愚者編
あの日、私を拾った神様は囁いた。
世界へと牙を突き立てる意思はあるか、全てを神に捧げる覚悟がお前にはあるのかと、畏怖を抱かせるまでに冷たい声で私に語りかけてきたのだ。
恐ろしく無知で人を疑うことを知らない私でも、彼が神ではなく悪魔に等しい邪悪な存在だと理解することが出来た。しかし、私は彼が世界の敵だと把握しながら、その差し出された手を取ったのだ。
その手は誰よりも体が凍てつくまでに冷たくて、誰よりも優しく暖かい気持ちを抱かせてくれる温もりに満ちていた。言葉で語り尽くすには何時間も掛かるまでに深い幸せを、その一瞬に見出すことが出来たのだ。
私は私の神様のために色々なことをしてきた。
人を殺めた。両手の指の本数より多い人数を瞬きする刹那の内に、もしくは1人を延々と痛め付けながら。私の手には、洗っても落ちない染みと香りが怨念のように纏わり付いている。
本を燃やした。あらゆる神々の言葉も人類の叡智の結晶も、私の神様の前では全て破壊するべき物だったから。私の記憶には、いつまでも消えない火種と本を抱いて共に焼かれた者の悲鳴が乱雑に刻まれている。
眼下の世界は赤く染まっている。神様は満足げに言の葉を紡ぐのだ。
「世界は脆すぎる!弱すぎる!こんな世界に意味などあるものか!」
――そうだろう。神様の同意を求めるその言葉は1発の銃声にかき消された。
私の右手には人類の叡智で生み出された、光沢のある黒い塗装を施された金属の塊が収まっている。心が歓喜に煮え返り、目の前で膝を付く私の神様に酷く興奮するのだ。
私は神様に感謝している。ここまで私という存在が生き長らえたのは神様が居たからであり、なにより人の殺め方を細かく教えてくれたのは彼なのだ。
恨みなどない。しかし、前提が違うだけ。彼は自らを神の化身や大悪魔、はたまた神そのものとして振る舞う狂人だが、結局のところ人間なのだ。
人間である以上は殺せぬ道理などないし、人間だからこそ殺していいのだ。
神を名乗る狂人に付き従えるのも楽しかったが、その狂人を殺すのはそれ以上に愉快な物であるのだから殺さぬ理由がない。
彼の顔が苦痛と驚愕で歪む。その表情に、私は言葉にするには邪悪過ぎる快感を得るのだ。
「どうして、お前が……」
その問いは実に愚かである。彼に言葉で答える代わりに、その肩に銃弾を撃ち込んだ。
私は地に堕ちた愚者、神が与えた神聖なる言葉を忘れた獣。私の信仰する神はどの神かは分からないし、分かったところでその神が実在するかは全く知らない。
私の世界で真なのは私という存在で、偽はその他の全てなのだ。自分にとって唯一正しいのがこの黒く淀んだ感情だけであり、私以外の全ては信じることが出来ぬ嘘である。
だからこそ、こうして彼に苦痛を与えることが楽しめる。
彼の額に銃口を突き付ける。彼は泣きながら、救いを求める言葉を絞り出すのだ。
「やめてくれ、私は死にたくない……!」
ああ、馬鹿だ。私がそんな言葉で止まるものか。
空いた左手を彼に見せ付ける。消えない染みで汚れた手を、怨嗟がこびりつくその手を見せ付けた。
死にたくないなど、耳が腐るまでに聞き飽きた言葉だ。人はみな救いを求め、暗闇で覆われた未来に縋り付く。私はそんな彼らを殺してきたのだから、今に至っては良心など痛まないのだ。
恐らく、それが私から彼に捧げる最初で最後の言葉だっただろう。
「さようなら」
私は笑みを浮かべながら引き金を引いた。
空に銃声が響く。その銃声の余韻を楽しんだ後、神様を殺した愚者の頭に銃を突き付けて引き金を引いた先のことは覚えていない。