2章③
手を止めて窓の外を眺める。
空は茜色に変わり、どことなく憂愁を感じさせた。先ほどまで元気にグラウンドで部活に精をだしていた生徒たちも今はいない。この広い学園にいる生徒は僕一人だ。
昨日外出許可が下りたばかりの信也は今ごろ、実験開始時刻まで標ちゃんと自室で待機しているはずだ。空蝉さんたちに話をしたことだけは二人に伝えたし、多分今日は今後の方針を話し合うことになるだろう。
「それにしても今日は疲れた。本当に疲れた」
昼休み以降の騒動を思い出して思わず笑いが漏れた。
結局僕は授業開始のチャイムが鳴る中、成瀬さんが冷静になるまで永延と彼女の説教を聞き続ける羽目になった。
更にその後二人で遅れて教室に入ったせいで周囲にカップル扱いされるわ、羞恥心によって成瀬さんは気絶するわ、ソートのおかげでガンガン感情を示す色が流れてくるわで、今の今まで休まることがなかった。
「ま、うまい具合に成瀬さんの注意は僕から逸れたみたいだし、いっか……ふぁああ」
あくびを噛み殺しながら伸びをする。
昼に二人わかった情報はメモに纏めたし、後は信也の部屋で考えるとしよう。そう思ってメモをカバンに仕舞おうとしたところで、カバンから何か別の紙が床に落ちた。
「あれ? 信也の実験予定表? 日付は今週になってるけど、今週に貰ったのは信也が雨に濡らしてぐちゃぐちゃ……あ、標ちゃんに貰った変わる前のか。……ん?」
ふと、何かに違和感を覚えた。
信也に貰った変わった後の実験予定表を取り出して見てみる。
分からない。今感じたものはなんだ? 僕は何に引っ掛かりを感じた?
——この二つの実験だけは必ず毎日やってるんだからよ。
一足先に思考を理解した心臓が早鐘を打つ中、僕は二つの紙を見比べた。
変わる前の予定表の、昨日の日付には。
必ずあるはずの総合思念実験と統合思念実験が、予定に組まれていなかった。
「違和感の正体はこれか……。でもこれ、どういうことなんだ?」
毎日あるということはそれだけ重要なもしくは継続による効果が期待されている実験のはずだ。だというのに変わる前の予定表には組まれてない。
「そういえば前に標ちゃんは『この二つはメインの実験なだけに器材の準備だけでも費用が物凄くかかる』とか何とか言っていた気がする。……じゃあプールは、この実験が組まれても意味がないことを知っていた?」
とにかく二人に知らせよう。此処に何かすごい意味がある気が——
突然、背筋が凍った。
色が視える。それも一つじゃなく、幾つも。
「ううう……」
ひどい嘔吐感が込み上げてきた。
姿は見えないが七、八……十人以上の感情が一気に向けられている。それも温かい感じのものではなく、一つ一つが僕を縛ろうとする鎖を連想させる冷たい黒色だ。どう考えても好意的なものではない。
(落ちつけ。姿を見せないということは、まだ僕の動向を計っているということだ)
それに視えた数は確かに複数あったが一つの方向からだけだった。視えた通りに僕を捕えるのが目的なら、彼らが今すぐに行動するとは思えない。
(けど、この手勢だ。僕が少しでも監視されていることに気づいたそぶりをみせたら、彼らは間違いなく行動にでる)
不自然にならないように注意してカバンに荷物を詰める。その一動作ごとに彼らが敏感に反応していることを僕のソートが告げる。
(僕のアドバンテージは彼らが僕を取り囲む前に監視されていることに気づいたことと、どの辺りから監視されているかソートでおおよそわかること)
とわいえ悠長にしている時間はない。こうしている間も彼らは着々と準備を進めているのだ。
気は進まないが、逃げるには相手の心を積極的に視るしかない。僕はもっと正確に襲撃者の位置を確かめるため、全神経をソートに傾けた。
「……っ!?」
驚きが口に出そうになった。
先ほどあれほど強く僕に向けられていた感情が、今は微かに感じられる程度でしかない。それも意識的に視ようとしてだ。
(ど、どういうことだ? 包囲が完成したり僕が気づいたことを勘づいたのなら、余計強く感じるはずだけど。意図的に感情を隠したとでもいうのか?)
ともかく相手の正確な位置を知りたい。教室を出ながら、必死に頭を巡らせた。
(何か一瞬でも、もう一度相手の感情を揺さぶるることができれば……。一か八か)
おもむろにポケットから携帯を取り出して電話をかける動作をとった。
うって変わって、瞬時に乱れた感情が複数流れ込んでくる。
(よし、まだ電波妨害までは手が回ってなかった! 包囲の穴は……ここか!)
携帯をしまって全速力でその一点を駆け抜ける。
「! 対象が逃げたぞ! 追え!」
彼らの中に混乱が生まれたのは一瞬で、すぐに機敏な動きで幾人かが迫ってくる。だが一度動揺さえ起こしてしまえば、地の利と心の視える僕に軍配が上がる。
僕はまず死角の多い物陰を利用して、追いかけてきた相手をやりすごした。突然姿を消した僕を前に動揺が波及する。焦る彼らは連絡を互いの連絡を取り合おうとするが、それが呼び水となって逆に襲撃者全体に波紋が及ぶ。
後は視えてくる彼らの感情とは逆の方向に動けばいいだけ。そのはずなのに。
「……おかしい。まただ」
心の動揺に嘘はつけない。だからこそ彼らのいない安全な道ばかり選んでいるというのに、僕の行く先々には幾度となく僕に向ける負の感情があった。
「何でこうも僕の動きを先読みできるんだ? ……っ! 優良生用の監視カメラか!」
それが学園に協力を得たものか無断使用なのかは分からないが、改めて彼らの手際の良さに僕は舌を巻いた。だが、それならこっちから襲撃者に姿を見せればいい!
「!?」
まさか真っ正直に姿を見せるとは思ってもみなかったであろう、出くわした襲撃者の一人が立ちすくむ。
一瞬でも姿を相手の目に宿したら次だ。すぐさま別の襲撃者の元へと向かった。
「! 管理室からの指示通り対象が現れた! 応援を求める!」
「馬鹿を言うな! 私は今、自分のところに向かっているとの報告を——」
「待て。今、対象が向かっているのは私のところだとの報告が——」
「落ちつけお前たち! 自身の持ち場を優先すべき——」
逃げる僕を追う男が、そんな言葉を垂れ流す無線機に怒鳴り声を返す。
「何を言う! 先ほどから対象は姿を見せてもすぐに逃げているんだぞ! 既に見えている対象を取り囲んで一気に捕まえるべきだ! 対象はソートを使う——化け物だぞ!」
化け物、か。
やりきれない思いを感じながら追ってくる男を振り切り、僕は一気に校外まで出た。
「ふぅ……。これからどうしよう」
家に逃げ込むのは論外。プールが怪しさを帯びる以上、信也の部屋も危ない。
二人に連絡を取ろうにも先ほど包囲を抜け出すことに役立った携帯は、今この場では自分の位置を知らせる発信機に変わっていることだろう。
「……ほとぼりが冷めるまで人ごみに紛れるのが一番、かな」
「ほう。それは困るな」
振り返ることもあたわず、強い衝撃が体を貫く。
地面に落ちると同時に、脳裏には崩れた家と沙耶の泣き声が浮かんだ。
そうして、僕の意識はそこで途絶えた。