1章③
家を飛び出した僕は初め何の目的もなく、ただぼんやりと振り止まない雨を眺めながらさまよっていたが、結局いつもの場所へと足は動いていった。
いつもの、かつて僕の家だったものの前に腰を下ろす。
ここにはもうこない、来るたびにそう決めたはずだった。初めの決意は全てが始まった、いや全てが終わった日。
世界にはどれだけ望まなくても手にしてしまうものがあり、どれだけ望んでも手にできないものがあるということを僕が知った日だ。
ここには沙耶の泣き声以外に声という声は何もなかった。笑い声も、怒鳴り声も。
僕たちが帰ってきた時、もうそんな声をかけてくれる人たちはここにはいなかった。全てが、終わった後だった。
体に纏わりつく雨が冷たい。
「そういえば、あの日も今と同じように雨だったな……」
——圭介。駄目だと思わず、何事もがむしゃらにやってみなさい。そうすることで、きっと見えてくるものもあるから。
そういって頭を撫でてくれた父さんはもういない。
強い望みがあればこれ以上何かを失わずに済むのだろうか。僕がもっと強い意志さえ持っていれば沙耶は泣かずにすんだのだろうか。
だから当時の僕は目の前で泣く沙耶に誓った。どうか彼女を守れる力を下さい、と。
「……あれから、何も変わらないな、僕は。変わったのはソートを手に入れたってことぐらいで後は口ばっかり。ほんと、弱いままだ」
手足はかじかんで吐く息は白く、ズボンやシャツは水を吸って冷たく重い。何もかもが億劫に感じ、隆起したアスファルトが体に当たるのも構わずに体を横たえた。
「ああ……。見たな、こんな景色も」
そこには身長が伸びて見ることのなくなった世界が広がっていた。
時分はまだ早かったが雨という薄いカーテンが光を絞り、空には月がくっきりと見えている。あの頃大きくなって手を伸ばせば届くと思ったそれは、今も届かない。
「おいそこのチキン」
声のした方に体を起こして顔を向けると、突然何か白いものが僕の顔を覆った。
「うわっ?」
「はははっ、まぬけめ……しょっと」
たった数時間前に聞いた声なのに隣から聞こえてくる声が今はひどく懐かしい。
「何すんだよ! 信也!」
顔にかかったものを取り払う。白いものはタオルだった。
「それ以上雨に打たれると更に馬鹿になっちまうぞ」
「だれが馬鹿だ」
「俺の目の前でずぶ濡れになってる奴。こんな大雨の中傘も持たないで外に出る人間」
「……じゃあ信也もじゃないか」
雨合羽を着ているわけでもない。僕と同じで体に降り注ぐ幾多の雨粒の洗礼を受け、ずぶ濡れだった。
「へっ、俺はお前と違って馬鹿でいたいんだよ。……しっかし、何度見てもこの辺りはひでぇな、神災の傷跡」
「そうだね。地獄絵図だ」
信也にならって周囲見渡した後、僕は目の前にあるかつて家だったものに視線を向けた。どこを見ても同じ風景だ。この地区一体には廃墟しかない。
「十年も経ったのにここらは修繕されねぇんだな」
信也はつまらなそうにそう言うと、遠くの建物に向かって座ったまま石を投げた。石は綺麗な放物線を描いて飛んでいき、やがて眼で追うことはかなわなくなった。しばらくしてカラン、という音が小さく響く。
「観光地化の計画もあるぐらいだからね……よっ」
僕も手ごろな石を掴んで投げる。それは信也の投げたそれより幾分小さな弧を描き、廃墟へと消えた。
「はは。こればっかりは信也には何度やっても勝てないや」
「たりめぇだ。俺がお前なんかに負けるか。でもよ、自然つーのはほんと何考えてんだろうな」
「……さぁね」
無生物にも思念がある。
先ほどの沙耶のように、こんなことを聞かされて初めから信じていた人間はほとんどいなかった。
けれど十年前、局地的な大規模災害が各地で同時に起こり認識がかわる。
現在の自然科学では説明のしようがなく、レイエスが膨大な自然のソートと考えるのが一番納得のいく説明だったのだ。
確定されたわけではない、それは確かに標ちゃんの言うとおりだ。
だが人間は理論だてて説明できないものに恐れや不安を抱く生き物なのだ。
意思疎通が必要なだけなら、他の動物と同じで鳴き声や動作といった原始的な記号でいい。それでは嫌だったから物事を納得する道具として言葉を生みだした。現象一つ一つ、対象一つ一つに個別の「名前」を与えてきた。
納得をするために。恐れを拭うために。
言葉は強い。未だその災害をソートのものだと認めていない人間すら、「神災」という言葉は受け入れているのだから。
僕が信也に言った被災地の観光地化というのはわりとよくある話で、実はこれも商業地化というより神聖化の意味合いの方が強い。
我ら恵みを与えたもう自然に幸あれ。母なる大地よ怒りを鎮めたし。
そういう、意味らしい。
僕が投じた石は待てども音を奏でない。見切りをつけて、信也の方に顔を向けた。
「沙耶もいないし、さっきの話の続きをしてもいいかな信也」
「だからお前が心配するようなことは何も無いっつーの」
「嘘はよくないよ信也。プールには誘拐や人殺しまで許容されている『暗部』ってものがあるんでしょ?」
「……調べたのか、圭介」
信也は気まずそうに僕から顔をそむけながら言った。
「教えなかったのは悪かった。……けどな、知ったらお前は絶対に俺や標を連れ出す、とか言いだすだろ。先に言っとくが俺は実験のメインプランで標はその監視役だ。プールを抜けるなんて不可能だぞ」
「で、でも……! だからといって二人をこのままにしておけないよ!」
引き下がろうとしない僕を見て信也は大きく息をはいた。
「じゃあ聞くが圭介。仮に俺たちがプールから逃げだせたとしよう。それで、どうやって生活をするつもりだ。今の世界でプールに逆らうってことは二度と太陽の下を歩けないのと同義だぞ」
「それは……」
「帰る場所なんか初めからねえ俺や標はそんな生き方でもいいさ。だがお前はそうじゃないだろう? 帰るべき場所が、守るべき人がいるだろうが」
沙耶。守ると誓った、いや違う。必ず守らなければならないもの。
「お前は今まで何のために沙耶ちゃんをレイエスから遠ざけてきた。そのお前がレイエスの渦中に飛び込むのか?」
言葉に詰まる。言い返えせない。
「悩むなよ。別に俺たちは殺されるってわけじゃない。だろ?」
……沙耶、か。
「ねぇ、信也。僕が沙耶をソートから遠ざけたこと、……間違っていたのかな」
本当にこれでよかったのだろうか。僕は沙耶に対して正しいことをしているのだろうか。そう思うと弱気な言葉が口から出た。
「……そんなの、誰にも分かんねぇよ」
「確かに。僕がこのソートで視えるのは僕自身に向けられた感情の色だけだし、ね」
僕には他人が自分に向ける感情が赤や黒といった色で視えるだけだ。聞こえる声は幻聴でしかない。幻聴だというのに、この体の震えは止まらない。
「ソートを持つが故の悩み、か。はは、俺には夢のまた夢だ」
信也の渇いた笑い声が廃墟に響く。……そうだ。実験のことなど何でもないことのように信也は言っていたが、そんなことはあるはずがない。
「お前、今日告白されたんだって?」
「……何でそんなこと信也が知ってんのさ」
「さっき沙耶ちゃんが話してくれた」
「……沙耶が?」
訝しむ僕に対して信也は「聞けたのはそれだけだけどな」と肩を竦めた。
「相手は誰だ? 牧か?」
無言で僕は首を縦に振った。
「その反応じゃ結果は聞くまでもねぇ、ってか。今まで改めて聞いたことなんか無かったが、好意であっても怖いもんなのか? その、感情が視える、つーのは?」
そうじゃない、始めにそう断っておいて言葉を続ける。
「僕は自分に向ける感情が読み取れる分、相手の気持ちを誘導できる立場にあるんだ。そんな僕に人を好きになる資格なんかあるはずないじゃないか」
人間は動物とは違う。一人一人に自我というものがあってそれが見えないものだからこそ、他人と互いを認め合ったり衝突をしたりすることができるのだ。僕のように常に嫌われる選択肢を排除できる人間には成長もなにもない。
「僕の行動は、全部……偽善だよ」
「お前いっつもそんなこと考えてたのかよ。沙耶ちゃんに対しても?」
呆れはてる信也に僕は抱え込んだ足に顔を埋めながらイエス、と告げた。
「そんなこと気負んなよ。そういった思考はいい結果を生まねぇぞ」
「分かってるさ。分かってはいるんだけど、ね」
「いいや。お前は全く分かってねえ」
信也が僕の頭をがし、と手で掴んで引っ張り上げ無理やり僕の目を見た。信也の心は標ちゃん同様、やっぱり視えない。
「……いい子だぜ。沙耶ちゃんは」
「だからそれも分かってるさ。いつだって沙耶は僕の自慢の妹だよ」
今の僕があるのは沙耶がいるからだ。沙耶が本当に僕の守りたいものであるから——だから、後一歩彼らに踏み出す踏ん切りがつかない。
「へぇ。嫌われてる、とか思っているのにか?」
からかうように僕を見る信也に幾分不機嫌に言葉を返す。
「それとこれとは別。いっとくけど沙耶に手を出そうとしたら絶交だからな」
「シスコン」
「うるさい」
信也は僕の返答に満足したのか、足だけで体を起こして立ち上がると手でズボンの汚れを払った。
「行くぞ。これ以上雨に打たれると三人全員初っ端の授業が保健室で睡眠学習だ」
腰を屈めて信也が僕に向けて手を伸ばした。
「さすがにそれは嫌だね……っと」
力いっぱいその手を掴むと信也は笑って、もっと強い力で僕を引き上げてくれた。
「よっしゃ。ゴールは公園の入り口、今標の立っている位置な! ……スタート!」
「うわっ、信也! ずるいぞ!」
僕たちは、人が三人入ってもまだあまりある……そんな大きな傘を広げて一人佇む無表情な少女の元へ向って勢いよく走り出した。