アヤカシ編
昔々、都には人が寝静まった頃に道を我が物顔で歩く人ではない何かがいました。
彼らには色々な名や姿形がありますが、私は彼らをアヤカシと一括りにて呼ぶことにしましょう。
アヤカシの練り歩くその姿は幼子に恐怖を覚えさせるのは容易く、また大人でさえ気を失わせたと伝わるものでございまして、それゆえ彼らが出歩く夜は彼らの時間であったのです。
しかしまあ、狐の面を被った狸と狸の面を被った狐が取っ組み合いの喧嘩をしている光景を見て、私は大笑いしたものですよ。
貴様はどう見ても狐だろうと、そういう貴様は狸ではないかと、夜が明けるまで二匹は言い争うその面白おかしな様は、彼らアヤカシが人に害成す者であることを忘れさせてしまうのでした。
そんな都に、アヤカシに魅入られた絵描きが一人。
そして、ああ、今にも鬼に丸呑みにされそうになる人間が一人。はてさて、此奴の名前はなんだっただろうか。職業は絵描きだったのは覚えているが、名前は思い出そうとすればするほど遠のいていくのでありまして。
……月光に照らされた都にて、鬼が腹をさすりながら次の餌を探していますな。
ですが、彼のことはどうでもいいことなのです。
ええ。絵描きだったことや鬼に喰われたこと、古き都に住んでいたことに意味はなく、その絵描きが私だということもまた蛇足なのです。
今から始まるのは、アヤカシの女と人間の男の話でございます。
――都の面影は残りけど、もはやそこに都はなし。
昼も夜も人は道を歩くが、もはやそこにアヤカシの影はなし。
人は栄えど、アヤカシは栄えぬ。
闇夜を強き光に照らされて、闇はその姿を影に隠す。
アヤカシ好きの私からすれば誠に残念なことですが、時代を重ねるごとにアヤカシは徐々に表舞台から去ってしまわれたのです。
ええ。もはや彼らのほとんどは街には居ません。
街がこう明るくては、彼らも迂闊に徘徊出来ませぬ。
この行灯でもない提灯でもない電灯という灯りは、油がなくても辺りを照らし続けるという摩訶不思議な物でございます。
光とはアヤカシの嫌いな物の一つ。月明かり程度の明かりならば彼らも喜んで出歩くけれど、ここまではっきりと姿を露わにされてしまっては悪さがし辛いというもの。
それに加え、人間は力を得てしまいました。力を後ろ盾にした勇気という厄介な感情まで手に入れた人間にとって、アヤカシとは恐るるに足らない存在に変わってしまったのであります。
しかし、光とは限りあるもの。この街という明るい世界があるならば、田舎と呼ばれる暗き世界もあるのです。
そこで彼らは今も夜な夜な彷徨っているのです。
人を喰うなどという真似をしなければ、まあ辛うじて生きていけましょう。
そんな田舎に十五歳の男が一人。男というよりは、少年と言った方がいいでしょうな。
彼の名は三郎。名字は稲川。
三郎は見目麗しいとまでは言えぬが、並の容姿を持っている。
まあ、特別言わねばならぬことはありませぬ。この男を好いた女が二人いたということは羨ましゅうことではありますが、それほど騒ぎ立てることではあるまいて。
さてはて、この田舎。霧山と呼ばれる山が北にありまして、入った者を喰らい殺すという伝承があったそうな。
ですが、この少年は何かを求めて霧山へと入ろうとするのであります。
話は変わりますが、幼子というのはいつの時代も好奇心旺盛なもので、行ってはならぬと言われた場所へまるで何かに吸い込まれるように行ってしまうものであります。
彼と彼女の話を語るならば、まずは幼き頃を語らねばなるまいな。
この三郎という男は八歳の頃に、この霧山へと初めて足を踏み入れたのでございました。
肌に降り掛かる霧は、幼子にとってさぞ気味悪かったでございましょう。
私のような者にとって霧は新たな出会いの予兆でございますが、ごくごく普通の者にとってはさぞかし恐ろしいものですから。
しかし、この少年は愚か者と言えましょう。
その霧の中を、当てもなく彷徨うのであります。何かよからぬ者に導かれるようにふらりふらりと歩き続けた末に待っていたのは、古びた鳥居と苔生した参道でありました。
私であれば、連なる鳥居を潜る前に踵を返したでしょうに。
アヤカシと神は似て非なるもの。しかし、どちらも軽い気持ちで触れてはならぬのです。
そう、鬼と飲み比べする際には自らが肴になるという危険があるということを肝に銘じなければ、あれよあれよという間に喰われてしまうのであります。
しかし、彼はそんなことを知らずに鳥居を潜り、その先へと向かうのでした。
彼の中では好奇心が恐怖に打ち勝ってしまったのでしょう。もしくは、何か得体の知れぬものに取り憑かれたのかもしれませぬ。
そして、ああ、出会ってしまったのでございます。
見た目としては三郎と同い年かそれより若いと思われますが、アヤカシの年齢を見た目から導き出すのは容易いことではありませぬ。
「……へぇ、人の迷い子か」
彼を見つめるは暗紅の瞳。風に揺れる長き髪は白亜に染まり、その肌は雪白とまではいかぬが白く美しい。
緋色の袴と純白の千早。その姿はまさに神に仕える巫女のようでありました。
そして、その頭から生える狐の耳は、彼女がアヤカシか神仏の類いだということを示していたのです。
ああ、私が帝であったならば、彼女をそばに置きたいと願ったでしょう。
自らの欲望で国を傾けることになっても、山のような財宝を全て捨ててでも、……親しい誰かを殺すことになったとしても。
誰かを狂わせる程の魅力は、アヤカシの特徴でございましょう。
かくいう私も、アヤカシに心奪われ命を失った者でございます。
そして、この男。三郎もまた、アヤカシに魅了された馬鹿な男でございまして、彼女に好意を抱くわけです。
アヤカシとは人間になきものを持つ異形たち。あるアヤカシは剛力を、またあるアヤカシは人の心を覗く力を、そして彼女のように人間にはない美貌を。
最も、まだ彼女は美しいより可愛らしいという言葉が似合うのですがね。まだ花咲く前の蕾の段階でありました。
……ここでメモは途切れている。
ここまでがストック。
次は完全に未定です。