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第1話 ここは海の中

 それは、ちょっとした段差を踏み外したときのごとく、何の前触れもなくわたしの心を掻き乱したのでした――


 突然両足という支えを失ったわたしの体は、すでに宙に浮いていました。冷たい地面にぶつかるまでの時間が、とてもゆっくりと感じられます。


 いえ、実際にゆっくりだったのです。


 水の底へと沈んでいくような遅さで、わたしは地面へと、あろうことか顔から突っ込もうとしています。


「ま、待って! 顔からはダメ……」


 白くきらめく地面はもう目前まで迫っていました。

 咄嗟に手をバタつかせますが、時すでに遅し。抵抗の甲斐なく、わたしは顔面から不時着したのです。


「…………痛く、ない?」


 鼻を押さえながら、顔を上げます。ペタペタと顔を触ってみましたが、特に傷はなさそうです。地面が柔らかい砂地で命拾いしました。


 もしも顔に傷でもこしらえようものなら、お母様にこっぴどく叱られていたでしょう。あれは寿命を削ってくる類のものです。

 顔で着地という滑稽な姿をさらした時点で、社会的に死にかけてはいますが、その点については目を瞑りましょう。


 それはさておき。


「さて、ここはどこでしょう?」


 体を起こし、頭上を見上げます。

 そこには見慣れた家の天井ではなく、ましてや澄み渡った春の空でもない、キラキラと不規則に揺れる、まるで海面のような空が広がっていました。

 一枚の大きな布のようなその空は、コンサートホールの天井ほどの高さにゆらゆらと漂っています。


「海の中、でしょうか」


 水中にいる、水を纏っているという感覚はないのですが、周りの景色から察するにどうやらここは海底のようです。


 ほのかに感じる潮の香り。水中で嗅覚が効くというのはおかしな話ですが、実際にこの身で感じたことを否定することはできません。一方で、海水特有のしょっぱさは感じられませんでした。


「……そういえば普通に息ができていますけど、どういった原理なんでしょう」


 声も地上と同じように発することができています。空気の泡が口や鼻から漏れ出すこともありません。

 至極当然のことですが、わたしは人間です。水中で呼吸などできませんし、水中で話すといった芸当もできません。


 まさか魚になってしまったとでも言うのでしょうか。


「そんなこと、ありえ……」


 ないですよねぇ、とは言えませんでした。


 この目で、非現実を見てしまったからです。


「え……? あ、足が……」


 海面から降り注ぐ光にきらめく、ただ唯一の銀色の脚。

 その先では、薄く半透明な魚の尾ヒレが静かに揺らめいていました。


 見慣れた足の面影はどこにもなく、わたしの下半身はいつの間にか魚のソレに成り代わっていたのです。


「え、なんで……?」


 頭の中が「なんで?」で埋め尽くされ、考えが全くまとまりません。

 目をこすってみても、頬をつねってみても、わたしの足は依然としてその姿形を変えたままです。


「さ、魚? わたし、サカナ……?」


 頭の片隅では、この非現実的な事態が現実だと分かっています。

 けれど、それを呑み込むにはもう少し時間が必要なようでした。


「でも、体、人間……。手、ある……」


 動揺しすぎて片言になっているわたしですが、しばらくしてやっと現状が把握できました。無論、把握しただけで納得はしていませんが。


 つまるところ、こういうことです。


「人魚に、なったのですか……」



 白い砂の海底に指で文字を書きながら、わたしは現状の整理に努めていました。

 そこで二つ、分かったことがあります。


 一つ目は、わたしの姿が人魚の女の子になっているということ。


 いえ、人魚になっているのは百も承知なのですが、上半身――人間の部分が、わたしの体ではなかったのです。


 子どものような小さい手のひら。

 日焼け跡のない、すべすべしっとりの肌。

 着ている服も我が家のタンスにはない代物で、白を基調とした民族衣装でした。


 ……まるで、中身だけ別人と――人魚と入れ替わってしまったみたいですね。


 そういえば似た話があったなぁと、とある作品名が脳裏を掠めましたが、噂程度にしか知らないようなものです。すぐに記憶の彼方へと消えていきました。


 そして、二つ目の問題について頭を悩ませます。


「うーん。どうしても今朝のことが思い出せませんね」


 昨晩ベッドに潜り込んだ後から、先ほど自分が人魚になっていると気づいたときまでの記憶が、すっぽりときれいさっぱり抜け落ちているのです。


 空――というより海面から差し込む光の角度から、今は昼頃だということは分かります。

 けれど、今朝寝坊せずに起きたのか、朝食は和食と洋食のどちらだったのか、ちゃんと歯を磨いたのか等々、それらについては全く以てわかりません。


 何はともあれ。


「人魚になった原因は、後で考えることにしましょう」


 この不可思議な現象を解明したくはありますが、残念ながら今はそれどころではないのです。

 それは、とある重要なことを思い出したからに他なりません。


「今日は確か、午後からピアノの先生がいらっしゃるはず。人魚なんかになっている場合ではありませんね……」


 稽古に遅刻でもしたら、先生とお母様からこっぴどく叱られるのは目に見えています。想像しただけで歯がカチカチと鳴り、手が震え出す始末です。


「は、早く帰らなくては……!」


 慌てて立ち上がり――足がなくなっていることを失念していたわたしは、バランスを崩し、再び顔面から突っ伏してしまいました。

 ふんわりと白い砂が巻き上がります。


 人魚となった今、わたしの下半身はヒトのソレではなく魚のソレです。

 移動するには魚のように泳がなければなりません。


 ……ここでもう一つ、失念していたことがありました。


「わたし、浮き輪がないと泳げないのですが……」


 そう。実はわたし、カナヅチなのです。

 幼い頃、海で溺れてしまったのが原因でしょう。それがトラウマとなり、情けないことにわたしは泳ぐことができなくなったのです。


「どうやって海面まで行けば……?」


 辺りをぐるりと見回してみましたが、海面に届きそうなほど大きな岩は見当たりません。海藻や魚などの生き物の姿も少なく、隆起のない白い砂地がどこまでも続いていました。


 ……そもそも、どっちに向かえばいいのかさえ、分からないじゃないですか。


 手元に地図があるわけでも、家への看板が刺さっているわけでもありません。

 下手に移動しても迷子になるのがオチです。


 ……すでに迷子になっているようなものですけど。


「…………」


 一人でこのような場所にいるからでしょうか。


 霞んで見えない遠くの方に吸い込まれてしまうのではないか。

 突然巨大な生き物が現れて、丸呑みにされてしまうのではないか。


 時間が経つにつれて、不安や恐怖がじりじりと押し寄せてきます。


「……どなたか、いらっしゃいませんか~」


 小さな声は微かに響いた後、空しくも海の中へ溶けていきました。


 わたしもこの声のように消えてしまうのではないか。

 文字通り、海の藻屑となってしまうのではないか。


 そんな不安を振り払うように、わたしは必死に声を上げます。


「あ、あの~」

「だれか~」

「たすけて、くださ~い」

「…………」


 わたしの声に呼応するものはありません。


 耳を澄ましても聞こえるのは、風が吹き抜け、草木が揺れるような音ばかり。

 おそらく海流が岩々の隙間を通り抜け、海藻を揺らしたのでしょう。


 けれど、不思議なこともあるものです。

 孤独で不安で仕方なかったはずなのに、このどこか懐かしい自然の奏でる音に耳を傾けているうちに、なぜか心が落ち着いていったのです。


「少し、休みましょうか」


 緊張が解れたのか、急に疲労感と眠気が襲ってきました。


 突如この身に起きた異変。

 助けの来ない見知らぬ地。

 見るもの感じるもの、どれもが非現実的で理解に苦しむ世界。


「…………すぅ」


 思っていたよりも心労が大きかったようです。

 一人の人魚は柔らかい砂に身を預け、いつとはなしにその瞳を閉じていました。


 ――この現実から目を背けるように。


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