春色、狐編
世界はお前が思うより遙かに広いと、私の師匠は自慢げに言った。
確かに、私は世界を知らない。世界の果てが奈落だということなど全く考えたこともないし、教えられなければそれを知ることもなかったのだから。
しかし、私はこう思うのだ。世界の果てが奈落という説が正しいのか、と。
もっとも、それを知るには考えるのも億劫になる手間と時間が掛かり、その上で導き出した結論を証明するのは愚かだと断ずるに値するまでに無駄なことなのだ。そういう難しい事柄は学者に放り投げて解決して貰うのを待つ方が現実的で、実に無駄がない。
桜色の木々に挟まれた真新しい石畳の街道を、1人の従者と共に歩く。
「……ふむ、なるほど」
この純白の団子はとても美味だ。それは紛れもなく世界の真理である。
もっちりとして、ほのかに甘くて、桜色で彩られた木々を眺めながら頬張るのは私の心に余裕を与えてくれる。しかし、私の銭巾着は無駄に表現を重ねる必要がないまでに空虚なのだ。
例えば、銭巾着を逆さにして振ったとする。地面に落ちるのはルフェル銅貨1枚だけであり、それはそれはとても空しい音が響くだろう。
ルフェル銅貨1枚で買えるものを考えるのは非常に難しいことだ。スープの横に添えるような焼き立てのパンを買うには銅貨2枚ほど足りず、砂糖が混ぜ込まれた団子など候補にすら挙がることはない。
私の名誉に関わることなので、一つ補足せねばならない。この団子は誰かから強奪したものではなく、それ相応の働きをしたことへの報酬だということだ。
私の財布は布切れ1枚と少し程度の重さしかない。
だが、私にも論理観というものがあり、私にも誇りというものが存在する。辺境の豊かな村を襲う歴戦の山賊38人余りを骨の髄まで抹殺することの対価が3連白団子串5本という全く労力に見合っていない話に乗るまでに飢えてはいるが、村人から巻き上げることは決してしていない。
しかし、団子を私に渡したときの村長は悲しそうな顔をしていた。そっと3連白団子串2本を追加するというその気配りに、私の心はかなり痛んだのはつい先ほどの話である。
仕方ない、今の私には仕事を選ぶ余裕はないのだ。ただ、慰めを与えられるまでに私は哀れなのだろうか。
3連白団子串1本は大体ルフェル金塊3フィドン、――小指の爪に乗る程度の大きさの金塊と同じ価値がある。つまり、3連白団子串7本は21フィドンの重さの金塊と等しい価値があるのだ。
その6フィドン分の団子を辺境の豊かな村の精鋭ローグの1人であり、今は私の従者であるシュティアに差し出した。
「貴女も食べるといい」
このシュティアという少女。辺境の豊かな村では「殺し屋白狐」という二つ名を持つまでに腕が立つローグだったらしいのだが、私の師匠と比べたらまだまだである。シュティアを歴戦の山賊で例えるならば、歴戦の山賊6人分といったところだろう。
因みに、私の師匠は歴戦の山賊で例えるならば100人使っても表しきれるか怪しいという具合なのだから恐ろしい。
「……でも、サクラ様はお腹すいてないんです?」
幸せとは仲間と分かち合うことによって真価を発揮するものである。故に、私に二言はない。
「貴女はもう私の従者でしょう。その権利が貴女にはある」
私は人に気持ちを伝えるのは苦手だ。どうしても言葉が高圧的になりやすいし、いざというときの逃げ道を作ることばかり考えてしまう。
今の言葉だってそうだ。私の従者であることをいいことに自分の幸せを押し付けようとしている。
しかし、私という生き物は不器用で非常に愚かであり、これを矯正するには長い時間が必要だろう。実際、師匠は私の性格を正すことを試みたが最終的には匙を投げた。
それにしても、目の前のシュティアという少女。その碧玉の如き色合いの瞳は遠慮と興味に挟まれて右往左往している。
あの村では団子の元になるドルシア米は他の村や都市に輸出する特産品であり、普段は村内では消費することが滅多にない物品らしい。それに加え、砂糖は高級な食材である。だからこそ、この団子は彼女にとって珍しい嗜好品なのだ。
「私に付いてくる以上、明日のことは分からない。もしかしたら、明日には死んでいるかも知れないでしょう?」
……賭け事に負けて財布がほぼ空になった。そのせいで飢えで死にそうだったのだから笑えない。
彼女に対する私の言葉の半分は冗談であり、もう半分は真面目な話である。
私の言葉に意を決したのか、彼女は差し出された団子を受け取り、恐る恐る口に運ぶ。
その顔を未知への好奇心に満ちていて、師匠に出会ったばかりの私と重なって見えた。あの頃の私はこういう眩しい表情をしていたのだろう。師匠は自分には似合わない、輝くように笑う弟子を取ってしまったと嘆いていた。
そして、後悔はしていない、とも師匠は言った。
団子を口に含んだ瞬間、彼女の肩の高さで綺麗に切り揃えられた白い髪がふわりと空気を含んで膨らんだ気がした。それはただの錯覚であるのだが、彼女の気持ちは言葉を綴ることが必要ないまでに伝わってくる。
「美味しい。……収穫祭で食べる団子と比べるとずっと甘いです!」
彼女が太陽のように輝く笑顔を見せる。それは私が忘れてしまった純粋な笑顔であり、今の私にはとても眩しくて直視するのが少し恥ずかしい。
殺し屋白狐と呼ばれていても彼女はまだ幼い少女であるし、人を殺めることにまだ慣れていないだろう。少なくとも、息をするように容易く人を殺すことはしないはずだ。
人は感覚が麻痺していく生き物だ。私は団子7本の為だけに山賊の一味を皆殺しにしたが、罪の意識や後ろめたさは全く感じていないし、殺した時の征服感のような快感を覚えたこともない。
……ただ、邪魔だったから。ただ、報酬が貰えるから。
人はどこまでも残酷になれる生き物だと師匠は言っていた。その通りだと私も思う。
桜色の花びらがそよ風に吹かれて空に舞い、彼女の髪に導かれるようにくっついた。
ああ、本当に私はずる賢い奴だ。彼女の髪に付いた花びらを払うように彼女の頭を2回、3回と撫でた。
「その笑顔を忘れないように。人は貴女みたいに温かい存在になるのは難しいくせに、私のように冷たくなるのは一瞬のことなのだから」
私の言葉に彼女は首を左右に振る。それは特筆するまでもなく否定の意思表示であり、私には理解に苦しむものだった。
……ここでメモは途切れている。