2章⑤
「ひくっ、ひくっ」
くーに呼び出されて壱岐君の家まで来た私は、泣き続ける沙耶ちゃんを前にいきなり言葉を失ってしまった。
硬い表情で腕を組んでいた高倉君はそんな私に一度視線を送った後、沙耶ちゃんの傍に立つ鳰鳥さんへと顔を向けた。
「……それで、どういうことだ? 標」
「圭介の携帯が繋がらない」
「ひっく、お兄ちゃんが、ひっく、家に……家に、まだ戻らないんですっ! 私、私どうしたらっ……!」
沙耶ちゃんの言葉を受けて携帯の操作を始めた高倉君だったが、すぐに舌打ちをして乱暴にそれをズボンへとねじ込んだ。
「あの……、ご両親とかには、その」
声を出した私に、みんなの視線が集まる。
「……りょ、両親は……う」
言葉の途中で俯いた沙耶ちゃんの代わりに高倉君が続きをはいた。
「ここにいる奴らはお前以外、そんなもんに恵まれてねえよ」
「あ……ご、ごめんなさ……」
謝罪の言葉を述べる私の声は震えすぎていて、自分で聞いていてもとても言葉としての役割を担っているとは思えなかった。
「ちょっと高倉君。そんな言い方ないでしょう。空は事情を——」
「知らなかった、とでも続ける気か鬼灯。なら事実を知らなかったら何を言おうと、何をしようと許されるのか?」
「そうは、言わないけど、でも! ……でも」
強い詰問口調の高倉君に、私の弁護をしようとしたくーが黙る。
「信也」
鳰鳥さんの小さな、けれどよく通る声が響いた。
「今はそんな事を議論すべきではない」
「……そうだな。どうでもいいか、あんたのことなんて」
高倉君はもう、私を見ようともしなかった。
「鬼灯」
「これ以上諍いをするなっていうんでしょう、分かっているわよ。……空も、もう気にしないこと。いい?」
そうだ。今は事情を聞いて、少しでも自分のできることを考えなくちゃ。
「話、中断させてごめんなさい。続き、お願い鳰鳥さん」
鳰鳥さんは私の言葉に従い、一同を見渡して口を開いた。
「放課後、少々怪訝に思うことがあったため、私は圭介に連絡を取ろうとした」
「怪訝って何か今回の件に関係あること?」
「関係ある。さもなければ、私はこの場に成瀬や鬼灯が同席するのを許可しない」
私とくーは頷きをもって理解している、という意思を表した。
クラスでも壱岐君以外とは何の交流も持とうとしない二人だ。そんな二人が私たちと言葉を交わすことに躊躇わない今、昼の壱岐君の並々ならぬ驚きも理解できる。
「でも高倉君のブレエスが多い、ってことをみんなに知られるのってそれほど気にすることなの? 数ある話題の一つとして終わりそうだけど……」
「そんなことはない。注視の過熱に伴い信也の実験行程が滞る恐れや、組織自体に関心が向く可能性がある」
組織ってプールのことなのだろうか。それに高倉君の実験行程って、え?
私の視線を受けた高倉君は、すぐに私の言わんとすることを理解したみたいだった。
「同情ならいらねぇぞ。実験体とはいっても、自由が全くないわけじゃねえし」
「あ……ごめん、なさい……」
「空、気にしすぎ」
くーが小声で短く私を諌めて、私に代わって鳰鳥さんに質問を投げかける。
「とにかく、鳰鳥さんはそのことで壱岐君に連絡をとろうとした。でも連絡はとれなかった。それでいいのよね?」
「そう」
小さく頷く鳰鳥さんに向かって、高倉君がくーの疑問の後を繋げる。
「で、標。お前は何に気づいたんだ?」
「これ」
鳰鳥さんは言葉ではなく、何か白いものを高倉君に手渡すことで質問に答えた。私には暗くてよく分からないが……何かの紙のようだ。
「これは変わる前の実験予定表か? これの何処がおかしいんだよ?」
「昨日の予定。総合思念実験と統合思念実験がない」
「何? ……確かに。でもこれ、どういうことだ? ありえねぇだろ」
「そう。おかしい」
高倉君はもう一度その紙のようなものを眺めると、そのまま鳰鳥さんに返した。
「あら、私たちには見せてくれないのかしら」
「悪いな。これはプール内で極秘文書扱いなんだ。おいそれと他人に見せられるような代物じゃねぇんだよ。たく、今日が外出許可の日なら圭介とこうやって離れることも……ちょっと待てまさか、いや。それはありえねぇ」
くーに返事を返す最中に高倉君は何か思いついたようだが、すぐにそれを打ち消すようにかぶりを振った。
しかし流れゆこうとしていたその思慮を、所詮在りえぬ可能性だと高倉君が胸の内にしまおうとしたその思いを、鳰鳥さんが舌に乗せる。
「信也。この件は、始めから圭介が狙いだった」
言葉は、顕現した。
「……圭介が狙い、だと?」
「そう。プールは私が昨日信也の実験予定表を出すことが分かっていた。だからこんな経費ばかりを視野に入れた、粗雑な計画表が出来上がる」
「待て、標」
「圭介がいるのは旧研究施設。一般人が侵入できず、都合がいいあの場所に間違いが」
「標!」
強く訴える鳰鳥さんに、高倉君が待ったをかけた。
「いいか標。お前、俺の外出許可の申請いつ出したよ?」
「……一昨日」
「だろ? 他のプールの連中に標がいつ書類を出すかなんて、予測つくはずないだろうが。プールがきな臭いのは俺も認めるが、今のお前は少々情報に踊らされてるぞ」
高倉君の放った言葉に、鳰鳥さんは黙り込んでしまった。
申請許可、というものが何を指すものかよく分からないけれど、それが提出者の意思によるものなのだとしたら、確かにそれはいつ取るのかなんて分かるはずがない。
「……あの、間違っていたらごめん。鳰鳥さんはかなり前からその、プールにいたんだよね? その、話を聞く感じでは高倉君の管理者として」
それでも、私はある一つのことを聞いてみずにはいられなかった。突然二人の話に割って入る形になってしまったが、鳰鳥さんは些かも驚かずに首を縦に振る。
「そう」
「で、あの、その許可っていうのはよく申請するものなんだよね?」
「……よくあること、と言っていい」
鳰鳥さんはちらっと高倉君に視線を向けたが、すぐ視線を私に戻した。高倉君を見た時の彼女、何だかとても悲しそうに見えたんだけど……気のせいなのかな?
「それが何」
「もう一ついい? ——高倉君のスケジュールを鳰鳥さんが分単位で組んでいる、っていうのは本当?」
私の言葉に高倉君と鳰鳥さんの体が同時にピク、と動く。
「どうして標が俺の監視役だと知らなかったお前が、いやそれ以前にそもそも俺がプールの実験体だということも知らなかった奴がそんなことを知ってんだ」
「独り言よ。壱岐君のね」
私が高倉君に応じるよりも早く、くーが簡素に答えを言った。
「ねぇ、空。私にも聞こえていたけど、でもそれがどうかしたの?」
頬に手を添えて首を傾げるくーに言葉を返す。
「うん。もしかしたら鳰鳥さんが出したその書類、記録として残っているんじゃないかな、と思って」
「記録……なるほど? 長年の統計結果からその申請がどのように取られるものかの推測が立つんじゃないか、って空は言いたいわけね」
私はくーに頷いて鳰鳥さんの顔を窺った。
鳰鳥さんは本当に何でもそつなくやってのける。それは器量だけでなく、やるべきことを行う時期をいついかなる時も過つことがないという要領のよさでもあるはずだ。
私の様な人間には分からないが、絶好の機会なんてものがそうごろごろ転がっている訳がない。いったん彼女の思考のパターンを掴んでしまえば、彼女がいつ何をするかという予測はかなり高い確率で的中するのではないのだろうか。
「……」
鳰鳥さんは何も言わない。その唇は何かを噛みしめるように、強く結ばれていた。
「なに気持ちよく落ち込んでんだよ、標」
お前の推理正しかったじゃねぇか、と高倉君は鳰鳥さんの顔を見ながら言った。
「圭介がどんな理由で攫われたにしろ、圭介から生まれる価値より俺や標の妨害のほうが厄介だと判断させればいいだけだ。問題なんかねぇよ」
「……そんなことをすれば、信也は以前のように監禁されることになる」
「構うか。例えそうなったとしても、お前は俺の傍にいてくれるんだろ?」
虚を突かれて言葉を失った鳰鳥さんだったが、次の瞬間には小さいけれどしっかりと頷いた。
「いる。私はずっと、信也の傍に、いる」
そりゃ重畳、と言いながら高倉君が鳰鳥さんに背を向ける。
「んじゃま、ちゃっちゃと圭介を助けに行こうぜ。怪しの旧研究施設へ」
「ん。……じゃあ沙耶、行ってくる」
「ま、待ってください標さん、信也さん! 私も、私も行きます!」
鳰鳥さんの言葉に、今まで俯いていた沙耶ちゃんが突然その小さな顔を上げた。
「お願いです、私も連れて行ってください! 私のお兄ちゃんなんです! たった一人の家族なんです! こんな時だからこそ私は! 私はっ!」
高倉君は私たちには絶対に見せることのない笑顔を浮かべて、頼りなく立つ沙耶ちゃんの姿をみとめた。
「そうだな。でも、だからこそ沙耶ちゃんを連れて行くことはできない」
「そんな! どうしてですか!」
悲鳴にも似た沙耶ちゃんの声にも高倉君は、動じない。真っ直ぐ沙耶ちゃんの傍まで寄っていき、彼は彼女の頭の上に手を置いた。
「沙耶ちゃん。誰かを助ける行為つーのはな、直接そいつを窮地から救うことだけを意味する訳じゃない。無事でいることが助けになる場合もあるんだ。——自分だけ無事に帰って、大切な人がいなかったり怪我をしていたりしたら喜べないだろ?」
「あ、う」
「大丈夫だ。圭介は必ず無事に連れ戻す」
高倉君は手を沙耶ちゃんの頭から離し、沙耶ちゃんを鳰鳥さんへと委ねた。鳰鳥さんが自分より背の高い沙耶ちゃんの体をやさしく抱きとめる。
「標、さん……」
「心配ない。圭介は元気に帰ってくる。……沙耶に怪我をされると、私たちはとても、悲しい」
「う。う、う、うううううう」
鳰鳥さんは言葉を返す代わりに、泣き叫ぶ沙耶ちゃんの体をより一層ぎゅっ、と抱きしめた。
私にはそんな二人を見ていることしか、できない。
「鬼灯、成瀬。ちょっと」
鳰鳥さんと沙耶ちゃんの二人に目を奪われていた私たちを、高倉君が手招きをして二人から少し離れた場所へと連れ出した。
「で、どうする? お二人さん」
私たちに向ける高倉君の顔は、もういつもと変わらない無愛想なものに戻っていた。
「あら。あんな感動的な話を聞かせておいてそんなことを聞くのかしら」
「……野次馬根性はそれぐらいにしておけ。お前らは特に」
それだけで彼の言いたいことは十二分に伝わった。
——優良生なんて碌なもんじゃないわよ。
ようやく、くーがかつてはいた言葉を理解することができた。
友達が、それも大好きな人が失われようとしているのに、私は動けない。もし動いたら、私はプールに粛清される。
お父さんに、お母さんに、お姉ちゃんたちにもう二度と会えなくなる。
嫌だ。そんなのは……嫌だ。
く、くーは? くーは高倉君にどう答えるの?
「ふん。何がプールよ。……そうよ。そんなの友達を助けるのに関係ない。友達を助けるのに理由なんて、いらない」
くーはすぐに、そう言ってのけた。けどその手も声も震えている。……やっぱり、くーも怖いんだ。でもなら何で? 何でそんなにすぐに答えを出せるの?
「……さっきの会話じゃねぇが、俺にはお前が全然読めねえよ」
くーの言葉にそう返して、高倉君は視線を私へと移した。
「あ、あの、私は……」
「覚悟はあるか、委員長」
「やめて、そんな呼び方……私は、私は……」
耳をふさいで声が聞こえないようにしているのに、高倉君の言葉が頭を突き抜ける。
「……ふん。鬼灯はまだ分からねぇでもねえけど、圭介は何でお前みたいな奴を信用したのかね。全く、理解に苦しむぜ」
高倉君は私を一瞥すると私に背を向け、家の方ではなく道の外へと歩き出した。
「聞くだけ時間の無駄だったな」
「ま、待って……!」
去っていく彼の後に続こうとしたが、足が縺れて地面に派手に転んだ。立とうとしても、でも立てなくて。
棒なんて表現は生ぬるい。私の足は鉛のように動かなかった。
垂れた頭から見えるのは敷き詰められたアスファルトの地面と、外灯に照らされて意味もなく大きくなった自分の影だけ。
けれど突然、その空虚な私が一段と暗く、大きくなった。
顔を上げると目の前に鳰鳥さんが、いた。
「あ、あの、私……」
「あなたは来なくていい」
「あ……あ、あ」
「邪魔」
たった一言の拒絶の言葉なのに、涙が止めどなく溢れる。
静かな足音を残して、高倉君同様彼女もまた去っていった。
縮こまることが作用したのか、実体と同じ大きさの影が投影される。ありのままを写しだす私の影は、どうしようもなく小さかった。
「私には、行く資格も待つ資格も……ないんだね」
自然と口から漏れた言葉だったのに、それを拾うものがいた。
「あなたはそれで、いいの?」
「勿論いいわけないよ! いいわけなんか、ないじゃない! でも、でもっ! 私は、高倉君とも鳰鳥さんとも、くーとも違うもの……!」
くーのようにすぐに決断できなかった。
高倉君の言ったことが耳からどうしても消えてくれない。私は——恵まれている。
「違う? 当り前でしょう、そんなこと。一人の人間が誰か別の人の替わりになんか、なる訳ないじゃないの」
両腕を掴まれて、くーに顔を覗きこまれた。
「しっかりなさい、空。『助ける理由は一つ。あなたが私にとって失くしたくない人だから』そう言って私を助けてくれたあなたは、何処へいってしまったのよ? 空、あなたにとって壱岐君は失くしてもよい人なの?」
すっと目の前に手が差し出された。私よりも少し大きな、それでいて細いくーの手。意味を計りかねて私はくーの顔を見た。
「さっさと立たないと手、引っ込めるからね」
掴んだ。その途端に手から体に温かい感覚が伝わってきた。
「手がかかる子。ほーんとに」
「う、うるさいわね……! へへっ……沙耶ちゃん、こんなかっこ悪い先輩でごめんね」
私が立ち上がると同時に憎まれ口をたたいてきたくーの手を払い、一人後方に佇む沙耶ちゃんに顔を向けた。
沙耶ちゃんは外灯から少し離れた位置で、笑みをたたえて私たちを見ていた。時折月の光を浴びて映し出されるその顔からは、まだ渇ききれていない涙がみてとれる。
沙耶ちゃんは静かに声を発した。
「いえ。私は先輩のことが羨ましいです。……私はどんなに頑張って立っても、守りたいと思う人たちの余計な気苦労を増やしてしまうだけですから」
「……沙耶ちゃん」
間違っている。
こんなにお互いのことを思いあえる人たちが悲しい顔をするのは、間違っている。
「行くよ、くー!」
私には確かに壱岐君の傍に立つ資格はないのかもしれない。
でも私はこの子に笑っていてほしい。彼らが笑いあっている状況を作り出したい。私が立ちあがる理由なんてそれでいい。
「あの、でも、どうなさるんですか? お二人はお兄ちゃ……兄の居場所を知っている訳ではないんですよね?」
両の頬を手で叩いて気合を入れる私に、沙耶ちゃんが言いにくそうに尋ねてきた。
「あ……」
そうだった。あの二人がいない今、私たちに旧研究施設なる場所を知るすべはない。あまりに格好がつかない門出だった。
「ど、どうしよう、くー」
「空。事態というものはね、いつだってそうありたいと思う者を導くものなのよ」
そう言って、今まで静観していたくーは手のひらの小さな物体を私に向けた。外灯の光を受けてその姿が露わになる。
「……宝石?」
私と沙耶ちゃんは目を合わせて首を傾げるだけだった。