ユグドラシルさん、外の世界へ
なんか適当に、思い浮かんだ感じで……。
……汚染された世界。空は黒く染まり、太陽は消えた。川は濁って元の色を失い、大地は渇いてひび割れる。
そんな世界に、わたしはただ一人、取り残されていた。
「みんな……死んじゃったね……」
返事なんて期待していなかった。誰に言ったわけでもないその言葉は、誰に拾われるでもなく、虚空へと消えた。
終わってしまった世界。ここに残っているのは、私と、それから、死んでしまった仲間たちだけだ。
地面に生える燻んだ色の花に触れた。汚染されてしまったこの世界で生き抜くことはできない。この子も、死に絶えてしまった。
「わたししか……いないんだ……」
正真正銘、わたし一人。わたしが最後。最後の『ユグドラシル』だ。
ここは……かつて、『ユグドラシル』と呼ばれていた世界。世界樹ユグドラシルと、その恩恵を受けた植物たちが暮らす、平和で、豊かだった世界。
わたしもその一つ。ユグドラシルの種子から生まれたユグドラシルの子供。最も若きユグドラシル。大地に根を伸ばし、天へ向かって枝を向け、青々とした葉を繁らせる。それがわたしたちだった。ユグドラシルは、そういう世界だった。
でも……ある日、変わってしまった。
もう、どれくらい前だっただろう。この世界を照らしていた太陽が突如として消滅し、空から黒い星が降ってくるようになったのは。
命の綱である陽の光は太陽が消えたことで失われ、水は黒い星によって汚染された。この星は、わたしたちユグドラシルや植物たちが暮らせるような世界ではなくなったんだ。
あそこでも、向こうでも。昨日まで元気だった子たちが、次々と生き絶えていく。そんな光景を毎日のように見てきた。まずはユグドラシルの恩恵が少なかった子たちから。それから、恩恵を受けていた子たち。果ては、ユグドラシルそのものまで。
仲が良かったみんなも、もういない。この世界に残ったのは……わたしだけ。
そんなわたしは、まだこうして生きている。大樹ユグドラシルとしての姿ではなく、『人』としての姿で。
「みんな……わたし、そろそろ行くよ」
残ったユグドラシルは、最も若きユグドラシルに全ての力を託した。この世界を出て、新たな世界に再びユグドラシルを再興するための力を。それを為さなければならないのが、わたしだ。
そのためには、ユグドラシルとしての姿ではダメだ。世界を渡り歩くための力がいる。そこでユグドラシルたちは、かつてこの世界に『一人だけ』存在した、人という存在を模した。
わたしは……大樹としての姿を捨て、人となった。勿論、中身は植物のまま。あくまで、外側だけの話だ。
最も年老いたユグドラシル。世界樹そのもの。その太く大きな幹に手を添えて、祈るように目を瞑った。今までどれだけの恩を受けてきたのか分からない。
だからこそ、わたしが救うんだ。この世界はダメかもしれないけど、違う世界で。必ず、ユグドラシルを蘇らせてみせる。この手で。
「みんな……行ってきます」
手を離し、躊躇いながら踵を返した。その先には光が見える。
この先に、外の世界が待っている。ユグドラシルの外。初めての世界。恐怖も不安もある。だけど、やり遂げてみせる。それが、ただ一人生き残ったわたしに残された使命だ。
光に向かって、一歩、踏み出した。
* * *
光のその先には、闇があった。真っ暗で、黒く輝いていて……まるで、何かがわたしの上に覆い被さっているみたいに。
いや……、
覆い被さっているな……!?
「んにゃっ!?」
「うわっ」
焦って飛び起きると、上に覆い被さっていた何かは驚き飛び退いた。じっくり見れば、それは人間。多分、女というやつだと思う。
黒い髪、黒い瞳。不思議そうにこちらを見つめる女は、何か言いたげだった。
「……誰?」
「え、私?」
頷く。他に誰がいるのかと。
「私、ハミ。こんなところで寝てると風邪引いちゃうよ」
「こんな……ところ……?」
ハミという女が言ったことの意味がよく分からず、辺りを見渡してみると、私はどうやら川のほとりで気を失っていたようだった。
でも……空は青く、川は澄み渡り、植物は元気。木々は青々とした葉を広げている。
空にはわたしたちを照らす太陽があって……ここは、間違いなく、ユグドラシルとは違う世界だった。
「……ここが、外の世界……」
「え、なに、外の世界?」
キョトンとするハミを他所に、私は猛烈な渇きに襲われていた。何せ、ユグドラシルが汚染されてから、まともな水分など摂っていなかったんだ。すぐそこに綺麗な川があるというのに、これ以上我慢する必要などあるものか。
わたしはすぐさま、腕から根を伸ばして水を吸い込もうとし……やめた。
(おっと……人間はこんなやり方はしないんだった)
一人の時ならばいざ知らず、目の前にハミという人間がいるのに、このやり方をするのは少々まずい。別に人間でないことがバレたところで不都合があるとは思えないけど、好都合だとも思えない。
落ち着いて、川のすぐそばに移動し、しゃがむ。そして両手を合わせて器のような形にすると、水を掬った。
黒い星に汚染されていない、透き通った水。思わずよだれが垂れてしまいそうだ。
それを、口元へ持っていき……一気に、飲み干した。
(……っ、くぅっ……!)
渇ききった身体に、水分が沁み渡る。一気に身体が潤うような感じがして、気付けば、口を川につけて直接飲んでいた。
ごく、ごく、と。大きな音が鳴るくらい必死に、水を欲した。以前はこんなに必死になることなんてなかったけど、やっぱり、失ってから初めてその大切さに気付くんだろう。ただの水が、こんなに美味しいだなんて。
「あ、ねえ、そんなに喉渇いてたの? 大丈夫? 熱中症?」
……おっと。
ハミのことなどすっかり忘れていて、わたしは一旦川から口を離すと、軽く顔を洗ってから彼女に向き直った。
「ごめん……乾いてて」
「ああ、そうなんだ。別に気にしなくていいけど」
特に突っ込む様子もなかったハミは手を振ると、そのまま続けた。
「君、こんなところで、迷子?」
「あー……旅の、途中?」
「なんで疑問形?」
なんと説明すれば良いのか、分からなかった。こことは違う世界から来た、だなんて言っても信じてもらえないだろうし、言う気もない。かといって、ただ単に迷子だと言って家まで送るだなんて返されても困る。
わたしは……旅の途中。遠い遠い、地図にも載っていないような小さな村から来た。今は……昼寝をしてた、ってことにしておこう。
「実は……」
それから少しかけて誤魔化しつつハミに説明をすると、何だかんだで納得してくれたみたいで、それ以上詮索する気もなくなったみたいだった。
「大変だねぇ。いなくなったお兄さんを探して旅だなんて」
「そう、だね……」
……何だか、よく分からない方向へ話が飛んでいったのは別として。
「ハミは……どうしてここに?」
ボロが出ないうちに、誤魔化すようにそう聞いた。ハミは困ったように頭を掻いた。
「あいや、ここら辺で凶暴な獣が出た、って話を聞いて駆け付けたんだけど、見つからないんだよね」
「凶暴な……獣?」
「ん。話を聞く限りじゃイノシシっぽいんだけど」
イノシシ。その言葉に聞き覚えはない。だけれど、ユグドラシルのみんなから託された力と記憶の中にはある。多分、かつてユグドラシルにいたっていう人間との対話で得た知識だろう。
凶暴な獣……大きくて、毛が生えてる。個体によっては発達した牙も。そんなものがこの辺りにいるらしい。
わたし自身、特別戦闘能力が高いというわけじゃない。襲われたら、ひとたまりもないな。
「ハミなら、倒せるの?」
「こう見えても強いんだよぉ、私」
そうは見えない。だけど、本人がこれだけ余裕ぶっているのなら大丈夫なんだろう。
……そうだな。この辺りに出たって言うなら、少し、聞いてみようか。
……みんな、聞こえるかな。
わたしは、みんなに問いかけた。生い茂る木々、花、その他様々な植物たちに。
今は人の姿でも、わたしの本質は『大樹』。植物との会話はお手の物だ。
……この辺りに、凶暴な獣はいる?
再び、問いかけた。どうやらみんな、戸惑っているみたいだ。ここらの植物と話せる存在は、わたしが初めてみたいだね。
でも、少しずつ慣れてきたのか、返事をしてくれる子が増えてきた。わたしが敵じゃないと分かったんだと思う。
そしてその中に一つ、興味深い情報があった。
「……向こうの方に、いるかも」
「え? 何が?」
「イノシシ」
どうやら、向こうの方で木々がざわめいているみたいだ。植物から植物へ、そしてわたしへ。又聞きした情報だから確かどうかは分からないけど、大きな獣がいるのは確かみたい。
「……なんで分かるの?」
「……そういう……魔法?」
「えっ、何それ便利すぎない? 私にも教えて?」
それはちょっと難しい。そもそも魔法ですらないし。
……ともあれ。
「とにかく、倒しにきたんだよね。早く行かないとまずいんじゃない?」
「ん、そうでしたそうでした。近隣に被害が及ぶ前に駆除しちゃわないと」
ハミはわたしが指差した方へ向かおうとして……立ち止まり、振り返った。
「そういえば、名前聞いてないね」
「……わたし?」
そ、とハミは頷いた。そういえば、そうだったかもしれない。まだ、名乗っていなかった。
だけど……そもそも、わたしたちには個体名なんて存在しない。世界樹ユグドラシルの種子から生まれた若きユグドラシル。だから、わたしも『ユグドラシル』だ。
だから、強いて、名前を言うなら……、
「……ユグドラシル。長かったら、適当に呼んで」
そう、名乗っておいた。