グリニド編
世界とは不思議なもので、光が強すぎても闇が暗すぎても崩壊する、どうしようもないまでに脆い作品なのだ。
調和を持て余す世界を讃える言葉を呟く。ルタリカルスの街を行き交う人々に聞かれぬように、赤い瓦の屋根の上に陣取り、獣の鳴き声で世界を歌う。
「にゃー……、にゃお……」
彼らは知っているだろうか。あまりの退屈さに自らを殺す者を求めた征服王の願いを、苦しみながら死にゆく者を救済しようとする聖女の祈りを。
彼は比類なき戦士であった。しかし、彼の心を満たすには世界はとても狭く、彼は世界を手中に収めた後に、世界に愚痴を吐いたのだ。神でも悪魔でも良い、私を超えて見せろ、と。
「にゃー。にゃ、にゃーお……」
「ドラゴリアスは死んだ。最後は妻の刃に貫かれて?」
彼女は愚かな修道女である。彼女は久遠に続く平和を望んだが、世は争いに満ちあふれていて平和とはほど遠いものであった。彼女の愚鈍なまでの信仰心が導き出した答えは、世界を永遠に破滅させればいいというものだった。
「うーっ、にゃーお。にゃにゃにゃ……」
「愚かなる聖女、ルインシアは破滅する。苦しみに耐えきれず毒を飲み自害した?」
ああ、世界とはよく分からないものだ。
例えば、そう。私が紡ぐ言葉の欠片を組み立てて人の言葉に作り替えてしまう悪魔のような能力を持った少女が、いつの間にか私の横に座っていることがいま一番よく分からない事柄である。
「にゃっにゃっ」
「失礼しました。わたしはグリティアと申します」
屋根に座った少女がクロークのフードを取り、私に軽く目礼する。
彼女の第一印象として、ルタリカルス魔導研究団の中でも最上位の立場の人間か、もしくは辺獄領を旅する凄腕の魔導学者だと感じた。それ程までに彼女の体から微かに漏れ出す魔力は凄まじく、そしてとても洗練されていて身体の魔力循環に目立った無駄がない。
だが、彼女のクロークの下に見えるのは、ルタリカルス魔法学校の刻印が刻まれたバッジが付いた黒のセーターと、膝を隠せる丈の紺色のスカートである。このことからして、信じがたいが彼女が学生だという答えが導き出された。
しかし、その小さな背格好は魔法学校に入学しているような年ではないと疑問を抱いて考えていたのだが、フードを降ろしたことによって露わになった特徴的な尖った耳の形で全てが氷解した。
この少女は妖精種の血を引いた人種なのだ。それも、恐らくはゴブリンなどの比較的小さな体躯の妖精種の血が混じっている。
その蒼玉のように美しく冷たい瞳が私の目線を捕らえた。彼女の新雪のように白い手が私の額に触れる。白き手に違わずとても冷えた手である。
「うにゃー?」
「すみません。少し慰めて貰ってもいいですか?」
彼女の眠たげな表情が、また少し大きめの目が苦しげに歪んでいるのが分かった。それは親しい者の命の終わりを見届けた者がよくする表情であった。
私はそっと彼女の膝に乗り、彼女の行動を待つことにする。彼女の服からは私がよく知っている魔獣の魔力の残り香がした。
「にゃー、にゃーお?」
「……グリニド様は旅立ってしまいました」
グリニドはいい友であった。彼は魔獣という肩書きには似合わないまでに理性的で、賢者の魔獣と称されるまでに賢い魔獣だ。
……しかし、そうか。そろそろだとは思っていたが、奴は天に召されてしまった。つい昨日、夢と現の境界線を揺蕩う私に語りかけてきたのは奴なりの死への抵抗か。
ルタリカルスを慈悲深い風が静かに素早く翔る。トリタスの白銀の小さな花片を運びながら、ノーシルの甘い香りを振りまきながら。ああ、奴と出会ったのもこんな日だった。
トリタスの白銀の花は出会いをもたらす。そして、ノーシルの甘い香りは別れの挨拶を表す。偶然であり必然だと、世界は私に情熱的な言葉で囁いた。
海のように深い青に、白銀の欠片が一枚舞い降りる。肩で切り揃えられた髪に付いたそれを彼女は手に取り、愛おしげに見つめた。その表情はとても悲しげで、どこか温かい感情を含んでいる。
「いい方でした。本当に……」
「にゃーう……」
――水晶を纏う花を貴殿のやり方で導いてくれ。反逆者ローティスのように、または双愚者ハルダリア・オルトリアのように。それが奴の遺言だ。
……貴様は馬鹿だ、どうしようもないほどに馬鹿だ。お前は私が逝っても悲しむものなど居ないだろうと言ったが、現実はどうだっただろう。少なくとも、一人の少女の心を蝕んでいるではないか。
そして、水晶を纏う花が誰のことか言わずに死ぬとは、本当に最後まで迷惑な奴だ。
「ぶにゃー……」
「ご機嫌斜めですね。どうしました?」
「にゃー、うーっ。……にゃにゃー」
「……人捜し、水晶を纏う花。そうでしたか」
そこまで話して、私はやっと気付いたのだ。私はなんと愚鈍で盲目だったのだろう。私の探し物は、探し物自身から勝手にやって来るように仕掛けられていたのだから。
彼女が服の袖で涙を拭い、私を屋根に降ろした。
「ダリオルニア様、奇遇ですね。わたしも探し物をしていたんです」
私は猫を被るのを辞め、彼女から距離を取る。あの忌々しいことばかりする友はこうも言っていた。
――貴殿が気に入る器なのか、一応彼女を試して欲しい。
あの世に行ったとき、何かの間違いで奴に会うことがあったならば、二回三回と噛み付かないと気が済まないものだ。
「場所を変えようか、ここでは暴れられまい。――ああ、これは探し物の駄賃だ」
小手調べと時間稼ぎを兼ねて、魔弾の術式を十二発程当ててやろうと正確に狙って撃ち込む。しかし、彼女に届く前に魔法文字を組み合わせて作った術式は解れた糸のように無意味な言葉へと砕けて、魔弾の代わりに花の形をした水晶の欠片が地に落ちた。
――素晴らしい。お小遣い代わりに死か傷を与えようとしたのに、彼女はその場から動くことなく対処して見せた。
その様に、喉が無意識のうちにこの生き物特有のゴロゴロという音色を奏でる。この娘が有り余る魔力を他人に振るおうとしたとき、どんな災厄のようなことが起きるのか、とても楽しみだと思ってしまった。
……ここでメモは途切れている。