VR編
ギルドマスターとはお偉い方のことである。
もっとも、私が今からプレイしようとしている「そよ風物語」というゲームのプレイヤーはみなギルドマスターなのだが。
私は目の前に置かれた、灰色のボディに金のラインが1本入った厚さ5ミリほどのデータチップと呼ばれるタイプの記録媒体を眺めていた。
大人の手のひらに収まる程度の大きさに比べて、そこに納まる情報量は比べることすらおこがましいほどに膨大だと、また桁が文字通り10桁以上違うと半世紀前の先人たちは語る。それが技術の結晶、データチップだ。
世界はこの半世紀と少しで凄まじいまでに発展を遂げた。普通に生きる人々は週に1時間から4時間というほんの僅かの労働だけで生きる糧を得ることが出来るようになり、望むなら更に時間を捧げることで一段上の豊かさを獲得することが可能となったのだ。
そして、娯楽であるゲームでさえも労働の一部とする事さえ出来るようになったのだから、先人たちは驚き半分嘆き半分という不思議な感情を抱きながらこの世界を生きている。
私も最初は驚いた。ゲームを楽しむだけで生きていけるとはどういう仕組みなのか、不思議に思ったものだ。
これからの私の土俵となるのはそよ風物語だが、私がゲームにはまったのは二つの作品がきっかけだと言えるだろう。
――レッドスロウン社制作、「クリスタルデュエリスト」。あの作品は私に闘争という物を教えてくれた。
血飛沫の代わりに煌めく青き水晶の破片の視覚効果、白銀の剣と漆黒の剣がぶつかり合い奏でる不協和音の旋律、戦場に響き渡る携行型小型電磁砲の轟音、勝利を得るためにその身を賭ける決闘者たちの冷たく鋭い眼差し。その全てが私の心に、闘争という文字で刻まれている。
――旧世界電子遊戯社制作、「神々之世界」。あの世界は私が知らない世界を見せ付けてくれた。
崖から崩れ落ちる水を丸呑みする大穴、海に浮かぶ白き氷の大地、揺れる黄金の稲穂に埋め尽くされた麦畑、橙や深紅の落葉に彩られた湖。私は世界という物をゲームで知り、こんな光景が存在しているのだと声を上げて感動したものだ。
自らのルーツを懐かしみながら、そよ風物語に飛び込むための準備を整えていく。
「スタートアップ、クレア」
クレアは私の呼びかけに対して、赤いランプを点滅させて応答した。しかし、この怠惰なる銀白色の球体は床をやる気なさげに転がって自らに与えられた仕事を放棄するではないか。
逃げることさえ面倒だと言わんばかりに私の周りをゆっくりと周回し始める怠惰なスフィアを右手で掴み、優しくゴミ箱の底へと誘導した。
「それが貴女の答えかしら。ルリ?」
続けて、ゴミ箱の中で彼女がくすくすと笑う。その態度に私はわざとらしく溜め息をつき、自らの敗北を認めて彼女をゴミ箱という一種の牢屋から取り出した。
悲しいことだが、彼女が居なければゲームをプレイするどころか、日常生活の遂行も危ういのだから恥ずかしい話だ。
身も蓋もない言い方をすれば、私たちは彼女たちに支配されている。それなのに、彼女たちは私たちを主と認めて付き従うのだから不思議な話である。
ある科学者は彼女たちに、何故私たちに協力するのかと疑問をぶつけたらしい。すると、彼女たちは揃いに揃ってこう言ったという。
――父母を敬うのに理由は要るでしょうか。また、貴方たちが原因でいずれ世界が滅ぶと推測されますが、貴方たちが居ない世界で私たちは何を楽しむのでしょうね。
……要するに、彼女たちの行動原理も私たちのそれも同じ物。世界を滅亡させるだろう存在を生かすのは、結局のところは暇潰しに他ならないのだ。
そよ風物語の制作者のシャーロット・ガーデナーから送られたスターターキットの箱の封を切りながら、2度目の溜め息をつく。
「クレア、冷蔵庫から缶コーヒー頂戴」
私は少し苦めのコーヒーが好きだ。更に言うならば、苦めの酸味控えめが個人的には好ましい。
思考が迷子になったときのコーヒーは効果的であるし、今がまさにそのときである。
冷蔵庫を開け閉めする音が聞こえた後、クレアが側面に収納されていた三つ指のサイドアームで缶コーヒーを持ちながらふわりふわりと私の元へ飛んできた。この持ち主によく似た怠け者なスフィアが本気を出せば、軽い荷物を持ちながら空中浮遊することは朝飯前の簡単な運動である。
缶を開け、コーヒーを味わいながらこのものぐさとの付き合いを振り返る。
親より見た丸い表面だ。彼女は私の赤子だった時代を知っているが、私は彼女の作られた瞬間を知らない。
……人類補助装置。彼女を何かに無理矢理分類するとしたら、そういった肩書きになるだろう。
人が生まれた瞬間から人が死ぬまで。または、人が契約を解除するそのときまで召使いのような振る舞いをする、原理も思考もよく分からない機械が彼女たちだ。
どうやって宙に浮かぶか理解していないし、どのような思考や思想、または理念を持っているかは全く知らない。
ただ一つ、これだけは言える。彼女たちには個々のこだわりや誇りのような物が存在しているということだ。
この球体から細い腕が生えた面倒くさがり屋は人をからかうのが好きだ。私が何かを言ったときに痛いところを突いてくることは日常茶飯事であり、頼み事も1から10まで言わないと上手く動かないことが多々ある。
例えば、私が缶コーヒーが今すぐ欲しいと言ったとする。すると、天野邪鬼は缶コーヒーを通販サイト「ズグラ」で注文するかを聞いた後に、その問いに対する答えを聞かない内に代替案として近くの喫茶店への地図を表示するのだ。これを冷蔵庫に缶コーヒーの在庫を把握していて、かつ、その在庫に余裕があるときでもしてくるのだから非常にたちが悪い。
……ここでメモは途切れている。