第1話 守護霊
「いい……か?」
目の前のオレンジ色に縁どられた可愛い鏡。その四角い上端にそれぞれ付いている小さな赤い花が、謙虚なこの部屋の主、実里にとても似合っているなと感じながら、俺はそれを覗き込み容姿を整えていた。
なかなか締まりにくいネクタイをなんとか結び、裾についていたシワを手で伸ばす。
そして再度鏡を見て、これでいいか自分に問いかけた。
「よし」
目のつくところに気になるところはなく、ネクタイも緩すぎずきつすぎずという風になっている。黒い布地に目立つシワや汚れもないし、髪もちゃんとワックスをかけ決まっていることだろう。
「わっ、もうこんな時間。急がなきゃ」
その時、手荷物の最終確認をしていた実里が、常時机の上にある時計を見てあまり時間がないことに気づいたらしい。カバンのファスナーを閉じ、肩にさげてドアの近くにいた俺をすり抜け階下に降りていく。
そのことに少し虚しい気持ちを抱きながらも、俺は実里の後に続いた。台所にいた母親に「いってきます」と告げ、玄関の取っ手を勢いよく引いていく。
一歩外に出ると瞬く間に感じる中との気温差に、一瞬肌を震わせながらも俺は広がる青空を見上げた。
ゆったりと、青と白の対比を見せつけながら流れていく雲。背反し合っているそれらを優しく太陽が包み込み、道行く家々、電柱、コンクリート、端にある草や猫にまで、満遍なく注がれる。
もちろん前を歩いている実里にもその光は届き、ショートカットのサラサラの髪がほのかに漂う風に晒され、柔らかな雰囲気が辺りに漂う。
それは今日この日、入学式という輝かしい一日にピッタリな光景として、俺の目に飛び込んできた。
「新しい友達、できるかな」
真っ直ぐ前を向き、ずっと押し黙っていた実里が、か細い声でつぶやいた。その声は雑踏の中ならかき消されているだろう程に小さく、言ったすぐあとに上を見上げていることから、答えを求めていない一人言であることが見て取れる。
「きっと、できるよ」
けれど、俺は返事を返す。
聞こえていないとわかっていながらも、いつもそうせざるにはおえないのだ。
実里の不安、緊張、ネガティブな考えを、俺の言葉で解消してあげられたらと考えるのも、一度や二度ではない。
(せめて、思いだけでも届いたらな)
そんな無駄なことを考えながら、俺は実里の後ろから隣へと場所を移動し、じっと横顔を見つめた。
人通りの少ない道には、誰の視線も気にせずに色々と吐き出すことができる。
恥ずかしがり屋の実里は学校に着くまでの間、そんな新たな生活への始まりを、不安を、喜びを、空に漏らしていく。
その度に俺は「大丈夫」や「おまえは肝心な所で運がいいからな」などという励ましの言葉を述べながら、学校への歩を進めていった。
――おまえなら、大丈夫だよ。
俺はいわゆる、守護霊というやつだ。
実里が生まれた時から今まで、ずっとそばでその生涯を見守ってきた。
嬉しい時も、苦しい時も、辛い時も、機嫌の良い時も、実里の表情豊かな顔を楽しみながら、一緒にいた。
だが、相手から視認されることなどあるはずもない。
空疎な生活。一人きりの時間の多さ。
守護霊には、それらが強いられる。
しかし、その状況を救ったのもまた実里であった。
実里は大人しめで、波乱万丈の人生があるというわけでもないが、じっと見ていると色んな些細なことに表情を動かす姿が伺える。
飽きることのないそれが、俺にとってどれほどの救いとなってくれたか。
実里には一生知る由もないことだが、俺はそのことに感謝し、この身を捧げて、最後まで見守り続けると決めたのだ。
守護霊としてではなく、自分の意思で。
どんな危険にも実里を合わせてやるものかと、意気込むのだ。