哉の上手さは十二分に伝わってきた。


僕も何か、スポーツでもしておけば、もっとモテただろうか。

いや、もう今更悩んでも仕方ないか。


「僕らは、配られたカードで勝負しなくてはならない。」


スヌーピーもそんなことを言っていた。

今の僕なら、途轍もなく共感できる。


ーー腹減ったから、どっか食いに行ってくるーー


そう言って伊藤は先に席を立った。

誰にも存在を認識されないのに、どこに食べに行くのだろう。


時刻は既に12時半だ。

僕もお腹が空いた。


すると、榎本さんはカバンの中を探って、何やら大きな箱を出した。


「ハーフタイムの間に、お弁当を食べるね」


なるほど、その言い方では僕の分は無いのか。

少し期待した自分を恥じた。


女の子が、好きでもない男に、弁当なんか作るわけがない。

そうやって自分に何度も言い聞かせた。


しかし、そう考えれば考えるほど、僕はまた泣きそうになっていく。


自分はまだ、榎本さんの視界にすら入っていない。

こんなに思っているのに…。


渋々、コンビニに向かう足取りも錘をつけたように重い。


道中の電車の高架下に、腰を下ろした。

そして1人、涙した。







僕はこんな生き方をしていて、大丈夫なのか?

正しいのか?

榎本さんを思うばかり、いろんなことを切り捨ててきた。


直哉との友情までもだ。


あれ以来、2人でまともに話せた試しがない。どうしても、僕は彼を敵対視してしまうのだ。

しかし、直哉は一切悪くない。

これは全て僕自身の問題だ。

馬鹿なのは僕だ。

卑怯なのは僕だ。



罪悪感を覚えた。

直哉の恋を邪魔しているような気がした。

僕のせいで、本来幸せになるべき2人が、繋がれずにいる。


僕は罪深い男だ。


いっそ、このまま諦めてしまおうか。


僕は今のままのように、何もかもを失いたくない。

ましてや、他人に迷惑を掛けるのは専ら御免だ。


「なら、そうしよう。」


僕の中の1人が言う。


「榎本さんのことが好きなんじゃなかったのか?」


そう言うもう1人の自分もいる。



電車が、大きな音を立てながら、僕の上を駆け抜けていった。



悩んでも無駄だ。

何かしら行動を起こさねば、何も起こらないし、前にも進めない。

僕も、榎本さんも、直哉も。



そうと決まれば、もうやるしかない。

この現状に、終止符を打つ。

榎本さんとの関係を、全て切る。

そうすれば、あの普通で、穏やかな毎日に戻れる。

僕には、そういった泥臭い日常の方が似合っている。


色恋沙汰は、美男美女に任せるとしよう。




さようなら、榎本さん。



僕は立ち上がった。

水溜りに映った僕の姿は、いつにも増して、いい男に見えた。




僕が戻った時には、既に後半は始まっていた。


「ほら、早く早く!」


榎本さんが僕に手招いた。

その姿は、可愛いを通り越して、もはやあざとくすら見えた。


僕は黙って席に座った。伊藤は、まだ帰ってきていない。

僕は胸を撫で下ろした。伊藤がいたら、きっと邪魔してくる。


今しかない。

彼のいない今の間に、決着をつけよう。



榎本さんに、僕の気持ちを伝える。

ただ、それだけでいい。


僕の告白に、彼女はどう応じるのか。

結果は明白だ。


振られる。

そして気まずくなる。

単純な理屈だが、効果は抜群だろうと思う。


その暁には、彼女とは無縁の生活が待っている。

そっちの方が、きっと良い。

僕はせいぜい、身の丈にあった毎日を過ごせば良い。


僕がどれだけ高くジャンプしても、榎本さんには届きそうもない。


もう思い残すことはない。


僕は腹を括った。

最後くらいは男らしく、消える。



「これ来るかも!」


彼女が言った。


目を試合に向けると、まさに直哉がゴール前に走り込んでいるところであった。

すぐさま、そこにループ状のスルーパスが蹴り入れられた。

それを直哉が受け取り、ディフェンダーを見事なフットワークでかわした。

そして次の瞬間、ボールがネットに突き刺さった。


圧巻のプレーだ。


会場は歓喜の渦に包まれた。

耳障りだった。



「やったぁ!」


彼女は笑顔だ。

最後の笑顔だ。


「よかったね」


僕はそう言った。そして直哉に拍手を送った。




会場の熱気が収まった頃に、僕は沈黙を破った。


「いきなりなんだけど…」


「何?どうしたの?」


彼女は首を傾げた。



















「好きです。


















だから……



















どうか幸せになって下さい」




























泥臭い匂いがするスタジアムを背にして、駆け抜けた。


頭の中には、彼女の唖然とした顔が残ったままだ。

それを振り解くかのように、僕は走った。

どこに行く当てもない。

ただ、颯爽と移りゆく景色を眺めていた。


そんな景色の中に、見覚えのある顔を見つけた。

一瞬で、今日の疲れが降りかかってきた。


ーー何してんだよーー


伊藤は僕の腕を掴んだ。強く握って離さなかった。

振り払おうとすると、力尽くで押さえ込まれた。


ーーだから、何してんだーー


彼は執拗に聞いた。

僕は、何もしていない、とだけ答えた。


ーーもしや、逃げてきたのかーー


癪に触った。それは違う。


「逃げたんじゃない。譲ったんだ」


僕は胸を張って言った。

僕のしたことは、間違いじゃない。そんな信念があった。


伊藤は一瞬驚いたが、その後眉間に皺を寄せた。


ーーお前にとって、榎本さんはその程度だったのか?ーー


伊藤は僕の胸ぐらを掴んだ。

しかし、僕は待っていましたとばかりに、予め用意しておいた言葉を吐いた。


「だからこそ、幸せになってほしいんだ」


それでも、伊藤は納得の出来ない顔をした。

そして、彼の手に、より一層力が入った。



彼の手の温もりは、異様に熱かった。

そしてとうとう彼は


ーーお前ってそんなやつだったか?ーー


とだけ言って、人混みの中へ消えていった。



僕はただ1人、孤独な世界に放り出された。

そう思った。


いろんなものを、失った。






家に帰っても、伊藤はいなかった。

次の日も、その次の日も、伊藤は帰ってこなかった。

榎本さんは、それっきり、目も合わせてくれなかった。

学校のトイレの個室で、閉じこもる日が続いた。



そんなある日だった。


いつもの通学路だ。

後ろから僕を呼ぶ声がした。


振り返ると、部活終わりで汗だくの直哉がいた。

いかにも機嫌が良さそうであった。


彼は僕の方に走ってくると、不気味な笑い顔を浮かべた。

そして僕の肩に手を回した。


「お前さ、榎本さんにフラれたんだって?」


彼は面白おかしそうに聞いた。


僕は納得した。

彼の機嫌の良さは、この情報を耳にしたからであろう。

僕を揶揄いに来たのだろう。


「その顔は、図星だな」


直哉はさらに笑った。

意外と性格の悪いやつである。


だが、僕は動じない。

僕は、直哉のためにわざと振られたのだ。

無論、そんなこと言えやしないが、僕は全く後悔していない。


そう。全くだ。

未練なんてない…筈だ。



心拍数が、独りでに走り始める。



やめろ。

なんで動揺するんだ。

僕には何も思い残すことなんかない。


そう言い聞かせる。



「ははっっははははっはは」


僕は、自分の迷いを吹き飛ばすように、大声で笑ってみせた。

しかし、それは何故かぎこちない。


直哉は僕の不自然な笑顔を怪訝な眼差しで見つめた。

僕の意味不明な笑いに対して、若干引いている。


「榎本さんのこと、好き?」


さらに僕は思い切って聞いてみた。

今なら聞けそうな気がした。

あまりにも唐突すぎたかもしれないが。


「そんな訳ないよ」


しかし、彼は即答した。

僕の予想と反した。

好きではないにしても、もっとオブラートに包んだりするつもりはないのか。




「俺、彼女いるし」




「は?」






カラスが、橙色の空を飛んでいる。


「あれ、言ってなかったっけ?」


直哉は呟いた。



僕は絶句した。


え?

じゃあ、僕の告白は何だったんだ?


まさか…


無駄!?




僕は初めて、自分の馬鹿な行動を後悔した。


そして、どうしても諦められない自分が、顔を出した。



「お前、そんなショックだったか?」


直哉は僕を慰めてくれた。

駅前のコンビニでブラックサンダーを買ってもらった。

だが、そんなことで取り返しのつく単純な問題ではなかった。

僕は礼だけ告げて、別れた。



紅葉の時期は既に去り、近所の公園の木も丸裸にされている。


僕はそれを見つめながら、ゆっくりと坂道を下る。



自分は、なんてことをしたんだ。

本当に、つまらない男だ。


こんな馬鹿な話、そうそう無いだろう。



僕は大声で叫びそうになった。

だが言葉にならなかった。



たまらなく、伊藤に会いたかった。

どうせなら、気軽に愚痴を吐けるような人が欲しかった。

今、あいつはどこにいるのだろう。



しかし、一度諦めた榎本さんへの恋心も、今はまたチューインガムみたく膨らみ始めている。

そしていつか弾けるだろう。

だからそうなる前に、止めなければならない。

そう思ってはいるものの、どうしようもないのが悔しい。

直哉に押し付けることができなくなって、辛い。


「いや、押し付けた訳じゃない。譲ったんだ。」


そんな言い訳が毎回、脳裏をよぎる。



ポケットの中に手を入れて、家の鍵を取り出す。


扉を開くと、僕の部屋から妙に下手くそなチェリーが聞こえてきた。



やはり、伊藤がいた。

久しぶりに彼の顔を見た。

彼は、いつも以上に元気そうであった。


彼は僕を見て、突然ニヤついた。


僕はホッとした。

僕が彼を怒らせてしまったことを、もう忘れているらしい。


「どこに行ってたの?」


僕は尋ねた。


ーー俺の友達のとこーー


彼は普通に答えた。

東京までわざわざ、新幹線に乗って行ったらしい。

元気なやつだ。死んでも活発な野郎だ。

羨ましい。


伊藤は風呂に入りたいと言い出した。

伊藤が1週間ぶりの入浴を楽しんでいる間、僕は何度も自問自答を繰り返した。


伊藤に、今日のことを話そうか。

彼に頼りたいという気持ちも山々だが、頼りっぱなしもどうかと思う。

そろそろ、自立してみるか。


部屋の窓を開けた。

夕方の清爽な空気が、部屋の中に流れ込んでくる。



伊藤がパンツ姿で帰ってきた。


ーーお前、最近楽しいか?ーー


伊藤は単刀直入に聞いた。

僕は驚いた。


「普通かな」


僕は正直に答えた。

そんなつもりだった。


ーー榎本さんのことは、もう全く未練が無いんだな?ーー


彼は、僕の悩みどころを矢のように鋭く突き刺してきた。


一瞬、いや数秒、悩んだ。

やはり、彼に言わなければ気が済まない。

もう少しだけ、彼に頼ろう。

僕はまた、自分の意見をひっくり返した。


僕は、彼に伝えた。

今日のことも、この前のことも。

全てだ。



言葉にすればするほど、自分の自己中心的な一面に気付かされた。



それに比べて、直哉は…。



ーーじゃあ、結局どうすんだよーー


彼は僕の話にじっくりと耳を傾けた後、言った。


ーーただ振り出しに戻っただけだぞーー


彼は続けた。

僕は軽く頷いた。


ーー好きなら、諦める必要はどこにもないーー


僕も、そう思う。

だが、何かが僕の首を絞めているようだった。


伊藤は溜息をついた。


ーーお前の悪いとこはそこだよ。どうせ駄目だろう、とか思ってんだろーー


彼の言葉はいつも痛いところばかりを突く。

僕は動揺せざるにはいられなかった。

確かに、そう思っていた節もあっただろう。


ーーその考えが既に自己中心的だ。失敗するのが怖いだけだろーー



失敗…。

僕は既に一度失敗している。

だからこそ、怖い。


あの彼女の目が恐ろしすぎたのだ。明らかに、僕を拒絶している目だった。

それはつまり、彼女は直哉が好きだから当然のことだ。


いつの日か、僕のことを見る目が優しく、穏やかになる日が来るのだろうか。

そう願ってやまない。


きっと、希望は1パーセントに満たない。

だけど、チャレンジする価値は、ないことにはない筈だ。


片思いだけの青春時代だっていいじゃないか。

将来思い返した時に、あの頃は全力だったなと、思える恋がしたい。



僕は伊藤に、再度挑戦する旨を伝えた。











- [ ] 第2章





とは言っても、状況は非常に厳しい。


席替えをしない限り、僕と榎本さんはこの気まずい空気から抜け出せない。

彼女の隣であるということは距離を詰めるチャンスにもなり得るが、さらに遠のく可能性も大いにあるのだ。


直哉には彼女がいるということを、榎本さんに伝えることで諦めさせるというのも1つの手だが、そんな卑怯なやり方はしたくない。


少なくとも、彼女だけは傷つかせたくない。

こんな僕でも、そう思う。

それだけ、僕も成長した。


色々と試行錯誤を繰り返しながら、何も手が出せないままあっという間に1ヶ月が経った。


しかし、急に事態は動いた。




「次、実験室だぞ、駿ちゃん」


直哉が僕を急かした。


「そうだっけ?」


僕は慌てて授業の用意を済ませ、実験室へと走った。


そしてチャイムとほぼ同時に、僕は席に着いた。


実験室では榎本さんは、2列前の、一番右の席に座っている。

僕は彼女の方に目を向けた。


彼女はずっと、何かに囚われているかのように、俯いたままだった。

見て取れるほど、元気がない。


しかし、彼女の様子がおかしいのは、今日が初めてではなかった。

1週間ほど前から、ずっとこの調子なのだ。


当初僕と伊藤は、直哉の彼女の件が漏洩した可能性を疑った。

しかし念のため直哉に確認してみると、僕にしか教えていないと言い張るのだ。

(彼の彼女は他校なのでそっちからの情報漏れは考えにくい。)

理由がわからない以上、助けてあげたくても何もしてあげられなかった。

それは僕にとって、とても悔しかった。




「最近、榎本さんの様子おかしいよねー」


直哉が帰り道で突然、ぼっそりと呟いたのを僕は聞き逃さなかった。


「え、直哉もそう思う?」


直哉は頷いた。

そして僕に疑いの目を向けた。


「駿ちゃんは襲ったりしてないよね?」


んなわけあるか。


僕は真っ向否定した。


「嘘だよ。お前のせいなわけないじゃん」


直哉は笑った。

僕は胸を撫で下ろした。


「駿ちゃんはそんなことしないもんな」


もちろん。

僕は、人を傷つけるようなことは絶対にしない。

しかし、僕が疑われるのもなんだか分かる気もするのだ。


僕に告白されて、気分が悪くなった……?

それが引き金になっても、なんら不自然なことはない。

そう思っている人も、少なからずいてもおかしくはない。


「お前、榎本さんのことまだ好きなの?」


直哉は僕にそう尋ねた。


僕は認めた。

直哉は少し、驚いた。


「応援してっから」


直哉はそう言ってくれた。

僕は心底、彼に感謝した。



近頃は、陽が沈むのが少しずつ早くなっている気がする。

空を見上げても、夕焼けは既にない。

至極つまらない空になった。


今日は珍しく、妹が夕食を作っていた。


母親がまた体調を崩してしまい、今日はずっと寝込んでいるらしい。


「味噌汁だけでいい?」


妹は僕が帰ってくるなり、キッチンから大声で聞いてきた。


「嘘?それだけ?」


「文句言うんなら自分で作ってよね」


結局、味噌汁と白飯だけの質素なものになってしまった。

しかし、たまにはこういうのも良いかもしれない。

兄妹でだけでご飯を食うのも、今後そう多くはないだろう。


「母さん、どうなの?」


やがて話題は母に移った。


「胃が痛いんだって」


妹は米を頬張りながら答えた。

割と、男っぽいところがある気がする。


「でも、お喋りしてたらだいぶ楽になるらしいよ」


やはり、精神的にも誰かが側にいた方がいいのか。


僕は母と榎本さんを重ね合わせざるを得なかった。

榎本さんも、誰か相談でも出来る人がいたら気が楽になるのかなぁ。


「へぇー」


僕は適当に返事をして、食べ終えた食器を下げた。

その後、僕は妹の言う通り、母の部屋を覗いてみた。

母はベッドの上で布団にくるまって、パズドラを楽しんでいた。

もう大丈夫そうだ。


「母さん、もう元気か?」


「いぇあ」


帰国子女の母は、何かと日常生活の会話で英語で答える癖がある。


いつも通りの母を見て、僕は安心した。

そして妹にも、元気そうだと伝えた。


妹は嬉しそうに微笑んだ。

そして伊藤も口角を上げてニヤニヤと奇妙な笑顔を浮かべた。


ーーお前の妹、可愛いじゃねぇかーー


何を言い出すのかと思ったら、至って大したことのないことだった。




「とっがぁああしくぅぅぅうん」


僕と伊藤が歩いているずっと後ろの方から、誰かが僕を呼んでいる。


ーーおいおい、誰だよあの女の子ーー


振り返ると、すごい遠くから武井さんが猛スピードでこちらに走ってくるところだった。


「武井美沙さん。隣のクラスの。」


僕は名前だけ教えてあげた。詳しいことは話さない。

彼女はあっという間に僕に追いついた。

そして、宿題が終わらんと一言愚痴を吐いた後、また学校に向かって走っていった。


ーーすごい慌ただしいなぁーー


伊藤がそういうのも無理はない。

彼女はいつも走っている。とにかく活発的な子だ。

僕が高2に進級してから滅多に会って話すことはなかったが、1年の時はそこそこ仲が良かった。



ホームルーム教室のドアを開けると、またいつものようにクラスメイトが騒いでいた。

そんな中、僕は自分の席に座った。

右隣には誰もいない。

普段は僕より早く来ている彼女の姿がない。


近頃は毎日のように学校についてくる伊藤も、そのことに気付いたようだった。

彼は首を傾げたまま動かなくなった。



4限目の数学の時間だった。

先生が前で意味不明な公式について解説していたら、後方の扉の開く音がした。

そして僕の隣に腰を下ろした。


榎本さんだ。


僕はホッとすると同時に、寝起きのようなボーっとした彼女の姿が見るに耐えなかった。


彼女をそうさせている存在が、僕を苛立たせた。

しかも、その正体すらわからないなら尚更だ。



僕はその時間中、いつも以上に彼女が気になって仕方なかった。

授業なんて上の空で、そんなことより彼女が好きでどうしようもないのだ。


彼女が溜息をつく度、僕はそっちを見てはあたふたしてを繰り返した。


ーー子離れできない母親かよーー


伊藤にそうやって皮肉られた。


でも、子離れがいい親の方が問題は多いと思うのは僕だけだろうか。

それならやっぱり、僕がいた方がいいのか?


一歩間違えたらストーカーの域である。

既にそのラインを半歩ほど入ってそうである。


でも、自覚があるだけまだマシか。



あっという間に、チャイムが鳴った。


黒板には、見慣れない記号が沢山並べられてあった。

意味がわからない。

テスト前になったら、伊藤か直哉に聞こう。


とりあえず、今は目の前にいる彼女を助けてあげたいのだ。


「あっ」


コツンと、僕の左足に何かが当たった。

視界をずらして覗き込むと、榎本さんのシャーペンが足の横に落ちていた。

僕はその可愛らしいシャーペンを拾い上げ、彼女の机の上に乗せた。


このタイミングだ!、と言わんばかりに、脳内が動き出して、言葉が這い上がってくる。


僕はそれを飲み込みきれなかった。


「体調、悪いの?」


口から出たきた質問が割と直球で、僕自身焦った。




榎本さんの動きが止まった。

目が泳いだ。


「うん。大丈夫」


彼女は嗄れた声でそう言い残し、財布を片手に教室を出て行った。

僕は彼女の淋しげな後ろ姿を、ただ見送ることしか出来なかった。

いつかの彼女の無邪気な姿は、跡形も無く消え去っていた。




昨日の曇り空とは打って変わって、今日は空自体が眩しい。

冷たい空気と強い日差しが相殺しあって、丁度良い心地良さだ。



僕と伊藤の会話も弾む。

不注意で赤信号も見落として渡ってしまいそうなほど、盛り上がった。


その彼の話によると、彼は最近の音楽ブームに乗っかれていないようなのだ。


ーーあ? よねづけんし? ーー



「有名じゃんか。lemonとか、アイネクライネの人だよ」


彼は首を傾げた。

恐らく、2曲とも彼の検索エンジンには引っかからなかったのだろう。


「伊藤のとこじゃ流行ってなかっただけかな?」


優しくフォローしてあげる。

きっと彼は地方の農村育ちなのだろう。


ーー新宿なんだけどーー


まさかの大都市で僕は仰天した。

きっと彼は耳を塞いで街を歩いていたのだろう。

そうでもなければ、どうして米津玄師を知らずに生きていけるんだ?


ーーこの前さ、東京出身って言ったよね?ーー


記憶を辿る。

なかなか思い出せない。



と、その時、僕のカバンが後ろに引っ張られた。





驚いて背後に目を向けると、榎本さん……ではなく武井さんだった。


目をまん丸くして、僕を見ている。

僕はたじろいだ。


「ねぇ、さっきから誰と喋ってんの?」


僕は焦った。


「いや、あの、あれだよ、独り言」


彼女はふーんと、まだ半信半疑な様子で僕のカバンから手を離した。


僕は胸を撫で下ろした。

これから伊藤と喋るときは、

もう少し気をつけよう。


「話変わるんだけど」


武井さんはそう言ってまた歩き始めた。

僕も慌てて付いていく。


「あんた、奈々に告白したんでしょ?」


問い詰められた僕は仕方なく首を縦に振った。


「振られたくせに昨日、奈々に普通にアタックしたらしいじゃん」



いやいや。

アタックなんかしていない。

ただ喋っただけだっつーの。


「全くの誤解だよ」


僕の必至の弁明にも、武井さんは耳を貸そうともしない。



「だって本人がそう言ってたし」



僕はますます榎本さんの心境がわからなくなった。



その日、数学の補習が終わってから家に帰った。

既に時計の針は7時‬を回っている。‬


あり合わせの食材で作った麻婆豆腐を腹に入れて、早々と部屋に戻った。


ちょうどその時に、僕のポケットの携帯が鳴った。

見ると、榎本さんからメールLINEが届いていた。


僕は思わず微笑んでしまった。

伊藤はそんな僕を鼻で笑った。


僕たちは地べたにあぐらをかいて座り込んで、一台の携帯を覗き込んだ。



(私から言うのも変なんだけど、もう一回友達からやり直さない?)



え?


僕の体を謎の閃光が走った。

ニヤニヤが止まらない。


隣の伊藤は眉間に皺を寄せている。


ーー今まで友達じゃなかったのかよーー


言われてみれば、確かにそうである。

だが、そんなことを気にしてちゃダメだ。


もう一回やり直せるチャンスを手に入れたんだ。

僕は心底嬉しかった。



週明けの学校は、いつもと違う雰囲気に包まれている気がした。


サングラスを外した時のように、ありとあらゆる景色が明るく見えた。

心弾む気分である。

久々のそんな感覚に、僕は暫く浸っていた。


その時、僕の肩を誰かが叩いた。


「おはよ」


紛れもなく榎本さんだ。

彼女の透き通った声は、心に染み渡っていった。

彼女は少し照れ臭そうにしていた。

それがまた、途轍もなく可愛かった。


しかし、やはり様子が変なのだ。


休み時間に右を向いて雑談に花を咲かせることはあっても、笑うことはない。

そんな彼女に、安安と話しかけるのも、躊躇われた。

そして彼女から声をかけてくるのもそれっきりなかった。






放課後、直哉に呼び出された。


「スポーツ大会、近いだろ」


直哉はいきなり、そう切り出した。

僕は渋々頷いた。

まず、やる気がない。


運動が苦手な僕は、今までそれを遠ざけてきたのだ。


「サッカー、練習するぞ」


直哉は力強くそう言った。

やる気があるのはいいことだが、直哉は誘う人を間違えていると思う。

なぜ、よりによって僕なんだ?


「んじゃ、明日、7時‬な」‬


かなり強引に話を言いくるめられた。

しかし、こうなってしまったら彼を放っておくことも出来ない。

僕は押されても押し返せないタイプだ。

悩んだ挙句、行くことにした。



そして次の日、6時‬前に起きて指定された時間に学校に行くと、既に多くの人が練習に勤しんでいた。‬

僕と直哉もそれに混ざってボールを蹴った。

しかし、なかなか体は言う通りに動いてくれない。

僕の不器用さに見かねた直哉は、自分の練習をやめてつきっきりで教えてくれた。


1日目、ルールを理解した。


2日目、狙ったところにパスが通るようになった。


3日目、トラップが形になってきた。


4日目、直哉相手にシュートを1本(20本中)決めた。



そして、これが僕の4日間の限界だった。


やれることは、全部やった。

そこは直哉も、伊藤ですらも褒めてくれた。

ここまで頑張ったんだから、明日いい働きができたらいいなぁ。

優勝できたらいいなぁ。


そんな感情が込み上げてきた。



ーー活躍しろよーー


伊藤にそう言われた。


ーーそしたらモテるぞーー


もちろん、そうだろう。


たった4日間だが、本気で練習した。

それなりには、上手くなっている(はず)。


ひょっとしたら、榎本さんだって見てくれるかもしれない。

前の日から、ニヤニヤが止まらない。



いつもより大股で、教室に入る。


みんな、やる気に満ち溢れていた。

僕も、今やその1人だ。


これまで積極的に行事に参加していなかった。

煩わしいと思っていた。


だけど今回は違う。


ただひたすら、全力で力を出し切りたい。

体操服に着替えると、一層その想いは強まった。




長ったらしい校長の開会宣言を終えると、とうとう待ちに待ったスポーツ大会が始まる。

最近の寝不足を吹き飛ばす日差しが、上からも下からも僕を襲う。

12月にしては暑すぎる。

僕は、念のために余分に来ていた上着を、脱いで朝礼台の上に置いた。


そうこうしているうちに、1試合目がキックオフした。


1試合目はD組対A組。


熱戦を制したのはディフェンスで安定感を見せたD組だった。


「あれは厄介だ」


直哉も、かなり警戒しているようだ。

彼等とは、上手くいけば2回戦で相見えることになる。


問題は、1回戦だ。


僕らは1回戦で、C組と戦う。

サッカー部数人在籍している、優勝候補の1つだ。

だが、我らがB組も直哉を有している。

熾烈な戦いになるだろう。


なんだか、緊張してくる。



そして、すぐにその時はきた。


足がガクガクして、ろくに歩けていない僕を見て、伊藤が口を開いた。


ーー負けることはない。ーー


「わかんないよ。相手も強いし」


伊藤はニヤッと笑った。


ーーまあ、見とけーー


彼は彼なりに、勝たそうとしてくれているんだろう。

めんどくさいし、放っておこう。



そう思って一歩を踏み出した時に、


「頑張って」


そんな榎本さんの声を、背中で感じた。

なんだか、それは僕に向けられたもののような気がした。


もちろん、確信はない。


だが、自信はあった。


今なら、メッシ並みに上手いかもしれない。

僕はまたニヤついた。




一進一退の攻防が続いた。

だが、なかなか決めあぐねていた。


そうこうしているうちに、あっという間に前半は終わった。


そして肝心の僕は、何もしていない。

ボールにも、一度も触れていない。


だが、ここまでくると、自分の活躍なんてどうでもいい。

僕はチームの勝利に尽くそう。

ディフェンスなら、目立たないけど多少は役に立ちそうだ。

女子の目を気にしてプレイしてても、いいことなんか何もないだろう。



そんなことを考えながら、座って水を飲んでいたら、伊藤がどこからか走って帰ってきた。

やけに嬉しそうだ。


ーー相手の作戦がわかったーー


なるほど。

C組の作戦会議を聞きに行ってたのか。

ずる賢いにもほどがある。


ーー両サイドに強い奴が集まる。そこから中央のでかい奴にクロスを上げて、ヘディングだーー


ということは、三上と菅野が左右に分かれて、2メートル10センチのドミニカ人ハーフ、杉野・マイケル・ジョージ2世キーパーを離れて、点を取りに来るってことか。

じゃあ、僕はジョージ2世を徹底的にゴール前には入れさせないでおこうか。

いや、僕じゃ到底…



ーーほら、早くみんなに言わなきゃーー


伊藤が急かす。


そう言われたって、どう言えばいいんだよ。

流石に、相手の作戦聞いてきました〜てへ、はまずい。


ーーほら、始まるぞーー


審判が笛を鳴らした。

休憩を終えた選手がコートに戻っていく。


しょうがない。

ここは無理矢理。


「みんな!ちょっと一回集まって」


半分ぐらい集まったところで、言う。


「たぶん、相手は三上と菅野を使って、ジョージ2世にクロスを上げてくる」


たぶん、を強めて言った。

みんな頷いた。


「ジョージ2世は絶対に中に入れないでおこう。徹底マークだ」


またもや、みんな頷いた。

わりかし、信じてくれていそうである。


「じゃあ駿ちゃんと、牧田と富池、ジョージ2世よろしく」


直哉がそう締めくくった。

無事、みんなに信じてもらってよかった。


そして僕は所定の位置についた。


間も無く、後半が始まった。





ーーふざけんなぁぁぁああああーー


と、右から伊藤が飛び出てきた。

そしてジョージ2世の蹴ったボールは、伊藤の右手にあたり、右に逸れていった。


「ふぁっつ!?」


めちゃくちゃ驚いている。


ーーぬははははははぁあぁーー


伊藤は、両手を空に掲げて、大声で笑った。

こいつにはいつか、天罰が下ると思う。


直後、直哉が僕に駆け寄ってきた。


「大丈夫か?」


「いや、足首が痛い。」


「うわぁ、こりゃひでえ」


すぐに審判が笛を鳴らし、試合は一時‬中断になった。‬

僕は交代させられた。


ーー後は任せろ。優勝させてやるぜーー


伊藤は僕の心配など一切せずに、すぐにコートに戻った。

僕は保健室に運ばれた。

この試合だけは見ていきたいと駄々をこねたのだが、聞いてくれなかった。






「ただの捻挫ですね」


保健室の若い先生は僕の足を見るなり、すぐにそう言った。


「何して、こうなったの?」


「相手とボールを同時に蹴ろうとした時に、グネッちゃって」


軽く頷いた。


「とりあえず、冷やしましょ」


そう言って僕に氷を渡した。

僕はそれを右の足首に当てた。

まだ、だいぶ痛む。


「なんかあったら、また言ってくださいね」


そう言って、先生はカーテンを開けて奥の部屋に入っていった。



ふと思った。


試合、どうなってるんだろなー。

もうそろそろ、終わっている頃だろう。

1回戦ぐらい、余裕で突破してほしい。

クラスで団結できる、最後の機会だ。



その時、ガラッと、保健室のドアが開いた。


「いいニュースだよ」


入ってきたのは、榎本さんだ。


「直哉君が、最後に決めてくれた」


僕は胸の前で小さくガッツポーズをした。

純粋に、嬉しい。


しかもそれを彼女の口から聞けて、一層嬉しい。

彼女は窓の近くに置いてあった丸椅子を、近くまで持ってきてから腰掛けた。


「大丈夫?」


「うん。ただの捻挫」


「そうなの?ジョージ君に思いっきり蹴られてたから、骨折かと思った」


彼女は右手で口を押さえて微笑んだ。

足の痛さが吹き飛んでしまうほど、彼女の笑顔に見惚れた。


「みんなは?」


「試合だよ」


「行かないの?」


僕は聞いた。

本当は行ってなんかほしいわけがない。


「直哉君がね、寂しいだろうから、そこにいてあげてって」


直哉…


なんでそんなかっこいいこと言えんだよ。

そういう優しさが、モテる秘訣なんだろう。

少なくとも、それは僕にはない。


「あいつ、カッコつけやがって」


榎本さんは、ふふっと笑った。

そして頷いた。


「でもね、もう彼は諦めた」


「え?」


榎本さんの衝撃の告白に、僕は自分の耳を疑わずにはいられなかった。

彼女は続けた。


「私にはもったいないかな。完璧すぎて」


「……」


僕は返す言葉もなかった。

いや、正確には、なんて言ったらいいかわからなかった。


「今日の富樫君、とってもよかったよ」


「あ、ありがとう」


「ずっと見てた」


え…


榎本さんは、僕を妖艶な目で見た。

心臓の鼓動が、部屋に響き渡った。


彼女の思わせぶりな言葉は、僕を嬉しくもさせたが、どこか彼女らしさが欠けているように感じた。


彼女にしては、下品だ。


少しの間、沈黙があった。


彼女は、時折窓の外を見て、溜息をついた。

僕も彼女も、悩みは尽きないんだなぁ。


「なんか、あった?」


「え?」


僕はたまらず声をかけた。


「最近、なんか、変わったから」


榎本さんは、下を向いて黙り込んでしまった。


「ごめん、そんなつもりじゃ…」


彼女は首を横に振った。

少し涙目になっているように見えた。


「大丈夫?」


僕は足の痛みを我慢して彼女の方に歩み寄った。

背中を、軽くさすってあげた。


「実はね」


彼女は口を開いた。















「幽霊が見えるの」










「ゆ、幽霊?」


彼女は首を縦に振った。


おい、まさか、幽霊って…

そういうことなのか?


僕の頭上で、いろんな可能性が渦巻く。


「それってさ、榎本さんの知ってる人?」


彼女は首を横に振った。

もしや、僕と同じパターンなのか?


「喋りかけたりした?」


「うん。たまに返事もしてくるの」


彼女は鼻をすすった。


会話ができる幽霊なんて、もうあれしかない。


もしかして、本当に…

万が一、そうなら、僕も力になれるかもしれない。


なぜなら、僕にも伊藤が見えるのだから。


「その日から毎日、幽霊に見られてる感じがして、すごい気持ち悪いの」


それにしても、妙な話だ。

なぜそいつは彼女に名乗らないんだ?

そいつは、誰なんだ?


沸々と疑問が湧き上がってくる。

怖い。

怖すぎる。


一体全体、彼女は今どんな状況に置かれてるんだ?


僕は彼女を見つめた。

どこか、責任を感じざるを得なかった。





ーーはい?ーー


伊藤は首を傾げた。


ーーそれ、本当か?ーー


「ほんとだよ」


僕は事情を説明した。

伊藤は彼らしくない神妙な面持ちでそれを聞いた。


ーー謎だなーー


彼は一言そう呟いた。

僕も同調した。


ーーその幽霊は本当にSLWの人間が取り憑いてるだけなのか?ーー


僕にも、わからない。


ただ、どうしてもその可能性を疑わずにはいられない。

伊藤によると、彼等SLWの人間は、お互いに姿が見えるらしい。


僕は彼に、監視を頼んだ。

彼は承諾した。

榎本さんの秘密を探るべく、僕らはまた動き出した。






- [ ] 3章








学校に向かう電車の中で、昨日の彼女がフラッシュバックする。


応援している時のはしゃいでる姿。


保健室に入ってきた時の笑顔。


椅子に座っている時の後ろ姿。


僕にあの話を打ち明けた後の顔の表情。


あの話に偽りはないだろう。

しかし、彼女の言動には、何らかの偽りが隠されているように見えた。


昨日の彼女は、明らかに僕を試していた。

一つ一つの仕草が、あざとく感じた。


もちろん、僕は今でも彼女が好きだ。

だけど、昨日の彼女は嫌いだ。

僕は、そう感じてしまった自分が怖かった。


こんな感情を抱いたのは、初めてだ。


そしてこのことは、伊藤や直哉も含め、誰にも言えなかった。



ーーおい、降りるぞーー


伊藤にそう急かされて、僕は慌ただしく電車を飛び降りた。



正門の前で、武井さんに会った。


「足、大丈夫?」


「まだちょっと痛い」


僕がそう答えると、武井さんはカバンの中から四角い箱を出した。


「はい、これ。テーピングのやつ」


そして、僕にそれを手渡した。

僕はありがたくそれをもらって、礼を言った。

彼女は小さな声でバイバイと言って、足早に校内に入った。

嬉しかった。



僕は教室に入るなり、榎本さんが声をかけてきた。


「今週の日曜、空いてる?」


彼女は笑顔だ。かつてのように。


「まぁ、空いてるけど」


「よかった」


彼女は喜んだ。


「それより、昨日のことは大丈夫なの?」


「次、幽霊が出たらまた言うよ。最近はあまり見ないの」


なーんだ。


彼女はそう言うと、微笑んで教室を後にした。

深刻な様子は、全くなかった。

騙されてはいないが、騙された気分になった。

無駄に心配してしまっていたみたいだ。


僕は大きくため息をついた。




約束の難波駅に、一足先に着いた。


手元の時計を見た。

まだ朝の11時‬前だ。‬


12月の冷たい風が、高層ビルの間を吹き抜ける。

もうすぐクリスマスだからなのか、街は赤と緑で埋め尽くされていた。

目の前には、仲睦まじいカップルが手を繋いで歩いている。

僕は変な男と2人、ベンチに腰を下ろして榎本さんを待った。


11時を少し回った時、人混みの中から彼女が姿を現した。‬‬


「ごめん、待った?」


僕は首を横に振った。

一言二言、言葉を交わすと、彼女は戎橋の方へ歩き出した。

その途端、何故か少し帰りたくなった。



日曜日の難波は、人で溢れかえっている。

榎本さんは、それを掻き分けて、勇敢に進んでいく。


片手で、僕の右手を掴んだまま。


やがて、彼女は立ち止まった。


「ここだ!」


左手の、多数の飲食店が入った雑居ビルを指差した。

エレベーターで3階に上がった。

右手に風月があった。

ここで食べようと、彼女は言った。

僕は同意した。



僕はぶた玉、彼女はえび玉を頼んだ。

それぞれをシェアすることになった。


「よく来るの?」


「たまーにだけどね」


「家族と?」


「うん」


そんな会話をしているうちに、店員さんが目の前の鉄板に具材を乗せた。

それと同時に、香ばしい匂いがした。


「美味しそー」


彼女は必要以上に大きな声でそう言った。



だんだんと、店内にお客さんが入ってきた。

殆どの席が埋まった。

隣のテーブルに、3人の親子が座った。

楽しそうに、会話をしながらお好み焼きを食べていた。

榎本さんは、寂しそうに彼らを眺めた。


そして何故か伊藤も、同じように彼らを見た。


「どうかした?」


僕は彼女に尋ねた。


「いや、なんか楽しそうだなぁって」


「えっ?」


「私、母親いないの」


彼女は、ヘラを片手にそう言った。

僕は動揺した。

今までは、そんな話をしたことがなかった。


彼女の、踏み込んで欲しくない場所に入った気がした。


「ちょっと、黙んないでよ」


彼女に、肩を突っつかれた。


「ご、ごめん」


彼女は微笑んだ。


「私が物心ついた時には、もうママはいなかったの。だから、ちょっと羨ましかったの」


「そっか…」


本来は楽しいはずの食事も、少し暗い話題で包まれた。




僕らはそのビルを降りると、先程来た道を戻った。

まだ人はたくさんいた。


「ねえ、手繋ごうよ」


「え?」


僕は返事する間もなく、彼女に右手を取られた。

温もりが、僕の手を包んだ。


人混みの中、彼女に引っ張られて、街を歩いた。

左手に大きな白い建物が見えた時、彼女はやっと立ち止まった。


「なんばグランド花月だよ」


「あ、はあ」


彼女は僕の手を持ったまま、チケット売り場に並んだ。


結構お高めな席を買った。

僕の懐をかなり傷つけた。


かなり帰りたくなった。

彼女のテンションに、ついていけない。

こんな彼女には、ついていけない。


気づいたら、既に新喜劇も終わっていた。


「面白かったね」


「うん」


僕は曖昧に返事をした。

ドシッと一瞬にして疲れが溜まった。

彼女は依然として笑顔のままだった。

僕は建物を出ると、早々に別れを告げた。


「えっ、もう帰っちゃうの?」


僕は頷いて、彼女に背を向け歩き出した。




区間急行の電車に飛び乗った。

賑やかな難波を後にして、その電車はすぐに発車した。

あっという間に、都会の高いビルが見えなくなった。

道を行く人の数は疎らだ。


伊藤は僕を責めた。

乱暴な言葉を僕に浴びせた。

彼はかなり感情的になっていた。


ーー何考えてんだよーー


僕は黙った。


ーー榎本さんのこと好きなんだろ?ーー


その通りだ。

僕は彼女が好きだ。

だけど、今の彼女は違う。

僕の好きな榎本さんじゃない。


ーーおい、聞いてんのかーー


伊藤は僕の肩を何度も叩いた。

僕は、どうしても彼と話す気になれなかった。

彼もそのうち、何も言わなくなった。

その間僕は、ずっと自分を責めていた。

好きな人の、欠点ばかりが目に入る。

完璧だからこそ、彼女の態度があざといと感じる。

だんだん、こんな自分が嫌いになっていった。



帰り道、近くの公園に寄った。

桜の木は、花どころか葉一枚つけずに佇んでいる。

その木の下の、ペンキの剥げかけたベンチに座った。

伊藤も静かについてきた。


1時間ほど、日が暮れるまで彼女のことについて考えた。‬‬

だけど、考えれば考えるほど、彼女が小悪魔になっていく。

いつか油断した僕を食い尽くすかもしれない。

ただ僕を誘惑して、遊んでいるだけだ。

そうでなきゃ、僕の手を握るなんてことはしない。

僕のことなんか、好きでもなんでもないんだろう。

ただ僕に好かれたいだけだ。


僕は怖くなって、逃げるように家に帰った。



それは火曜の朝‬だった。‬

去年同じクラスだった後藤が、僕に用があると言った。


「用って?」


「いいから、昼休みにあそこに来い」


彼が指差したのは、階段の踊り場だった。


「あそこ?」


「ああ、あそこ」


僕は色々と不審に思ったが、次は移動教室だったので詳しく聞く暇もなかった。



しょうがなく昼休み、弁当を食べてからそこに出向くと、後藤ではなく武井さんがいた。


「あれ、ごとぅー知らない?」


「ごめん、そうじゃなくて」


「ん?」


「私から話があるの」


え?

どういうこと?


僕は首を傾げた。















「好きです」












「え?」


急に、頭痛が僕を襲った。


貧血で倒れそうになった。

手すりを持って、なんとか重い体を支えた。


どういうこと?


全く状況が整理できない。

そして真っ先に、榎本さんの顔が浮かんだ。


「いや、でも…」


「わかってる」


彼女は食い気味にそう言った。


「だから、付き合ってとは言わない」


ますます、意味がわからない。


「ただ、伝えたかっただけなの」


彼女の口元は、無理やり笑っているようだった。

しかし、目からは涙が溢れていた。


「またね」


彼女はそう言い残して、どこかに行った。


僕はそれを見届けた。

後を追いたかったが、できなかった。


やはり頭の中の榎本さんが、僕の行く手を阻んだ。


もしも今、許されるなら、武井さんに思いっきり抱きつきたい。

彼女の優しさに包まれたい。

そう思った。



武井さんに告白されたのは、完全に想定外だった。

彼女が僕をそういう風に見てたなんて、まるで考えもしなかった。



数分後、教室に戻った。

まだ弁当を食べている人もいた。


榎本さんも、数人の女友達となんやら楽しそうに喋っていた。


椅子は冷たかった。

お尻がかじかんだ。

机に伏せて寝ようと思っても、寝れない。

落ち着かなかった。








ーーおかえりーー


「うい」


今日、伊藤は学校に来なかった。

野暮用があったらしい。


僕は荷物を床に下ろした。


ーー今日、榎本さんと喋った?ーー


「うん。ちょっとだけ」


ーーいい感じ?ーー


「まあ、そうかな」


彼は満足気な顔で笑った。

僕よりもずっと僕のことを思ってくれている。


だからこそ、言えないのだ。

彼女に、呆れつつあることを。

今日も、彼女の方から積極的に話しかけられた。

時にはしょうもないことでも、僕に尋ねてきた。

僕はその度に作り笑いを見せるしかなかった。


もう疲れた。



ーー俺、すっごい榎本さんにシンパシー感じるんだよねーー


「なんで?」


ーー俺は父親がいないんだーー


「え?」


僕は驚いた。


ーーだから、俺も彼女みたいに親がいない辛さがわかるーー


「そっか…」


伊藤にも、そんな過去があったのか。

その割には、やけにハイテンションだ。

それこそ、彼の強さなのだろう。


羨ましかった。




晩御飯は、珍しくカレーだった。

僕の母親がカレーを作るのは実に2年ぶりなのだ。

僕も妹も、驚いた。


「ヘイ! レッツ ハブ ア ディナー!」


食卓には楕円のお皿が、4つ並んでいる。

なぜか1人分多い。


「これ、誰の分?」


妹が尋ねた。


ーー俺のじゃね?ーー


伊藤が口を挟む。

しかし、残念だがそれはない。


その時、玄関のドアの開く音がした。


「ただいまぁ」


父の声だ。

なるほど。

4人目は父のことか。


「なんだ、お父さんか」


妹はややつまらなそうに言った。


「そんな言い方はないだろ。ふへへへへへへへへへへへへ」


父は癖のある笑い方で笑った。

僕らもそれを聞いて笑った。


久しぶりに、家族全員が集まった。

みんなでカレーをたらふく食べた。


「お土産、いる?」


父はスーツケースを開けて、なみやらカラフルな紙袋を取り出した。

妹はそれを受け取ると、中から高級そうな箱が出てきた。

包み紙を剥がすと、東京限定と書かれたお菓子が出てきた。


「うまそー」


僕はたまらず声を出した。


「東京ばな奈だよ」


美味かった。

甘いものが苦手な僕でも、そう感じた。


父が帰ってきた我が家は、笑顔に包まれた。


だけど僕は複雑だった。

伊藤とあんな話をした後に、自分だけ家族と楽しく過ごしているのは、どうも不謹慎な気持ちがした。


彼がもとから父親がいない。

ましてや今や一人ぼっちだ。

今まで、どんな孤独を味わってきたんだろう。

そんなことを考えたらきりがない。

可哀想の一言で済むことではないのだろう。


僕は後ろを振り返った。


伊藤はきっとしんみりとしているのだと思ったら、違った。

父や母の言葉で笑ったり、頷いたり、彼も僕らの家族の一員のように楽しんでいた。

僕は1人、感心した。


こいつはやっぱり、凄いやつだ。

今まで見くびっていたが、彼の本当の姿は最初の印象とは全く違う。


鉄人だ。

僕はもっと、彼から見習うべきことが沢山あるように思った。








目覚ましが鳴った。

分厚い毛布を蹴って、ベッドから這い出る。

カーテンを開けても、日差しは弱い。

ただ激しい雨の音だけが入ってきた。

それだけで僕は憂鬱な気分だ。


朝の電車の混み具合は、いつもより一層酷かった。

電車のモーター音を搔き消すほど大きな音を立てながら、空がピカッと光る。


学校に着いた頃には、風も強まっていた。

誰のものかわからない無数のプリントが、空を舞っていた。

傘を持つだけで精一杯で、鞄はびしょ濡れだ。


「おっはー」


榎本さんは、天気とは相反するテンションで、僕に声をかけた。


「おはよ」


少し僕の態度が冷たかったのかもしれない。

彼女は少し残念そうな顔をした。

伊藤はいつも以上に、彼女に見惚れていた。


「ねえ、ちょっといい?」


彼女は僕の返答を待たずに、僕の手を握って廊下に出た。

廊下には他に誰もいない。


榎本さんはようやく僕の手を離した。

少しの間があって、彼女は口を開いた。


「伝えたいことがあるんだけど」


全身に、ビビッと電流が走った。






















「付き合ってください」








え?







「う、嘘でしょ?」


彼女は横に首を振った。


僕の腹から、煮えくりかえったものが溢れた。


「そんなわけないでしょ」


「そうなの」


彼女は強い口調で言った。


「一回、僕のこと振ったじゃん」


勝手に、尖った言葉が口から出てくる。


「でも、今は…」


「好きでもないくせに」


「え?」


「好きでもないのに、付き合うなんて軽々しく言わないでよ」


「そんなことないよ」


「そうだよ!」


僕の声は、廊下に響きわたった。


「僕に好かれることが、ただ嬉しいだけでしょ?」


「ちがうよ…」


「だから最近、僕の前でかわいこぶってるんでしょ?」


「そんな…」


彼女は耳に手を当てた。

残酷すぎるほど簡単に、僕は彼女を追い込んだ。


僕らの言い合いを、教室の中から出てきた数人が、不思議そうに見ている。

中には口を押さえて笑っている人もいる。


彼女の目は、もう真っ赤っかで、今にも涙が溢れそうだ。


「もういいよ」


榎本さんは袖で目を拭いて、僕に背を向けた。


「そんな人だとは思ってなかった」


彼女は語気を強めて、僕に言い放った。

そして、鼻をすすりながら走り去った。




僕は彼女の後ろ姿を、ただ呆然と見ていた。


言い過ぎた…

そう思ったのは、彼女の姿が見えなくなってからだった。


「何やってんだよ…」


僕は自分の頭を1発殴った。

それでも足りず、もう1発殴った。


急に、視界が曇った。

次の瞬間、頬を涙が伝った。


僕は地面に突っ伏した。

大声で1人、ただただ泣いた。



悔しい。苦しい。

取り返しのつかない彼女に浴びせた冷酷無残な言葉が、僕自身の首を絞めた。

自分に自信がなかった。

ただそれだけなのに、彼女を責めてしまう自分の 愚かさに、呆れた。


もう、死にたい。


僕は顔を上げた。


先ほどより大勢の生徒が集まって、僕を指差して笑った。

四方八方から聞こえる笑い声も、僕の耳にはもう入らない。


どうでもいい。

笑いたいなら笑ってくれ。



「おい、朝から何やってんだよ」


僕の両肩に、生温かい手が触れた。

僕はその手を振り払った。


「こんなとこで泣くな。みっともない」


彼は僕の手を強引に掴んで、僕を起こした。


「直哉…」


大粒の涙が、また床に落ちた。

彼は無理やり、僕を教室の中へ押し込んだ。


「おい、どうしたんだよ」


僕のクラスメイトは、意外と優しい。

すぐにみんな駆け寄ってきてくれた。


もう出る涙もない。

そう思ってたのに、僕は彼等の姿を見てまた泣いてしまった。



そんな僕を、伊藤は後ろからじっと見守っていた。

終始、何も言わなかった。


やがて、朝礼が始まる直前になって、やっと榎本さんが帰ってきた。

何も無かったかのように、平然と席に着いた。

事情を知る数名のクラスメイトは、気まずそうに僕の側から離れた。


そのうち、1時‬間目の授業が始まった。‬

彼女は終始無言だ。

次の2時‬間目も、3時‬間目も、一日中ずっとそうだった。‬‬


やがて7時‬間目の授業が終わり、終礼の時間になった。‬

そして、何もなく下校時刻になった。


彼女は真っ先に、1人で教室を出た。

僕はごめんの一言も言えなかった。


「おい、ちょっと待ってよ」


カバンを整理している時に、直哉が僕に声をかけた。

僕は動かしている手を止めて、振り返った。


「お前、また告ってまた振られたの?」


彼は他の人には聞こえないぐらいの小さな声量で囁いた。


「ごめん、今は話せない。彼女にも失礼だと思う」


彼はわかったと言わんばかりに、綺麗な目で僕を見つめ、親指を立てて僕に見せた。


「ありがと」


僕は一言礼を言って、カバンを肩に背負って家路に着いた。

教室のドアはいつもより重かった。



帰り道、また近くの公園に寄った。


日は完全に沈み、オレンジ色の街灯だけが微かに公園を照らした。

遅いからか、人影も少ない。


いつも座っているベンチに向かう。

昼間は、ちょうど桜の木の日陰になっている場所だ。


しかし、周りを見渡しても、桜の木はどこにも無かった。

残っているのは、丸坊主の切り株だけだった。


春には美しい花をつけるはずだったのに…。

僕は喪失感に襲われた。


僕は、月の光る空が見えるいつものベンチに腰を下ろした。

隣に伊藤が座った。


ーーなぁーー


今まで黙っていた伊藤が、とうとう口を開いた。


ーー榎本さん、どんな気持ちだと思う?ーー


彼は僕に問うた。

僕は少しの間、真剣に考えた。


「すごい、悲しいと思う」


ーー本当にそれだけか?ーー


彼は間髪入れずそう言った。

僕は彼のあまりの迫力に少し狼狽えた。


伊藤は桜の切り株に目を落とした。

それっきり何も言わなかった。


僕は彼が何を言おうとしたのか、必死に考えた。

だけど、到底僕には分からなかった。




廊下ですれ違う人の、目線は冷たい。

既に校内に、昨日の噂は広まっているらしい。

このままでは75日も持たない気がする。


後ろのドアから、教室に入った。

暖房が効き切っていないのか、まだブレザーを脱ぐと肌寒い。


僕は彼女の席を見た。

まだカバンはない。

まだ来ていないのだろう。


だけど、朝礼が始まっても彼女は姿を現さなかった。

僕は1人、多大な責任を感じて心が落ち着かなかった。


そしてあっさりと、1日は終わった。

何もなさすぎて、時が早く進んだように感じた。



裏門を出て、いつものように駅に向かう。

その道中、光佇むコンビニの前に、見慣れた人姿が見えた。


僕は立ち止まって、その人を目を凝らして見た。

武井さんだ。


やがて彼女も僕に気付き、こちらに歩いてきた。


僕が彼女から告られたことを知らない伊藤は、彼女をなんの疑いもない目で見ている。


しかし、僕はその事実を踏まえた上で、彼女にまた告られるのではないかと思った。

彼女がもし、昨日のことを知ったら、また僕のもとに来てもおかしくないはずだ。


だけど僕の気持ちは固まっている。

榎本さんが好きだ。

僕には彼女しかいない。


やがて、武井さんが目の前に来た。


「色々あったみたいだね」


「うん、まあ」


「安心して。奈々はバレー部の試合で休んだだけだから」


武井さんは僕の心を見透かすように、そう言った。

僕は驚いた。


彼女はゆっくりと歩き出した。

僕はそれに続いた。


「相談に乗ろうか?」


「え?」


僕は思わず聞き返してしまった。

それにしても彼女は、僕が思ったような人ではなかった。

僕のことを心配してくれていた。


僕は心の底から彼女に感謝した。


僕は彼女に、昨日のことを抜かりなく話した。


「僕、昔から目立たない地味な方だったからさ、かっこいい人とかカッコつけてる人とかが苦手でさ」


彼女は静かに、うんうんと頷いて聞いてくれた。


「それで、可愛い子ぶってる人にもいい印象がなかったんだ…」


伊藤は眠そうにあくびをした。

僕のくだらない言い訳を退屈そうに聞いている。


「それで、奈々がちょっとそうなっちゃっただけで違和感を感じたの?」


僕は首を縦に振った。


「情けない…」


彼女は吐き捨てるように言った。

その一言は僕に突き刺さった。

しかし、既に穴だらけの僕は痛さを感じなかった。


そして、僕は自分の視界が曇っていくのに気付いた。

武井さんはポケットからハンカチを取り出し、僕にくれた。

僕は感謝を告げて、それを目に押し当てた。



「まだ謝ってないの?」


「うん…」


「嘘! なんで!?」


彼女は驚いて大きな声を出した。


「ごめん、あの時は...」


「本当に最低...」


武井さんは横断歩道の手前で立ち止まった。

そして大きくため息をついた。


「頑張って」


彼女は僕の背中を思いっきり叩いた。

そして、少しはにかんでから1人で横断歩道を渡った。

僕も遅れないように走ってついていった。




僕の頭は、いろんなことで埋め尽くされている。

ベッドに寝転がると、僕は彼女に思いを馳せた。


ディズニーランドよりも夢を見せてくれて、でもコンビニよりも身近な存在だった彼女は、僕に太陽系よりも大きなものをくれた。


後ろを振り返ってみても、僕が歩んできたのはそれほど険しい道ではないようだった。

どっちかと言えば、輝いても見える。



高1の頃、僕は彼女のことを可愛いなとは思っていたが、それ以上でもそれ以下でもなかった。

僕らは言葉を交わしたこともなかった。


実際に彼女を意識し始めたのは高2になってからだ。

瞬く間に僕は、彼女の優しくて朗らかな性格の虜になった。


その当時、彼女にはバスケ部の彼氏がいたらしい。

僕はその人はどれほど前世でいいことをしたんだろうかと、羨ましがっていた。

だけどある日、別れたという噂が流れた。

僕は正直、ちょっと嬉しかった。


そして、席替えの季節がやってきた。

僕は彼女の隣になった。

毎日、少しずつ話すことが多くなった。

その度に僕は彼女に惹かれた。


今となっては、東京ドームに入りきらない思いが、脳みその中に眠っている。


でも心の回路は、僕に「諦めろ」と何度も諭してきた。

自分に自信がなかったからだ。


でもその都度、彼女は僕に入り込んできて、何食わぬ顔で夢をチラつかせた。

そして堪え切れなくなった僕は、人参を目の前に吊るされた馬みたく、彼女をひたすらに追いかけた。


時には、違う方向へも走った。

その向きは伊藤が直してくれた。


ずっとその繰り返しだったと思う。


だけど、僕は人よりも遠回りしたからこそ、一緒に転がしてきた彼女への思いの雪だるまは、誰よりも大きい。

その自信はある。


誰よりも榎本さんが好きだ。




僕はいつも通りに学校の準備を済ませた。

傘を手に取り、いつものように家を出た。


ただ、胸騒ぎがしたのはいつも通りではなかった。


ーーなぁ、なんか今日、顔色いいじゃんーー


伊藤が僕にそう言った。

僕は彼が言うのだから本当にそうなのだろう、と思った。


「今日、しっかり謝ろうと思う。そして、榎本さんと付き合う」


伊藤はニコッと笑った。

彼までもが幸せそうだった。

僕は久し振りに口を開けて笑った。

今日はやけに気分が良かった。


だけど、それと反比例するように、灰色の雨雲が西の方から流れてきていた。

僕は気にもしなかった。


足取りが軽いのは、言うまでもない。

僕はひょいと電車に飛び乗った。


満員の人だかりの中、吊り革を掴んでバランスをとる。

そして、いつもこの胸に流れている音楽に乗せて、足が小さくステップを踏む。


そんなことをしていたら、あっという間に着いてしまった。



教室に入った瞬間、僕の目線の先には榎本さんがいた。

もう、僕の目には彼女しか入らない。

彼女は黙々と本を読んでいた。


僕は自分の席に鞄を置いてから、彼女に声をかけた。


「榎本さん」


僕の声は、妙に落ち着いている。

心のどこかで、上手くいくとでも思っているのだろう。

だけど彼女は、僕を無視した。

本に目を向けたまま、黙っている。


この瞬間からだろうか、あの灰色の雲が、僕にもかかっていたことに気付いたのは。

唐突に、膝がおぼつかなく震え始めた。


「ね、ねぇ、榎本さん」


既に僕の声は先程のような落ち着きを失った。

先程まで頭の中にいた笑顔の彼女は、だんだんと色を失ってきた。


そんな僕の声を聞いても、彼女は何の反応も示さない。

ただ本を1ページめくっただけだ。


ーーおい、これ以上はもうやめろーー


伊藤は僕を制した。

彼も僕と同じく、嫌な空気を察したのだろう。

彼は、僕よりも一段と冷静だった。


ーーもう、ダメだ...ーー


僕はその場で立ちすくんだ。

僕は失意のどん底に突き落とされた。


「ねえ、富樫くん」


その時、榎本さんが口を開いた。

声のトーンは、鉛のごとく重い。



そして、次の瞬間、彼女は僕にトドメを刺した。

心臓の、奥深くまでナイフを刺し込んだ。

そのナイフはきっと、永遠に僕の胸から抜けないだろう。

いっそのこと、本物のナイフであれば良かっただなんて、今更ながら思う。


そして時折、思い出すのだ。

何をしていても、ふと脳裏をよぎる。

どこにいても、何をしていても、ずっと脳を駆け巡るのは最後の彼女の言葉なのだ。


1人でいる時に泣くのは当たり前だ。

そんな時は必ず、彼女に出会う前のあの感覚に襲われた。

空虚感に似た、得体の知れないものだ。

そしてなす術なく、布団にくるまった。


彼女は、夢の中にさえ出てきた。

モノクロの彼女は、壊れたラジオのように同じ言葉を繰り返し僕に吐いた。

上手に仕舞っておいたはずの、別れの日の言葉を。




「あなたに出会うんだったら、生まれてこなければ良かった」





年明け、すぐに席替えが行われた。

彼女は僕とはかなり離れた席になった。

それが運命なのだろうとつくづく実感した。


僕はとうとう、全ての可能性を失った。


正真正銘、僕らは一切顔を合わせることもしなくなった。





- [ ] 4章












あれから時は1年近く流れた。

僕はただの、勉強に追われる受験生だ。


高3になって、榎本さんと違うクラスになってからは、もう何の関わりも無くなってしまった。

お陰で彼女を思い出すことも少なくなってきた。

もう心残りはない。


そのかわり、かなり勉強が捗っている。

先週、センター試験を受験したのだが自己採点の結果、予想よりかなりいい出来であった。

僕は家族と相談した上で、地方国公立大学を目指すことに決めた。



大阪を離れるのは少々後ろめたい。

だけど、新しい世界に飛び込むのは、それほど嫌いじゃない。

伊藤がいれば、寂しくもないはずだろう。

しかも榎本さんと距離を取れるのだから、決して悪くはない。



時計に目をやった。

いつの間にか次の日になっていた。

これ以上やる気が起きなかったので、そのままベッドに体を投げた。

目をつぶると、すぐに寝れた。



いつもと同じ時間に目覚めた。

外からはポツポツと雨の音だけが聞こえる。

カーテンを開けたが、暗くて何も見えない。


僕は布団を蹴落とし、ベッドから這い出て、パジャマのまま机についた。


高3のこの時期になると、もう学校には行かない。

そして僕は塾に行ってるわけでもないので、家で勉強しなければならない。


母親は仕事に行くし、妹も学校に行く。

よって最近は僕が1人で家にいる場合が多いのだ。


ただ、家事など身の回りのことを伊藤がやってくれるので、その面では一切困っていない。

本人もそれを楽しんでいるようなので、特に不満に思うことはない。


あるとすれば勉強と、あと欲を言えば恋愛か。

そんなもんだろう。



午前中、きっちり集中して過去問を何個か済ませた。

伊藤がピザを焼いたと言うので、僕らは一緒に昼飯を食べた。


ーー今ひとつだなぁーー


伊藤は一口頬張ると首を斜めに傾けた。


「そう?全然美味しいけど」


チーズがたっぷり入っていて、口の中でとろける。

文句のない仕上がりに思える。


ーーいや、もしかしたら...ーー



ピンポーン。


伊藤が何かを言おうとした時に、玄関のベルが鳴った。




僕は口の中にあるピザを飲み込んでから、玄関に向かった。

ドアスコープを覗くと、青い服を着た2人の男性が立っていた。


僕が開けるのをためらっているうちに、もう一度ベルが鳴った。

僕は渋々ドアを開けた。


「こんにちは」


「どうも。こういうものです」


そして左に立っている1人が僕に何かを開いてみせた。

何を隠そう、警察手帳だ。

びっくりした。


しかし僕には何も身に覚えがない。

きっとこの近所で何かがあっただけだろうと思った。


「あの、何か?」


僕は聞いた。

すると右にいた警官が、僕に書類を見せた。


「ストーカー被害?」


僕はその書類の一番上に書いてあるところを読んだ。

すると警官は頷いた。

表情は随分と威圧的だ。


「富樫駿くんで間違いないね?」


「は?」


僕は唖然とした。

もしかして...?


ていうか、何で僕?



「警察署に任意同行願います。いいですね?」


僕は唖然とした。

意味がわからない。

何もしていないし、何も知らない。


彼らは僕が答えるのを待たずに、僕を家から引っ張り出した。

そしてパトカーに乗せられてしまった。

伊藤に助けを求めようと思ったが、遅かった。

車はすぐに発車してしまった。



10数分間、車は走った。

やがて警察署の前で僕は降ろされた。


「あの...、僕何かしました?」


「それは中で話しましょう」


そう言って案内されたのは、生活安全課の個室の中だった。

ドラマで見るような取調室のような雰囲気はなく、ちょっとした会議室のようなところだった。


そこで僕は数分待たされた。


その後、ひとりの警官がノックして入ってきた。

先程、僕の家に来た人とは違った。


「鈴木と言います。よろしく」


「あ、はあ」


「今、高校3年生?」


「そうですけど」


「ふーん」


鈴木はつまらなさそうに返事をした。

どうせ僕の相手をするのも、ただの作業としか認識していないのだろう。


「まず、この資料はもう読んだかな?」


鈴木は青いファイルからプリントを一枚出して、机の上に置いた。

僕はそれを右手でつまみ上げた。


「いや、ちらっとしか見てません」


「そうか、じゃ目を通しといて」


そう言うと鈴木はすぐに退室した。

ドアを閉めるときにあくびをしたのを、僕は見逃していない。

警察になるようなろくな人間とは到底思えなかった。


こんな奴が担当だと面倒臭いが、僕は一応、鈴木が置いたプリントに目をやった。


(ストーカー被害届け)


見出しにそう大きく書いてあった。


だが、僕を驚かせたのは次の行だった。


(被害者: 榎本奈々)


僕は我が目を疑った。

榎本さんが、ストーカー被害にあってる?

想像するだけで、僕の胸を締め付けた。


いや、待てよ。

今一番疑われているのは僕だ。

どうにかしてこの疑惑を払拭しなければ。


僕はもう一度プリントに目をやった。

めぼしいような情報はなかった。


僕が肩を落としているときに、やっと鈴木が帰ってきた。

奴は僕の慌てた様子を見て少し口角を上げた。


「榎本奈々さん、知ってるよね?」


「はい、でも僕は何も」


鈴木は僕の言葉を聞くとすぐに笑い出した。


「わかってるんだよ、君が彼女にどういう感情を抱いているか」


「は?」


僕は思わず立ち上がった。

こいつに無性に本当に腹が立った。

鈴木は僕を指差しながら笑った。


「僕はストーカーなんて死んでもしない」


「そういう奴がだいたい犯人なんだよねぇ。ハハハ」


鈴木の高らかな笑い声は部屋中に響いた。

僕は、こいつとは同じ土俵に立っても全く意味がないと悟った。

僕は一回パイプ椅子に腰を下ろした。


「彼女が一番、わかってる。僕がそんなことしないって」


僕は奴に落ち着いてそう言った。

奴はもう飽きたのか、またあくびをした。


「彼女は、なんて言ってるんですか?」


僕は少し強めに聞いた。


「犯人に心当たりはない、その一点張りだ」


僕は少し、不思議に思った。

彼女は僕の名を警察に出さなかったのか?


コンコンと、2回ノックしてから、婦警さんがお茶を2杯持ってきた。

鈴木と僕の前に置いた。

鈴木はそれを一口で飲み干した。


「もういい、今日は帰れ」


「はあ」


僕は目の前に置かれたお茶を飲んでから、家に帰った。



バスを乗り継いで帰った。

家に着く頃にはもう日は傾き始めていた。


ーーどこ行ってたの?もうピザ冷えちゃったよーー


テーブルにはまだ食べ残しのピザが広がっている。

僕はそれを平らげた。

冷めても十分美味しい。


「あのさぁ」


僕はナプキンで口を拭きながら伊藤に話しかけた。


榎本さんのことについて話そうと思ったのだ。

しかし、一年前のあの日以来、僕らは彼女を話題にあげることはなかった。

完全にタブーになっていたのだ。


「いや、なんもない」


僕は少し悩んだが、やはり言うのはやめておいた。


ーーなんやそれーー


伊藤はそれっきり僕を問い詰めなかった。

なにかを察してくれたのかもしれない。


その後、警察が僕の目の前に現れることはなかった。



その夜、久しぶりに彼女が僕の夢に出てきた。

不愉快なことに、それは彼女がストーカーに付きまとわれるものだった。


僕らの通う高校が、映し出される。

大粒の雨が、傘を叩く。

雷の音が、あちこちで響いている。


そんな中、彼女は1人でいた。

重たい荷物を肩にかけ、気だるそうに歩いている。


やがて正面に変な男が現れた。

傘もささず、ずぶ濡れの、まさにこれぞ変態というような風貌だ。

フードを被っていて、顔はわからない。


そいつを見るなり、彼女は悲鳴をあげた。

そして傘を捨てて、一目散に逃げた。


横断歩道、歩道橋、街灯のない狭い路地、出口の見えないトンネル...。

彼女はどこまでも走った。

水溜りを踏む音だけが、僕の耳に残った。


やがて彼女は力尽きて、固いコンクリートの地面に倒れた。

それでも豪雨は、容赦なく彼女に降りかかる。

彼女は目に涙を浮かべた。

風がそれを拭った。


そしてその時、ゆっくりと足音が近ずいてきた。

一歩ずつ、一歩ずつ、噛みしめるように彼女に歩み寄る。


彼女は必死にもがいた。

しかし、雨で濡れた制服は重く、立ち上がれない。

そしてあいにく、助けを呼ぶ体力も残っていないなかった。

結局彼女は、その場で動けなかった。


近ずく足音が大きくなって、やがて消えた。

彼女は振り返った。

あの、ストーカーがいた。

彼はニヤリと笑った。


「やめて...やめて...」


そう言う彼女を、そいつはじっと見た。

そして、被っていたフードを、右手で下ろした。


顔が見えた。

はっきりと、そいつの顔が見えた。


僕は飛び起きた。




そのストーカーは、僕だった。



今のはなんだ...?


手が震えた。

呼吸が荒れて、胸が苦しい。


ーーおい、どうしたんだよ、こんな夜中にーー


僕の部屋のフローリングで寝ていた伊藤が、慌てた様子で起きてきた。

彼は僕の顔を見て、呆然とその場に立ちすくんだ。


ーーおい、どうしたんだよーー


彼を僕の肩を激しく左右に揺すった。

僕は気が動転して、冷静さを完全に欠いていた。


伊藤に水を持ってきてもらった。

それを僕は口に含んだ。

少し落ち着いた。

過呼吸気味だったが、徐々にそれも普段通りに戻ってきた。


「僕ってさ...」


僕は伊藤に向かって喋り出した。

伊藤は僕を静かに見つめる。


「生きてちゃダメなのかな...」


伊藤は、僕から目をそらさなかった。

ただずっと口を噤んだままだった。

そしてその目は、それで?、と僕に語りかける。

目を口ほどにものを言うとは、こういうことなのだろう。


「僕ってさ、榎本さんを欲しがりすぎてたのかな?」


伊藤は小さく、丁寧に首を横に振った。


「ストーカーなんだよね、僕って」


僕は少し声を荒げて言った。

夜中の住宅街に、僕の声がこだました。

次の朝にどれほど苦情が入っていようと、どうでもいい。


「ごめん、もういいや。おやすみ」


僕はそう言ってベッドに潜った。

彼はまた何も言わず、床に寝転がった。


僕は少し、寂しいと感じた。

もっと伊藤が追求してくれるんだろうと思っていた。

本当のことは、そのあと言おうと思っていた。


もっと手を差し伸べて欲しかった。


ストーカーなんて、あり得ないと言い切って欲しかった。


榎本さんが、まだ好きなんだって、言いたかった。


背中を押して欲しかった。


僕は枕に自分の額から流れる涙を押し当てた。

勝手に流れるそれを、止める方法はそれしかなかった。


なぁ、気づいてくれよ。

泣いてるんだよ。

もう、1人で歩けない。

無かったことになんか、出来やしない。

助けてくれよ...。


心の中でどれだけ大きく叫ぼうとも、伊藤には聞こえない。

やがていびきだけが部屋を包んだ。


誰も否定してくれない、ストーカーという僕の本当の姿を、僕は認めるしかないのか。

夢に出てきたってことは、僕も自分で自覚しているんだろう。



榎本さん。

ごめんなさい。

僕に生きる価値なんてありません。

僕なんか、地獄に落ちた方がマシです。



死後の世界の方が、現世よりよっぽど明るく見えた。



自己の存在にすら嫌悪感を抱くようになってからは、まともに勉強もできなかった。

何をやっても手につかない。

どうせ何をやっても無駄だと思えてしまうのだ。


死んだら、何も残らない。

それなら、手に入れても意味は無い。

知識も金も名誉も、ましてや友情も恋も、あの世ではゴミだ。


そんな自己暗示をひたすら唱えるうちに、生きるのが億劫になった。

どこかにあった夢のカケラは、胸の奥で完全に溶けてなくなった。


そのうち、食事がだんだん喉を通らなくなってきた。

腹は減るが、それよりも噛むという作業が面倒くさくて仕方なかった。

そんな時は水を飲んで、耐え忍んだ。


みるみる痩せていく僕を、誰も気にかけなかった。

それが僕を過剰に傷つけた。



ある日、親戚が僕の家を訪ねてきた。

受験の激励に来たと言って、昼飯に行こうと僕らを誘った。


「今日は、俺が奢るよ」


叔父は僕の母にそう言って、近所の焼肉屋に入った。


僕は案の定、食べる気が全くしなかったので、お茶を飲むだけにしておいた。


「食べないのかい?」


叔父が僕にそう聞いた。

その上から目線な物言いに、図らずも腹が立った。


「早く食べないと、冷めちゃうよ」


叔母も付け足した。

僕は渋々、目の前の薄っぺらい一枚を取って口に入れてみせた。

揉めるのが嫌だった。


叔母と叔父は満足そうに笑った。

母は心配そうに苦笑した。



ーー受験、どうすんだよ。勉強した方がいいんじゃねえのか?ーー


2次試験が1ヶ月に迫っている頃、伊藤が僕に聞いた。


そんなことを言われても、僕はまともに返事をしなかった。

親みたいなことばっかり言う伊藤に呆れていた。

彼もまた、僕のことを何もわかっていない。


何もすることがなく、のんびりとしていた。

ふと、机の隅にあったカレンダーを見た。

切れかけのペンで書いた文字が、卒業式が間近に迫っていることを示していた。


その途端、僕の口から、疲れの吐息が溢れた。

今の僕は、人に会うことすら気が引けたのだ。


途中から、何故そうなったのかも忘れかけていた。

理由などもう無い。

ただ孤独に生きることだけが、僕を僕たらしめるような気がして仕方なかった。

もう末期だと気付いた時には、前にも後ろにも進めない状況だった。


僕はそんな自分を嘲笑った。



何も考えずに生きていると、時間が流れるのも早く感じられる。

あっという間にその日が来た。


僕はいつも通り10時‬までは寝ておこうと思っていた。‬

しかし、伊藤が僕を叩き起こした。

ダレる僕の、右腕を掴んでベッドから引き摺り下ろした。


ーー何やってんだよ。今日ぐらいは学校行かなくちゃダメだーー


彼は朝早くから僕に正論をまくし立てた。


ーー今日で最後だ。今日行ったらもう行かなくていいんだから。いつか、大人になった時に、高校時代を振り返っ....ーー


「うっせえよ」


僕は伊藤に言い放った。


「なんでそんなこと言われなきゃいけねえんだよ」


僕は胸の奥から、日々の積もり積もった鬱憤を全て吐きだした。

大人づらして、僕を説教がましく言いくるめる彼には、最近本当に苛立っていたのだ。


卒業式なんか、誰が行くか。

嫌な思い出しか無い。

学校に行ったら、その記憶が僕を襲うんだろうと思った。

身震いがした。


そして、何より、今一番会いたくない人がいる。

これ以上彼女に近づいてはいけないと、自分が一番わかっているのだ。


もう学校には、僕の居場所はない。

いや、この世にもない。

もうネガティブな思考しか、僕の心は受け付けなかった。


だが、そんな中、伊藤は1人で僕の制服を棚の奥から引っ張り出した。

そして丁寧にベッドの上に並べた。


それを眺めると僕は、自然に懐かしく思われた。

短かったけれど、濃い3年間の歴史がそこに詰まっている。


ズボンのお尻の部分が、カバンと擦れて色褪せている。

セーターの袖から、だらしなく糸が垂れている。

ジャケットの袖のボタンが、とれてなくなっている。

その一つ一つが、僕が生きた証拠なのかもしれない。


教科書には絶対載っていない、小さく切ない、またほろ苦い歴史が僕の目の前にあった。


先程まであれほど大口を叩いていた僕だったが、その牙城はすぐに崩れた。


アイロンが当てられて、シワ一つ見つからないシャツを、僕は手に取った。

触り心地が、いつもと一緒だった。


やっぱり、今日は卒業式に出席したい。


本能が僕にそう語りかけた。


伊藤は終始、微笑ましい笑顔で僕を見ていた。


ーーどう? 行きたくなった?ーー


「ああ」


僕は急いで、準備を始めた。



最寄駅に着くまでは、最寄と行っていいのかわからないほど、遠い。


一歩一歩、噛みしめるように歩けば、くだらないことでも頭をよぎった。


ここ一帯は、坂が多い。

そんな坂を重い荷物を毎日背負っていると、肩と腰が激痛に苛まれる。

昔はそういうこともよくあった。


僕のお気に入りの公園が、左手に見える。

それこそ1年前まではよく通っていた。

今では新しい桜が植えられ、可憐で美しい蕾が、今にも開きそうにその時期を待っている。

僕らは久しぶりにそれをじっと眺めた。


ーーおい、時間やべえぞーー


伊藤が右手につけた時計を見て、僕を急かした。

渋々、少し足を速めた。


通り過ぎる数多くの光景が、僕の行く手を阻んだ。

時間があったらまた見に来たいと、心の中で言った。

今は急がねばならないのだ。


駅に着いたのは、発車まで2分ほどだったのタイミングだった。

ギリギリだった。




その校舎は、誇らしげに僕を見下ろした。

懐かしいというより、故郷に回帰したような感傷に浸った。


やっぱり、来て正解だった。


一段、一段と階段を上る。

その足取りは軽い。

やがて足腰が疲れを忘れ、僕はなんの気兼ねもなく駆け上がった。


3階の廊下は、窓から眩しい太陽の光が差し込み、卒業式らしいムードが漂う。

皆、笑顔だった。

僕はそれを見て、嬉しく思った。

唯一の気掛かりだったものも忘れ、僕は幸せに溺れた。


そして僕は、ゆっくりと教室のドアを開けた。

賑やかな空気が、僕を柔らかく、優しく包んだ。

胸に花を飾った級友が、大きな声で笑いあっていた。


「ヘイ!ボォイ」


やけに発音の良い、重低音が後ろからした。

振り返るとそこには巨人級の杉野マイケル・ジョージ2世が佇んでいた。

少し、びっくりした。


「ど、どうした?」


「ヒサシブリネー」


「うん。そだな」


「シッカリベンキョウシテタ?」


「いや、それが全然でさぁ。ハハハ」


「オウ!アーユーオーケー?」


「オーケーじゃないかも。ふへへ」


僕らは爆笑した。

何が面白いかもさっぱりわからない。

でもたまらなく面白かった。

たわいもない会話でさえも、僕の活力になる。


ーー今日はなんかいい感じじゃんーー


「うん、たしかに。いい感じ」


ここ最近、ずっと人と接することのなかった自分を悔やんだ。

僕は寂しがりだ。

なのに強がって、自分で新たな世界を作り上げていた。


そうやって強がって、カッコつけて生きる人間は、儚く弱いものなのだ。

僕は身をもってそれを思い知ることができた。

ありのままの自分こそが、僕なのだと、気付かされた。


「駿ちゃん!」


1人感慨にふけっている最中に、直哉が僕に飛び込んできた。


「元気にしてるか?」


「まさにこの通り。ちょー元気」


昨日までは、死にたくなるほど絶望に呑まれていたことは、伏せておいた。


「駿ちゃん、実はさー」


直哉は人目の少ない、教室の角に僕を引き寄せた。


「俺の叔父さんの世話になったらしいじゃないの」


「え? ちょっとよくわかんないんだけど」


僕は記憶を探ったが、彼の叔父に会ったことについては全くわからなかった。

どこかで、すれ違ったとか?

僕はイマイチ理解に苦しんだ。


「俺の叔父さん、警察官」


直哉は、僕をニヤニヤしながら見つめた。

その表情をする奴を、僕はもう1人知っている。


わかってしまった。

鈴木だ。

奴こそが、直哉の叔父だったのか。

確かに、全く似ていないことはないかもしれない。


「どう?ピンときた?」


「あぁ。完全にね」


「ムフッ」


直哉は僕を鼻で笑った。

僕は気づいた。

もしかしたら、直哉は全部知っているかもしれない...。


「叔父さんから、どこまで聞いたの?」


「全部」


やはりそうか。

情報は筒抜けって訳か。

まあ、別にそれほど気にすることではない。

直哉は思慮分別のできる男だ。

他の誰かに言うなんてことはしない。


「いい事教えてやろうか?」


「うん。教えて」


直哉はすうっと思い切り息を吸い込んだ。

そして吐き出した。

少しの間があった。


「彼女、駿ちゃんのことは何も警察に話してないんだ」


「それで?」


「おかしいと思わない? 普通の人間だったら、まず状況的にも駿ちゃんが怪しいと思うはず。そしたら警察にも、そういう風に言うはずだよ」


「まあ、なるほど」


「でも彼女は、駿ちゃんの名前は出さなかった。どういうことかわかる?」


「わかんない」


「俺直接聞いたの、どうしてって」


「そしたら、なんて言ったの?」


「そのストーカー、実はずっと富樫駿って言う名前を名乗っているんだって」


「は?いや、でも俺はやってない...」


「わかってる。駿ちゃんはやってない。要するに、誰かが駿ちゃんの振りをしてるんだ。それを彼女もわかってる」


「だったら、なんなのさ」


「彼女は、駿ちゃんが疑われると思って、わざと駿ちゃんの名前を出さなかったんだ。何を言ったって、どうせ駿ちゃんが疑われるのは目に見えてるしね」


「なるほど」


沢山の情報が、僕の脳に溢れかえった。

直哉の喋るスピードが速すぎて、整理が追いつかない。


「ここまで聞いて、まだ何もわからないのか?」


どういうこと?

もはや理解不能の域に達していた。

そしてそれは伊藤も同じようで、首を傾げてぼーっと遠くを眺めている。


「ごめん、何も」


僕は直哉にそう言った。


「いいか、よく聞け」


彼はまた、一度深呼吸した。

僕はずっと、彼が言いだすのを待った。

そしてようやく、口を開いた。


「彼女は、駿ちゃんをかばってるんだ」


「へ?」


「俺が言えんのはそこまでだ。」


直哉はまた小さくニヤッと微笑んだ。


「駿ちゃん、地方に行くんだろ? なら、会えるのも今日が最後かもよ」


そう言い残して、彼は去った。


「ちょっ、ちょっと!」


僕が呼び止めようとしても無駄だった。

彼はもう別の人と楽しそうに喋っていた。


あんなことを耳にして、僕は平常心でいられなかった。

心臓がバクバクと、ディーゼルエンジンかのようにうるさく振動した。


少し頭を冷やそうと思った。

僕は自分の席についた。

それでも、彼女が頭をぐるぐると回り続けた。

上手にくるんで仕舞っておいた過去の痛い記憶が、前に出ようとして疼きはじめた。


彼の言うことは、本当に正しいのか?

あまりにも出来すぎている気がするのだ。

まず、彼女が僕を庇おうとするのかが疑問だ。


いや、待てよ。

そういえばあの日鈴木も、被害者、つまり榎本さんには全く心当たりがないと供述している、と言っていた気がする。

つまり、彼女は僕を隠そうとしたが、警察が自力で僕に辿り着いてしまったということか。


今となれば、鈴木でよかった。

直哉が気を利かせてくれたお陰で、鈴木がうまく僕を逃してくれた。

あれが他の人だったら、普通に逮捕されていてもおかしくなかった。


冷や汗が額から噴き出た。

ありがとう、鈴木、直哉、そして榎本さん...。

感謝してもしきれない。


そして僕は思った。

彼女に会いたい、と。


その瞬間、僕は僕の本当の気持ちに気付いた。

今まで押し殺してきた感情が、ものすごいスピードで蘇る。

痛い思い出を最後に、気付かないふりをしていた彼女への恋心が、僕の心にまた芽生えた。

一度萎えかけたからこそ、以前よりもさらに強く、大きくなった。


榎本さんが、大好きだ。


僕がこの1年間、ずっと探し続けていたものは、こんなにもシンプルなものだったのだ。


そんなことを考えていたら、何かが僕の頬を流れていった。

そしてポタッと、机の上に大粒の涙が落ちた。

まだ何も始まっていないのに、場違いな涙を流してしまっていた。

僕は慌てて右手でそれを拭いた。




「とがぁじ しゅんぁ」


「はい」


目の前には、ヨボヨボの校長が立っている。

入れ歯のせいか、滑舌の悪さは他と比べようがないほど酷い。

もはや、本当に僕の名前を呼んだのかもさえ、あやふやである。


「以下同文。おめでぇどぉ」


いや、全然言えていない。

せめて、そこだけはしっかりして欲しかった。

卒業なんて、人生に一回きりなのに。


僕は渋々、両手で卒業証書を受け取った。

そして一例し、階段を降りて自分のパイプ椅子に腰を下ろした。


広い体育館内を見渡した。

両サイドの壁には、紅白幕が丁寧に貼られている。

それを目にするだけで、いよいよ卒業なのかと、実感が湧いた。


右に顔をやった。

隣のクラスの人が、姿勢正しく、静かに座っている。

中には泣いている人も多数いた。

会場に流れているこのバックミュージックが。涙をさらにそそるのだろう。

わからなくはない。

僕もつられて、うるっときてしまった。


「ぼぉおめでぇどぉお」


もはや日本語なのかも怪しい、あの校長の声が耳に入った。

その瞬間、しんみりとした空気の会場に、少し笑いが起きた。

体育館全体に一体感が生まれ、それがまた僕らの卒業に華を添えた。



壇上に榎本さんが上がった。

緊張して面持ちで、校長の前に立った。


「えのぉもぉどぉ んあなあ」


比較的発音のしやすいと思われたが、校長は案の定言えない。

しかし、もう皆慣れてしまったのか、会場はシーンとしたままだった。


彼女は少し顔に微笑を浮かべながら、卒業証書を受け取った。

まあ、そうなってしまうのも致し方ない。


彼女は深々とお辞儀をし、ゆっくりと振り返ってから、正面の階段を降りた。

もうその時には、目が赤くなっていた。

歯を食いしばって、人前で泣くのを我慢しているように見えた。

そして足早に歩き出した。


彼女は席に着くと、顔を上げた。

何か、いや誰かを探すように、会場全体を見渡した。

すると、ほんの一瞬だけ、僕と目があったのだ。


彼女の純粋で真っ直ぐな瞳が、僕に何かを語りかけた。

それが何か、僕がわかる前に、彼女は恥ずかしそうにパッと顔を背けてしまった。


いい雰囲気になった気もした。

だけど僕らの間には、一枚の壁があるように思った。

空白の1年間が、僕らを突き放すように、目の前に立ちはだかった。


その障害を乗り越えなくてはならない。

僕は痛切にそう感じた。



式が終わった後、僕は自クラスに戻された。


なかなか、彼女と面と向かって話す機会を見出せずにいた。


最後の教師の話を上の空で聞いて、解散となると、僕は教室を誰よりも早く飛び出した。

他のクラスの生徒は既に、廊下で抱き合ったりして、卒業の喜びを噛み締めていた。


まだ、早い。

僕はまだ喜べない。

榎本さんと、白黒つけなければならない。

中途半端でいるのが、一番気持ち悪い。


僕は無数の人の中から、榎本さんを探した。

どこかにいるはずだ。


ーーダメだ! ここにはいねえ!ーー


先に廊下で探していた伊藤が、僕に叫んだ。


ーー1階の中庭にいるかもだ。急げ!ーー


僕は伊藤の声を聞くや、人混みを掻き分け、階段を駆け下りた。

人生で初めて、三段飛ばしをしてみた。

つまずいて、死にそうになったので、1回でやめた。


伊藤の言った通り、中庭にも、人が溢れかえっていた。

携帯で自撮りをしている奴もいれば、甲高い声で笑い合うマダム達もいた。


「すいません、すいません」


声を枯らしながら、ずんずんと先に進んだ。

しかし、どこにも彼女の姿はない。


やばい。

危機感が僕を襲った。


うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ


好きだああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ



僕は心の中で叫んだ。

溜め込んだ思いが、とうとう爆発したのだ。



どこにいるんだ、榎本さん。


10分がむしゃらに校内を探し回ったが、どこにも姿を現さない。


「榎本さあああああん」


僕は、声を張り上げて彼女の名を呼んだ。

でも返事は返ってこない。

静寂だけが、僕の足元に転がり落ちてきた。


「えのもどぉおおおおおおおおざあああああああぁぁぁぁぁあああん」


僕はもう一度大声で叫んだ。

声がかすれて、まともに出なかった。

心底泣きたくなった。


「おい、駿ちゃん!」


人混みを掻き分けて、直哉が僕の前に姿を現した。


「榎本さんなら、もう帰っちゃったぞ」


「え? 嘘でしょ?」


僕は驚いた。

まだ解散して10分と経っていない。

帰るのにはあまりに早すぎる。


「本当だよ...」


直哉は急に顔を伏せた。

その後5秒ほど、頭を抱えて悩んだ末に、ゆっくりと顔を上げた。

彼は僕に近ずくように、手をこまねいた。


「実は、帰ったことは駿ちゃんには言わないでって、榎本さんに言われてたんだけどね」


「それってつまり、僕にはもう会いたくないから?」


「だと思うだろ? 俺も駿ちゃんが嫌われてるのかと思った」


「失礼だな、おい」


「本当のこと言うとな...」


彼は僕の耳に手を当てて、小さな声で僕に告げた。


「駿ちゃんに会っても、今さら好きとか言えないんだって。申し訳ない気持ちでいっぱいなんだって」


「なんだよそれ...」


僕は彼女の、何かがわかった気がした。

今まで見えていなかったものが、一瞬、ちらりと見えた気がした。


申し訳ないって、何がだよ。

僕は何も、そんなこと思っていない。

むしろ、僕の方が謝りたいことだらけだ。


なんで彼女はあんなに、最後まで彼女のままなんだろう。

純粋で、まっすぐで、自分に正直なんだろう。


ゾッとするほど、僕はまた彼女に惚れた。




むしゃくしゃしてくる。

彼女に対して何も気を使えない、情けない僕に。


客観的に、第三者の立場から見れば、僕は明らかにキモいし、見苦しい。

だけど、今となっては、人の意見なんてどうでもいい。


僕はそう思うや否や、直哉に礼を告げて、すぐに駆け出した。

伊藤も必死で付いてきた。


が、校門を出てすぐ、僕は足を止めた。


「なあ、一つ聞いていいか?」


ーーどうした?ーー


「榎本さんの家って、どっち方向だっけ」


ーーは? 知らねえのーー


「...うん」


ーー知らなかったらやばいじゃん。 榎本さんがどっちに行ったかわかんないじゃんーー


僕は左右を見渡した。

もちろん、何も得られるものはない。


ーーどうするつもり?ーー


「伊藤はどっちだと思う?」


伊藤は数秒悩むと、右を自信なさげに指差した。


「よっしゃ、行くぞ!」


僕らは右の方向へ全力で走り出した。


数分間、全力で走った。

だがしかし、そもそも運動不足で体力に自信が全くない僕は、すぐにバテてしまった。


しょうがなく、近くのベンチに腰掛けた。


「はぁあ、はぁああ」


息が上がって、まともに会話もできない。

同時に、吐き気が込み上げてくる。


ーーん?ーー


伊藤がは、横断歩道を見つめて首を傾げた。

僕もそこに目をやったが、特に何も気になるものはなかった。


「何? 何?」


僕の質問に、彼は無言を貫いた。

もう一度目を凝らしても、点滅している信号機以外は何もない。

僕は困惑した。


伊藤は目を真っ赤にして、僕の方を振り返った。


ーーなあ、驚きの事実が発覚したんだがーー


彼は図太い声で僕にそう言った。


「え? わかんないんだけど」


伊藤は僕の手を強引に握って、また走り出した。

僕は疲れが癒えない体を渋々動かした。


ーーおい、おめえ止まれ!ーー


伊藤は前に向かって叫んだ。

ただ、僕には人の姿は確認できない。

誰を呼んでいるんだ?


「てかさ、伊藤が叫んでも、僕以外には聞こえないよ」


ーー普通の人間なら、お前だけだなーー


伊藤はそう答えた。


「どういうこと? 普通じゃない人間って、誰のこと?」


彼の言う普通って、何?

それすら、僕には意味がわからない。


だけど伊藤は、僕の質問には答えず、さらに足の回転速度を上げた。

僕も必死で、腕を振った。


見慣れない道を、伊藤はグイグイ進む。

途中で、住宅街に入った。

一戸建ての家が立ち並ぶ中を、僕らはずっと駆け抜けた。


ーーおい、そこまでだーー


コンクリートの塀で囲まれて、行き止まりになっている場所で、伊藤はやっと立ち止まった。

僕はその場にしゃがみ込んだ。

こんなに本気で走ったのはマラソン大会ぶりだ。


ーーおめえ、ここで何してんだよーー


「いや、何もしてないよ」


ーーお前じゃねえ、黙っとけーー


「はあ?」


僕はあたりを見回した。

人の気配は、どこにもない。


伊藤は誰と話してるんだ?

急に怖くなって、鳥が憧れるほど鳥肌が立った。


「ねえ、榎本さんを探すんじゃないの?」


ーーしっ! それとも関係があるはずだーー


そう言って伊藤は、目の前の壁と話し始めた。

もちろん、壁は喋らない。

僕は伊藤が延々と独り言を言っている映像を、ずっと見させられた。


終盤になってくると、伊藤はだんだんと顔を落とすようになってきた。


ーー嘘だろ...ーー


彼はそう呟くと、瞳から涙をこぼした。

あんなに男らしい奴が泣くなんて、相当な何かがあったに違いない。

だけどそれがわからない。

僕は横からずっとことの経過を待つだけだった。


しばらくして、伊藤は、手を前に突き出した。

すると、その瞬間、ものすごい音が鳴った後、凄い光が伊藤の方から僕を照らした。

思わず目を閉じた。

が、それでも眩しいほど、その光は凄まじかった。


僕にしてみれば、もはやSF映画並みの世界観だった。

理解の範疇を超えた何かが、目の前で起ころうとしていた。


僕が恐る恐る目を開けると、そこには見慣れない少年が立っていた。

伊藤と腕を組んで、俯いていた。

歳は僕らと同じぐらいのように見えた。


「おい、伊藤、誰だよ、この人。てか、今のなんだよ。 さっきから意味わかんねえ」


伊藤は何も言わなかった。


「おい、聞いてんだよ」


僕がそう言って肩を叩くと、初めて伊藤は口を開いた。


ーー色々、言わなきゃいけないことがあるんだーー


「なんだよ、今更かしこまって」


ーーやばい、急げ。もう時間だーー


僕の質問、はその少年の声に掻き消された。


ーーおい、タクシー止めて!ーー


伊藤は僕を指差した。

僕は訳もわからず、目の前に通りかかったタクシーを嫌々止めた。


何が起こってるんだ?

伊藤は何をしたい?

隣のやつは誰?

いつまで手を繋いでんだ?


謎で囲まれるのは好きじゃない。

伊藤が初めて姿を現した日をふと思い出した。

あの日もこんな感じだった気がする。


ーー関西空港だ。急ぎでお願いしてーー


伊藤の注文を、僕はそのまま運転手に告げた。

車は重いエンジン音を引きずりながら動き出した。


「お客さん、1人で空港なんて、珍しいねえ。もしかして、修学旅行ですか?」


「 まあ、そうです」


適当に嘘をつく。

まずそもそも、僕も空港に行く理由を知らない。

誤魔化すしか術がない。


助けを求めるように2人を見たが、彼らは何も言わない。

深刻そうな面持ちをしている。


「へえ、この時期に? どこに行くん?」


「ええ、箱根の方に」


「おお、いいとこや。 楽しんでおいで」


「ど、どうも」


たわいもない世間話を済ますと、運転手はフロントミラー越しに少し笑った。

僕も小さく笑い返した。


僕は運転手との会話で、あることに気がついた。

運転手には、伊藤はもちろん、この少年の姿も見えないようなのだ。


僕はまた横を見た。

伊藤は背中を丸め、俯いている。

僕は彼の膝をちょんと触った。


彼は顔を上げ、僕を見つめた。

まだ目はほのかに赤い。


ーーわかった。教えればいいんだろ、何がどうなってるかーー


僕は大きく頷いた。


ーーこいつの名前は...







富樫駿だーー



えぇ!?


僕と同じ名前!?



ーーほら、いつか言ったろ、俺の昔の親友。それがこいつーー


ああ。

そういえば出会った時に、そんなこと言っていた気がする。


ーーどうも。よろしく。駿ですーー


「こちらこそ。駿です」


彼は右手を僕に差し出してきた。

僕はその手を取って上下に振った。

その手は驚くほど冷たかった。


ーーもうわかってると思うけど、俺は既に死んでるーー


「えっ...」


言葉にならない。

僕の隣に、もうこの世にいないはずの人間が2人いる。


「じゃあ、なんで僕に君が見えるの? 君も僕に憑依してるってこと?」


そう僕が聞いた瞬間、車が急に止まった。

運転手が慌てたように振り返った。


「お客さん、さっきから何1人で喋ってんだい。 あ、俺に聞いてんのか?」


「あ、いえ...。 すいません。独り言です」


はあ、とため息を漏らした運転手は、すぐに前を向いてハンドルを握った。


ーーごめん、俺のせいーー


僕ではない方の(?)駿が謝った。


ーー続けるよーー


僕は運転手にバレないように、小さく首を振った。


僕らを乗せた車は、いつの間にか、高速道路を走っていた。

左手前方には、カラフルな観覧車が見えた。


「つまり、伊藤が手を離した瞬間に、君は消えてしまうってこと?」


ーーそういうことになるね。幽霊同士が手を繋ぐことによって、それぞれが憑依している人間にも、もう一方の幽霊が見えるようになるんだーー


僕らはもう、運転手の存在を忘れ普通に話していた。

運転手が何を聞いてきても、軽くあしらった。


「一つ疑問なんだけど、じゃあ君は誰に憑依してるの?」


僕的には、そこが一番気になる。


ーー俺には、ある目的があったーー


駿は、ゆっくりと話し始めた。

先程とは打って変わって、表情は引き締まっている。


ーー君は、伊藤には父親がいないこと、知ってるだろ?ーー


「ああ、その話は聞いた」


ーー俺は伊藤が死んだ後に、伊藤の葬式に出たんだ。そん時に、俺はびっくりしたんだ。

なぜかって?

伊藤の母親の隣に、見慣れない男がいたんだよ。俺はすぐに気付いた。そいつが、伊藤の父親だってことにーー


「それで...?」


ーー伊藤の両親がなぜ離婚したか。それを俺は探ろうと思った。何か、理由があるんじゃないかってねーー


「この話、伊藤は知ってたの?」


ーーいや、さっき聞いた。俺はずっと母親に『お前の父親は死んだ』って言われてたからな。生きてたなんて、思いもしなかったさーー


ーーそっからなんだよ。問題は。俺は葬式の次の日、伊藤の父親をずっと観察してたんだ。

すると、一つ大きなことがわかったんだ。

伊藤の父親には、もう1人の子供がいたんだ。そいつが子供に電話しているところ、見ちゃったんだーー


「それって、伊藤の父親は違う人と再婚して、その間に子供をもうけたってことでいいの?」


ーーいや、それが違うんだ。その子は、伊藤の母親との子供だったんだ。つまり、どういうことか。


伊藤には...ーー


ーー俺には、兄妹がいる。そういうことだーー


僕は驚きの他に、なんの感情も生まれる余地すらなかった。


窓から外を覗くと、一面に海が広がっていた。

地球の丸さがわかるほど、空気が澄んでいて遠くまで見えた。

その先に、空港が近づいていた。


ーーだけど、ただの兄妹じゃない。血は、半分しか繋がっていないんだーー


「え、ちょっと待って。 本当に訳がわかんなくなってきた」


ーー 一応、伊藤と妹は双子なんだ。でも、伊藤の方に、問題があった。

伊藤は、伊藤の母親が不倫相手とできてしまった子供だったんだ。

一卵性なのに、全く2人は似ていない。それを不審がった父親が、DNA鑑定を行った。そしたら、そういうことだったんだーー


「そして、そのまま、離婚....」


ーーああ。伊藤の葬式にも、父親は本来、出る予定はなかったらしい。まあ、来るように母親に言われたんだろうなーー


僕は伊藤の表情を確認した。

重い顔をしているのは言うまでもないが、その中には、苦しさはないように見えた。


タクシーは、関西空港ターミナル1の入り口付近に止まった。


「兄さん、ようわからんけど、気いつけや」


「はい、ありがとうございます」


僕は1000円札を3枚、財布から取り出して、運転手に渡した。

お釣りを受け取って、車を出た。


僕は伊藤の肩をそっと叩いた。


「なあ、じゃあその妹って、誰?」



伊藤はすぐには口に出さなかった。

だけど、エントランスの自動ドアを抜けた辺りで、彼は一度立ち止まった。


彼は前を向いたまま、僕に言った。


ーー榎本奈々。彼女が俺の、妹だーー



僕はその言葉を、うまく咀嚼できずに、一度吐き出しそうになった。

衝撃の事実は、僕をいとも容易にむせさせた。


「おい、伊藤。それ、本当...」


伊藤は頷いた。

そして無言で歩き出した。


言葉の意味を理解するのはとても容易い。

だが、それを事実として頭に入れようとすると、途端にショートした。

理解が追い付かない。

僕にとっては、至極受け入れがたいものなのだ。


胸が焼けるほど、熱くなるのを感じた。


まさか、榎本さんが、伊藤の妹だなんて....。



呼吸をするのを危うく忘れてしまうほど、僕は動揺が隠しきれなかった。


ーーおい、間に合わねえぞ。早く行くぞーー


何に間に合わないかは、一切わからないが、それどころではないと言うのが本音だ。


伊藤は僕の右手を強引に引っ張って、エレベーターに乗った。


伊藤は、どんな気持ちなんだろうか。


僕の想像を超えた、何か強い気持ちに駆られているのではないか。

でないと、ここまで来ない。


僕は他人事として過ごすことにすごく罪悪感を抱いた。


ーーこの辺にいてもおかしくないんだがなぁーー


富樫は、国内線の出発ゲートに着いてから、そう呟いた。


「榎本さん、どこか行くのか?」


ーーああ。 受験のために東京に行く。 この機会を逃したら、次こっちに帰ってくるのは、3月中頃だ。もうチャンスはないーー


「よく知ってるんだな」


僕は少し皮肉を込めて、富樫に言った。


ーーそら、そうだろ。俺は、彼女に憑依してるんだからなーー


はい?


この男が?


榎本さんに、憑依?!


僕は一年前の、あの記憶が蘇ってきた。

スポーツ大会の時だ。

あの日、彼女は幽霊が見えると言っていた。

それはつまり、こいつか。


いや、もしかして...。


最近のストーカー事件も、こいつじゃねえのか!?


「もしかして、あのストーカーって、お前か?」


富樫はクスッと笑った。


ーーああ、そうだ。だけど、ああなるとは思ってもいなかった。俺はただ、自分のことを説明しようとしたんだ。だけど、名前を告げた途端...ーー


彼は言葉を濁した。

だが、言いたいことは十分にわかった。

要するに、榎本さんは、誤解してしまったということか。

彼は本当に「富樫駿」なのだが、彼女にしてみれば、知らない男が急に昔好きだった(?)人の名前を言いに来た不審者にしか見えない。


なるほど、それで彼女は警察に相談したのか。


点と点が、ハッキリと線で繋がった。


ーーすまない。 俺のせいで、警察に呼ばれたりしてーー


富樫は頭を下げた。


「いや、気にしてない。逆に、感謝してるよ。今回のことがなかったら、僕はもう二度と彼女に会えなかったかもしれない」


富樫は、頭をあげると、ありがとう、と一言告げた。


「なんで、榎本さんに憑依することになったの?」


ーー伊藤のことを解決しようともがいてるあいだに、事故にあって死んじゃったんだ。どうせだったら、死んだ後もこの問題に決着をつけたかったんだ。

彼女に憑依したら、何か新しいことが掴めるんじゃないかって、そう思ったんだーー


「榎本さんに、そのこと、言うつもりなの?」


ーーああーー


今度は、伊藤が答えた。



幸い、建物の中は暖房がよく効いていて、彼女を待つのも苦ではない。

だけど、彼女が本当のことを知ったら、どうなるのだろう。

それが、ものすごく怖い。

果たして、僕はここにいていいのか?


そんな不安が、時折僕を追い込んだ。


しかし、その疑問の答えが浮かぶ前に、彼女は来た。


ーーおい、来たぞーー


僕は目を凝らして、彼女を探した。

中国人のツアー客や、奇抜なファッションのバカップルがごった返している空港内は、ひとりの女子高生を探すのにはもっぱら不向きだ。


なのに、僕はすぐに、スーツケースを転がす彼女を見つけた。

受験期のストレスだろうか、はたまた別の理由か、体を重そうに運んでいる。

目の下にはクマができて、大きく腫れており、表情には疲れが見えた。


僕の足が、ひとりでに動き出した。

脳からの命令を無視し、彼女へと歩みを進めた。

多種多様な言語が飛び交う中を、突き進む。


彼女が目の前に迫ったその瞬間、彼女はその疲労した顔を上げた。


「え、榎本さん! 榎本さん!」


僕はこの時、自分の体はもうこれ以上、制御ができないことに気付いた。

だが、このまま流れに任せてみろと、そういう僕もいたのだ。


彼女は僕の声を聞くと、周りを見渡した。

そして僕の存在に気付いた。


「富樫くん...」


彼女は確かに、そう言った。

声は僕の方まで届かなかったが、口元の動きは完全にそうだった。

そしてすぐに恥ずかしそうに目線をずらした。


僕はさらに、スピードを上げた。

彼女はその場で立ち止まったまま、俯いた。


僕は彼女のそばに駆け寄った。


「榎本さん...」


緊張感が胸の奥から湧いてきた。

なんて声をかけたらいいのかも、わからない。

彼女の方も、僕をチラッと見ると、髪を触ったりしていた。


ーーあの、はじめましてーー


え、と思って振り返ると、富樫と伊藤が手を組んだまま僕の後ろに立っていた。

声をかけたのは伊藤だった。


「え? あ、どうも...」


彼女は困惑の表情を浮かべるも、一応返事をした。

しかし、彼女は知らないのだろう。

この2人は、僕と榎本さんにしか見えないことを。


それを含めて全て、彼女に説明しなくてはならない。

僕は一歩後ろに下がった。

ここからは、伊藤と富樫が説明してくれるはずだ。


ーー時間がないのは承知の上で、ちょっとお話ししたいことがありますーー


「いや、でも...」


彼女は助けを求めるように、僕の方をを涙目で見つめてきた。

僕は、大丈夫、と声をかけた。

そしてようやく彼女は、渋々首を縦に振った。


伊藤と富樫は、彼女を壁際に連れてきた。

まず最初の口を開いたのは富樫だった。

概ね、彼が僕に話したことと同様のことを伝えた。

僕はずっと後ろから眺めていた。

伊藤の陰に隠れて、榎本さんの表情は確認できないが、手にハンカチを持っているのはわかった。


そして、伊藤が喋り出した。

彼女はすぐに、その場にしゃがみこんで、子供ように泣きじゃくってしまった。

僕は流石に我慢が出来なくなって、自分とは無関係とは知りながらも、話の中に割って入った。


「榎本さん、大丈夫?」


何を話せばいいのかわからないのは相変わらずで、また同じ言葉が口をついて出た。


それでも彼女は、僕の問いかけに頷いて応じた。


僕は、伊藤を見て、さらに驚いた。

伊藤も、目を真っ赤にして、彼女と同じように泣いていた。


ーーそして、俺が...ーー


伊藤は、鼻声で、また口を開いた。






ーーこの俺が、あなたの兄ですーー



榎本さんの泣いていた声が、一度パッと止まった。

彼女は恐る恐る顔を持ち上げ、伊藤を見上げた。


「あなたが、私の....?」


ーーああ。 そうだよ。俺がお兄ちゃんだぞーー


彼女の顔に、初めて笑みがこぼれた。

それはぎこちないものだったが、なんだかそれはそれでいいんじゃないかと思えてきた。

だけど伊藤は、まだだらしなく涙をこぼしていた。


ーー で、富樫。 お前、榎本さんに言いたいことがあるのだろ?ーー


と、急に富樫に話を振られた。

まさかの展開に、僕は少し慌てふためいたが、心を決めた。


「榎本さん、まず、ごめんなさい」



彼女はゆっくりと立ち上がった。


「一年目、あんな最低なことをしてしまって、本当にごめんなさい。何もかも未熟でした。傷つけてしまって、本当にごめん」


榎本さんは右手で頬を流れる涙を拭った。

少し、間をおいて、彼女は口を開いた。


「私からも、ごめん」


彼女も、そう言って謝った。


そして次の瞬間、僕の胸に彼女の頭が飛び込んできた。

彼女の体温が、現実味を帯びて僕の胸に伝わってきた。

彼女の温もりに触れた、初の瞬間だった。


僕はそうっと手を伸ばして、彼女の背中に回した。

あまりきつくならないように、そっと軽く背中に手を置いた。


嬉しかった。

言葉にならない幸せが花を開いた。

しかし、こんな感じの恋愛に慣れていない僕は、果たしてこんなハグなんてことをしていいのか、なんていう罪悪感も湧いた。

この期に及んで、まだそんなことを考えているのだ。


この雰囲気に慣れるには、まだまだ時間がかかりそうだ。

ただ、初めてにしては良く出来たと、僕は自己完結させて、少しニヤッとした。


て、こんなことを考えている間も、僕はずっと彼女と触れていた。

もっと触れていたい、そういう感情がポケットの中からチラッと顔を見せた。


やがて、彼女はゆっくりと僕の胸から離れた。

顔を上げて、僕を見た。


「....ものすごい、好きです」


彼女はそう言うと、照れ臭そうに下を向いた。


彼女のその言葉は、僕の心に染みた。

モノクロで空白だった1年間が、瞬く間に色付いていった。

嫌な思い出も、幸せな思い出も、今この目の前にある現実も、全てが誇らしく思えた。


生きてる意味を見つけた。

この18年間、生きてて本当に良かった。

明るい未来が、窓を開けて僕らを待っている気がする。


今までは、道に迷って立ち止まって、挙げ句の果てに逆戻りすることはざらにあったけど、それでも今、僕はここに立ってる。

なんとか、自分の足で踏ん張って、自分の手で幸せを掴んだ。

これほど自慢になることは無いと思う。


そして、彼女の笑顔を見るたびに、また恋心が弾む。

どんどんと膨れ上がる思いが、いつか宇宙の大きさを超えて、何もかもを飲み込んでしまう日が来るかもしれない。

だけど、それはそれでいい。


「榎本さん。僕も、大好きだよ」


僕はもう一度、彼女を抱きしめた。

今度は躊躇などせず、自分から飛び込んだ。

若干ひかれようが、構わない。

僕はそれ以上の、もっと大切で、守るべき人がいるんだ。


榎本さんは、僕の手の中で、笑った。

可愛くて仕方がなかった。



おそらく、僕も榎本さんも、自分たちのことで精一杯で、周りの状況が全く見えていなかったのだろう。

それも、そのはずである。

仕方がないと言ったら、まあその通りなのだ。


しかし、僕らの知らない間に、事態は急に動いていた。


僕らがふと伊藤と富樫に目をやった時、僕らは度肝を抜かれた。

言葉も出なかった。


伊藤と富樫が、だんだんと、目に見える速さで、色褪せていくのだ。

不思議なことに、彼らは満面の笑みであった。


「おい、これ、どうなってんだよ。おい、伊藤!」


伊藤はただ無言で、うんうんと頷くだけだった。

その瞬間にも、だんだんと色は薄くなっていく。


「何これ? ねえ、どういうこと!?」


榎本さんは、動揺してしまって、状況の整理ができていない様子だった。


ーー俺らがFLWで生きられるのは、願いが叶うまでだ。今この瞬間、それが叶っちゃったんだーー


と、富樫は淡々と説明した。


ーー俺は伊藤の妹、つまりは榎本さんが、幸せになるのが願いだったーー


「えっ?私の...?」


が、もちろん、説明されたところで、冷静さを保てるわけがなかった。

僕も、榎本さんもだ。

幸せ絶頂の次にやって来るものは、儚い別れであった。


ーー俺は、お前が幸せになる、それが願いだったーー


やっと、伊藤は口を開いた。

僕の肩を、冷たい手が撫でた。

もう触られた感触すら感じ得なかった。


「なんだよそれ...。泣かせにきてんのかよ...」


もう伊藤の姿はほとんど消え、透けて後ろの背景が見えてきた。

もう、それほど長くはないだろう。

それは僕にでもわかった。


「待ってよ...。 お兄ちゃん、もうちょっと待ってよ...」


榎本さんは、顔をくしゃくしゃにしながら伊藤に向かって言った。


ーーそんなこと言われたって、無理なもんは無理なんだーー


「ねえ、まだ会えたばっかりじゃん。まだ、数分しか経ってないじゃん。お兄ちゃんに伝えたいことがいっぱいあるの」


ーーそっか。じゃあ、天国で待ってるから、そん時に聞かせてねーー


「お兄ちゃん...」


榎本さんは、その場で立ったまま、また涙を流し始めてしまった。

目の前で消えていく、自分の兄を見ながら。

為す術もなく、見守るほかなかった。


僕は急いで、ポケットの中に手を突っ込んだ。

そして携帯電話を取り出し、カメラモードに切り替えた。


「ねえ、写るかわかんないけど、みんなで最後に写真撮ろうよ。ほら、早く」


透明になりつつある伊藤と富樫をぐっと引き寄せて、真ん中に集めた。

僕は左にいた伊藤と、肩を組んだ。


「ハイ、チーズ」


カシャ。


乾いた機械音が、僕の耳に届いた。

しかし気付いた時には、もう僕の肩の中には伊藤の姿はなかった。

もちろん、端にいた富樫もいなくなっていた。


「え...? お兄ちゃん? お兄ちゃん?」


榎本さんは、必死に当たりを見渡した。

顔をクシャクシャにしながら、ウロウロと周囲を歩き回った。


「お兄ちゃん!お兄ちゃぁあああん!!」


その叫び声は虚しく、空港の館内に吸い込まれて消えていった。

帰って来るのは、人々の冷たい目線だけだった。


僕は彼女の腕をとって、やや強引に館内の隅っこまで引っ張った。

が、彼女は決して抵抗しようとはしなかった。

もう無駄だと、心の中ではわかっていたのかもしれない。


グスングスンと泣く彼女の横に、僕は座った。

手には、先程写真を撮った携帯を握りしめていた。


僕は携帯のパスワードを入力して、写真フォルダを開いた。


そこに写っていたのは、4人ともが全員大号泣していながらも、全員が超笑顔でピースしている写真だった。

それが何より、別れを悲しみながら、また自分達の未来に希望が持てた証拠だった。


榎本さんは、横からそれを覗き込んで、少し苦笑いを浮かべた。









- [ ] エピローグ










東京駅に向かう新幹線は、窓の外の風景を置き去りにしながら、すごいスピードで走った。

両耳のイヤホンから流れる音楽を味わいながら、列車に揺られた。


大学の生活にも、少しずつ慣れてきた。

変な方言を喋る友達がいっぱい増えた。

関西弁が恋しくなる時も多少あったが、別に気にすることではなく、何不自由なく暮らしていた。

ただ、コンビニがもう少し近くにあったら、なおのこと良い。


ピロン、と携帯が鳴った。


(もう着いたよ)


うわ、まじか。

榎本さん、流石に早すぎる。


僕はまだ、宇都宮を通過したばかりだ。

まだかなり、時間はかかるだろう。


僕は急いで指を動かした。


(早すぎるよ笑。 もう少しかかるから、どっかの喫茶店でも入って待ってて。)


送信ボタンを押して、ふーっと一息ついた。


ピロン。

返信はすぐに帰ってきた。


(りょー)


僕は思わず、ニヤついてしまった。

りょー、のたったの一言だけから、なぜか彼女の可愛さが滲み出ている。

会いたい気持ちが、自然と僕の口角を上げた。


新幹線は、予定通りの時間に東京駅に着いた。

僕はリュックを肩に背負い、小走りで下車した。


東京の第一印象、とにかく人が多い。

ホームには無数の人が、列を作って並んでいる。

冷や汗が止まらない。

帰りには、この中に混じって電車に乗らなければならないのだから...。


彼女はどこにいるのだろう。

喫茶店の名前は聞いたものの、どこにあるかがわからない。

東京駅は迷路だぞ、とよく友人が言っていたが、なるほど、今となっては完全に共感できた。


とはいうものも、僕も一応男な訳で、彼女にダサいカッコを見せるわけにもいかない。

僕は駅員さんに、丁寧にその店の場所を教えてもらってから、そこに向かった。


案の定、途中でわからなくなったが、野生の勘と親切なおばさんのお陰で、なんとか辿り着いた。

店内を覗くと、彼女が窓際の席に座っていることが確認できた。


髪を整えるのも忘れ、急いで木製のドアを引いた。


「ごめん、遅かった?」


僕は彼女の背中側から声をかけた。

彼女は振り向いて、眠そうな顔を僕に向けた。


「うん。だいぶね」


僕は彼女に前の椅子に腰をかけた。

薄い座布団が長時間の移動の疲れをほんの僅かだけ癒した。


「それ、何飲んでんの?」


「これ? 普通の紅茶。まあ、美味しいよ」


「じゃあ、僕もそれにしよっかな」


僕は店員さんを呼んで、同じ紅茶を一杯頼んだ。


「東北大学、どんな感じなの?」


彼女は手にティーカップを持ちながら、そう聞いた。


「いいとこだよ。そっちは?」


「最高! 毎日遊んでるもん」


彼女は満面の笑みで答えた。

僕も彼女が楽しそうで、少しホッとした。


頼んだ紅茶は、すぐにテーブルに運ばれてきた。

彼女の言う通り、普通の紅茶だったが、一人で飲むより何倍も美味しく感じた。


二人とも飲み終えた後、僕らは店を出た。


「じゃあ、行こか」


「うん、そだね」


目的地までは、タクシーで行こうかという話になった。

駅前でタクシーを拾って、その場所に向かった。


都会を走っていたのは最初の30分ぐらいで、あとはずっと同じような田んぼが広がり風景が続いた。


「ねむーい」


彼女は周りの景色を見飽きたのか、そんなことを言い始めた。

そして彼女は、僕の左手を右手でそっと包んだ。

僕は優しくその手を握った。


そんなことをしてる間に、目的地の霊園に着いた。


僕らは中に入って、ある人物の名前を探した。


「あった! こっちだよ、こっち!」


霊園にしてはやや大きめな声で、榎本さんは僕を呼んだ。


彼女の目の前の墓石には、二人の名前が刻まれていた。


富樫駿、そして伊藤祐輝。


僕らは彼らの前で、手を合わせた。


「まだ私たち、仲良くやってるよー」


そう言い出したのは榎本さんだった。

僕は思わず照れてしまった。

彼女は僕を見て大げさに笑った。


「お兄ちゃん達、天国で遊びまくってんのかな?」


「うん、たぶんね。絶対毎日カラオケ通ってるよ」


「天国にカラオケあるの?」


「さあね」


彼らの姿を見ていたら、死んでもそこそこ幸せなのかもしれない。

どうせ、今この瞬間も、二人でイチャイチャしてるんだろう。


でも、だからといって、この世の生活を疎かになんてできない。

俺はまだ、死ねない。

僕はもう、生きる意味を見つけた。


榎本さんを幸せにするまでは、絶対死ねない。








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